第一部前半 第七章:捨て駒の覚悟
司令部天幕から戻った俺は、しばらくの間、自分の天幕で呆然と座り込んでいた。 ボルグが差し出してくれた水を、意味もなくただ喉に流し込む。味がしなかった。
「…どうなった」
ボルグが、低い声で尋ねた。
「どうにもならんさ。俺たちの総司令官様が、森のエルフ氏族の裏切り者を、証拠を並べ立てて丸裸にした。それだけだ」
「ほう。それで、その裏切り者は処刑されたのか」
「いや」
俺は力なく首を振った。
「処罰は、なしだ」
その後の顛末は、噂としてすぐに広まってきた。 裏切り者の名は、ドゥムノリクス。親ローマ派の指導者ディウィキアクスの弟。
兄であるディウィキアクスが、カエサルの前で涙ながらに弟の助命を嘆願したらしい。そして、カエサルはその嘆願を聞き入れ、ドゥムノリクスを赦免。ただし、厳重な監視下に置く、という条件付きで。
兵士たちの間では、「総司令官は情け深い方だ」という安堵の声が広がっていた。
だが、俺にはその「慈悲」が、底知れぬ計算の上に成り立った、恐ろしい一手に見えてならなかった。
カエサルは、ドゥムノリクスを殺さなかった。殺さずに生かしておくことで、兄のディウィキアクスに一生返せない「貸し」を作り、彼を共和国にさらに強く縛り付けたのだ。
そして、監視下に置いたドゥムノリクスは、いつでも好きな時に切り捨てられる、人質も同然の存在になった。 これは、慈悲などではない。より残酷で、より効果的な、政治的な支配だ。 俺は、この軍団の頂点に立つ男の思考の深さに、改めて戦慄していた。
その数日後、軍団の食糧事情は、森のエルフ氏族からの供給が一部再開されたことで、わずかに改善された。
だが、事態は思わぬ方向へ転がる。 斥候部隊が、敵の位置を誤認するという失態を犯したのだ。絶好の奇襲の機会を逃したことで、軍団内には焦りの色が広がり始めた。そして、俺が最も恐れていた事態が、ついに現実のものとなった。
カエサルが、決断を下したのだ。
「これ以上の追撃は困難と判断する。全軍、転進。森のエルフ氏族の都市、ビブラクテへ向かい、補給を最優先とする」
その命令を聞いた瞬間、俺はすべてを悟った。 終わった。俺たちの兵站は、限界に達したのだ。
補給官の側近だった俺だからこそわかる。これは、戦略的な転進などという格好の良いものではない。事実上の「敗走」だ。 俺たちは、背を向けた。 敵に、初めて背中を見せたのだ。
その日の午後、俺たちの部隊が行軍の殿に近い位置を歩いていた時だった。
背後から、地鳴りのような雄叫びが聞こえてきた。 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。 丘の向こうから、無数のさすらいのエルフ氏族の戦士たちが、我々の退却を「逃亡」と確信し、怒涛の勢いで追撃してくるのが見えた。
狩る者と、狩られる者の立場が、完全に逆転した瞬間だった。
「ボルグ!」
俺が叫ぶより早く、ボルグは巨大な戦斧を握りしめていた。
「敵襲! 全隊、戦闘用意!」
ボルグの怒声が響き渡る。俺の部隊の兵士たちは、他の部隊が混乱に陥る中、壁の建設とアラール川の戦闘で培われた練度で、即座に盾を構え、隊列を組んだ。
だが、敵の数は、アラール川の時とは比較にならない。 地平線の向こうまで続く、人の波。それは、もはや軍隊ではなく、復讐心に燃える巨大な津波だった。
「隊長!」
ボルグが、俺を見た。
その瞳に、初めて焦りの色が浮かんでいる。 俺は、迫りくる敵の津波を睨みつけながら、奥歯を噛みしめた。 平穏な任期? 後方への帰還? そんな甘い夢は、もうどこにもない。
ここで死ぬか、生き残るか。 俺の、俺たちの、本当の戦争が、今、始まろうとしていた。
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