第六章:乾いた大地
ブリタンニアの白い崖が水平線の向こうに消え、見慣れたガリアの大地が再びその姿を現した時、船団は安堵と達成感に満ちた歓声に包まれた。
兵士たちは、ガリアの地を踏みしめ、互いの肩を叩き合った。
嵐、見えざる王、そして艦隊の修復。
数々の困難を乗り越えた彼らの顔には、揺るぎない自信が刻まれている。
この年の戦いは終わった。あとは、暖かい兵舎と、仲間たちとの酒盛りが待っているだけだ。誰もが、そう信じていた。
だが、我々が冬営地へと続く街道を進むにつれて、その楽観的な空気は、少しずつ奇妙な違和感に変わっていった。
道端の畑は、枯れたようにひび割れ、黄金色であるはずの麦の穂は、力なく頭を垂れて黒ずんでいる。
家々の前に立つ人々は、勝利の軍団を迎える熱気もなく、ただ、虚ろな目でこちらを見ているだけだった。
その顔には、深い疲労と、そして諦めにも似た影が落ちていた。
「…どうしたというのだ」
俺の隣で、キケロ様が訝しげに呟いた。
「まるで、大地そのものが、病に罹っているかのようだ」
冬営地に到着した我々を出迎えたのは、副司令官のラビエヌス様と、ガリア本土の統治を任されていたトレボニウス様だった。
だが、彼らの顔に、凱旋した仲間を労うような笑顔はなかった。
その表情は、まるで敗戦の報せでも受け取ったかのように、硬く、そして険しい。
その夜、カエサルの司令部天幕には、重苦しい沈黙が支配していた。
ラビエヌス様が、山と積まれた羊皮紙の報告書を前に、重々しく口を開いた。
「閣下。お戻りになられたところ、大変申し上げにくいのですが…」
彼の声は、いつになく乾いていた。
「この夏、ガリア全土を、記録的な大干ばつが襲いました。川は干上がり、井戸は枯れ、そして…収穫は、皆無に等しい」
トレボニウス様が、その言葉を引き継いだ。
「各地の同盟部族からの報告です。彼ら自身の食料さえ、来年の春まで持つかどうか。ましてや、我々の軍団を養うだけの余力など、どこにも残っておりません」
天幕の中が、凍りついた。
ブリタンニアでの軍事的勝利など、一瞬で吹き飛んでしまうほどの、絶望的な報せ。
我々の敵は、もはやガリアの戦士ではない。飢えだ。全ての兵士の腹を満たさなければならない、という、最も根源的で、そして最も残酷な敵。
指揮官たちは、感情的なうめき声を漏らし、天幕は絶望的な憶測と混乱に包まれた。
その混沌とした空気の中、カエサルは静かに手を上げた。それだけで、全ての雑音がぴたりと止む。
彼は、山と積まれた報告書の羊皮紙を一瞥し、そして、俺、レビルスをまっすぐに見据えた。
「レビルス筆頭百人隊長」
彼の声は、冷静だった。
「今、この天幕を満たしているのは、感情論と、根拠のない絶望だけだ。俺に必要なのは、それではない。数字だ。誰もが否定できぬ、客観的な事実だ」
カエサルは、トレボニウス様が積み上げた羊皮紙の山を指し示した。
「これらの報告書を全て、お前に預ける。全ての情報を整理し、計算し、我々が置かれている状況を、正確に、そして冷徹に、数字で示せ。我々に残された食料は、あと何日分なのか。このままでは、いつ、どこで、何が起きるのか。その全てを、ここにいる全員に、明確に説明するのだ」
それは、この混乱した状況に、一本の揺るぎない「基準」を打ち立てろ、という命令だった。
「…御意に」
俺は、そう答えると、部下たちに命じて、その絶望の塊のような羊皮紙の山を、自らの天幕へと運び込ませた。
俺の仕事が、始まったのだ。
羊皮紙の山を前に、俺は狂ったように計算を始めた。
兵士一人あたりが一日に消費する食料の量。そして、この冬を越すために必要な、天文学的な数字。
俺の頭脳が、冷徹に、そして無慈悲に、一つの答えを導き出していく。
(…駄目だ)
指先が、冷たくなっていくのを感じた。
(このままでは、冬の半ばを越す前に、備蓄は完全に底をつく。兵士たちは、飢え、そして統制を失うだろう。軍団は、内側から崩壊する…)
それは、もはや「危機」などという生易しい言葉で表せるものではなかった。
破滅だ。
俺の計算が、この軍団の、避けようのない破滅的な未来を、正確に描き出していた。
俺は、書き上げたばかりの、絶望的な数字が並ぶ羊皮紙を握りしめた。
カエサルが命じた通り、この冷徹な事実を、あの絶望に沈む指揮官たちの前に、突きつけなければならない。
そして、あの男が、この計算結果を前に、一体どのような「次の一手」を打つのか。
俺は、自分の腹の底から、ブリタンニアの嵐よりも、はるかに冷たい悪寒がせり上がってくるのを感じていた。
本当の戦いは、今、この瞬間から始まるのだと。
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