第二章:見えざる王と、二輪戦車の罠
無血上陸から数日後、カエサルは決断を下した。
「クィントゥス・アトリウス」
「はっ」
堅実な実務家である副将が、カエサルの前に進み出た。
「貴官に、五個大隊と騎兵の一部を預ける。この海岸に、我らが帰るべき場所を築け。艦隊を守り、補給線を確保し、何があってもこの橋頭堡を死守するのだ」
「御意に」
クィントゥス・アトリウスは、その重責を、表情一つ変えずに受け入れた。
こうして、我々の軍団は二つに分かれた。
海岸の守りをクィントゥスに任せ、カエサルは主力を率いて、この未知なる島の内陸部へと、深く足を踏み入れていった。
進むにつれて、土地の様子は一変した。
ガリアの明るい森とは違う、どこまでも続く、深く、古い森。常に湿った霧が立ち込め、視界は悪く、方向感覚を狂わせる。
兵士たちの間には、「霧の一族」の噂が、じっとりとした湿気のようにまとわりついていた。
「…何も、聞こえません」
斥候任務から戻ったシルウァヌスが、その美しい顔を悔しそうに歪めた。
「敵の気配も、罠の匂いも。ただ、この霧だけが、まるで生き物のように、我々の感覚を塞いでいるかのようです」
俺の苛立ちは、募る一方だった。
情報がない。敵の数も、位置も、装備も、何も分からない。これでは、計算のしようがない。
俺の最大の武器が、この島ではただの無用の長物と化していた。
その日の午後、事件は起きた。
平坦な森を抜ける街道を進軍していた、我々の隊列の側面。その霧の奥から、突如として、これまで聞いたことのない、甲高い車輪の軋む音と、馬のいななきが響き渡ったのだ。
「敵襲!」
誰かが叫ぶより早く、霧の中から、二頭の馬に引かれた異形の戦車が、嵐のように姿を現した。
二輪戦車。
その動きは、あまりに速く、そして不規則だった。
俺たちが密集方陣を組む暇さえ与えず、隊列の周りを疾走しながら、戦車の上から投槍兵が、次々と槍を投げつけてくる。
「盾を構えろ! 隊列を維持しろ!」
俺が指揮する軍団の長、キケロ様が、声を枯らして叫んだ。
だが、敵は決して正面からは突撃してこない。こちらの陣形が整う前に、風のように現れては投槍の雨を降らせ、そしてまた霧の中へと、風のように去っていく。
「くそっ! 追いかけろ!」
血気にはやる百人隊長が、部下を率いて霧の中へ突っ込もうとする。
「待て!」
それを制したのは、キケロ様の、鋭い一喝だった。
「追うな! 罠だ! 全隊、その場を動くな! 亀甲陣を組め! ただ、耐えるのだ!」
その命令は、消極的に聞こえたかもしれない。
だが、俺には、その判断の正しさが痛いほど分かった。
この状況で下手に動けば、敵の思う壺だ。キケロ様は、派手な戦功を立てるタイプの将軍ではない。
だが、その驚異的なまでの粘り強さと、守りに徹する冷静さは、この混沌とした戦場において、最も有効な「盾」だった。
俺は、筆頭百人隊長として、彼の命令を部下たちに徹底させた。
「聞け! キケロ様の命令だ! 動くな、ただ守れ! 敵の挑発に乗るな!」
ボルグが、その巨大な盾で味方を守り、セクンドゥスが「へっ、亀の子になって、嵐が過ぎるのを待つって寸法かい」と悪態をつきながらも、的確に新兵たちを配置していく。
ガレウスは、追いかけられないことに苛立ち、獣のように唸り声を上げていた。
その日以来、戦いは泥沼の様相を呈した。
俺たちは、霧の中から現れるチャリオットの奇襲に、ただ耐えることしかできない。
損害は、日を追うごとに増えていく。兵士たちの間には、見えない敵への恐怖と、無力な自分たちへの焦りが、じわじわと広がっていった。
「…計算が、できない」
その夜、俺は自分の天幕で、ほとんど空白の地図を前に、頭を抱えていた。
「敵の位置が特定できなければ、損耗率も、補給計画も、何も立てられん。これでは、ただ座して死を待つだけだ」
「隊長」
ボルグが、静かに声をかけてきた。
「あんたのせいじゃない。こんな戦い、誰も経験したことがない。今は、あのキケロというお人の言う通り、耐えるしかない」
その言葉が、少しだけ俺の心を軽くした。
数日後、事態がわずかに動いた。
ガレウスとシルウァヌスが率いる斥候部隊が、命がけで持ち帰った情報。それは、一人の捕虜と、一つの名前だった。
その夜の軍議で、カエサルは指揮官たちを前に、静かに告げた。
「このゲリラ戦を指揮している、見えざる王の名が判明した」
天幕の中の全ての視線が、カエサルに注がれる。
「その名は、カッシウェラウヌス。このブリタンニア南東部を支配する、最も強力な部族の王だ」
カッシウェラウヌス。
その名前が、俺たちの心に、初めて、この捉えどころのない戦争の、確かな輪郭を与えた。
敵は、もはやただの「霧」ではない。意志と、名前を持った、一人の「王」なのだ。
俺は、地図の上に、その名前を書き込んだ。
まだ、ピースはあまりに少ない。だが、確かに、俺の計算は、ここから始まる。
俺は、この見えざる王を、どうやって俺の計算の盤上へと引きずり出すか、そのための、最初の数式を組み立て始めていた。
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