第一章:船出
夏。ガリア北部のイティウス港は、共和国の威信を懸けた、狂気じみた熱気に満ちていた。
目の前の海を埋め尽くす、八百隻を超える大艦隊。
それは、もはや軍隊というより、一つの国家が丸ごと海を渡ろうとしているかのような、圧倒的な光景だった。
俺、レビルスがデキムスやボルグと共に設計に関わった、喫水が浅く、ずんぐりとした新型の輸送船。
それを護衛するように、鋭い衝角を備えた軍船が、幾重にも隊列を組んでいる。
「…壮観ですな、筆頭百人隊長殿」
隣に立つ、若い旗手のルキウスが、興奮に声を上ずらせて言った。その声に含まれる「筆頭百人隊長」という響きが、俺の胃のあたりを重くさせる。
そうだ。俺は、この冬の間に、百人隊長から筆頭百人隊長へと、異例の昇進を遂げていた。
第七軍団から、新任の副将キケロ様が率いる軍団へと、事実上の引き抜きという形で。一個大隊以上の指揮権と、数千の兵士の命の重さ。その全てが、俺の肩にのしかかっていた。
(勘弁してくれ…)
心の中で、何度目になるか分からない悪態をつく。平穏に任期を終えて後方勤務に戻る、という俺のささやかな夢は、もはやガリアの霧の彼方に消え去ってしまったらしい。
「レビルス殿」
背後から、落ち着いた、しかしどこか疲労の色が滲む声がした。
振り返ると、この軍団の指揮官、クィントゥス・トゥッリウス・キケロ様が立っていた。有名な文豪である兄とは似ても似つかぬ、苦労性の実務家といった風貌の男だ。
「出航の準備は、計算通りに進んでいるかね?」
「は。今のところは」
と、俺は答えた。
「ですが、この海域の天候は、俺の計算が最も通用しない未知の変数です。万が一に備え、各船の連携と、緊急時の連絡系統だけは、再度ご確認を」
「うむ。君の言う通りだ」
キケロ様は、俺の報告に真摯に耳を傾け、頷いた。
「君の計算は、常に最悪の事態を想定している。それが、この軍団の『盾』となる。頼りにしているぞ」
その言葉に、俺はただ頭を下げるしかなかった。この新しい上官は、猛将でもなければ、天才的な戦略家でもない。
だが、彼は決して驕らず、他者の意見に耳を傾け、そして、一度決めたことは粘り強くやり遂げる、という美徳を持っていた。
俺とは全く違う種類の人間だが、不思議とやりにくさは感じなかった。
俺は、自分の「家族」たちが待つ、割り当てられた輸送船へと向かった。
「おいおい、筆頭様のお通りだぜ」
古参兵のセクンドゥスが、いつものように軽口を叩く。
「隊長が、どんなに偉くなろうが、俺たちのやることは変わらん。敵をぶん殴るだけだ」
獣人のガレウスは、初めて見る大艦隊に、獰猛な笑みを浮かべていた。
ボルグは、何も言わなかった。ただ、俺の新しい、筆頭百人隊長を示す豪奢な兜飾りをじっと見つめ、そして、まるで「お前の背中は、俺が守る」とでも言うように、力強く一度だけ頷いた。
やがて、カエサルの旗艦から、出航を告げる角笛が、空高く鳴り響いた。
八百隻の船が、一斉に帆を上げ、櫂を漕ぎ出す。その光景は、まさに圧巻だった。
数日間の航海の末、我々は再び、あの白い崖の島、ブリタンニアの岸辺にたどり着いた。
だが、前回とは様子が違っていた。崖の上にも、海岸にも、人影一つない。ただ、不気味なほどの静寂が、俺たちを迎えていた。
「…どういうことだ?」
デキムスが、訝しげに呟いた。
「我々の大艦隊を見て、戦わずして逃げ出したか」
カエサルは、そう言って不敵に笑った。
上陸は、何の抵抗もなく行われた。兵士たちは、拍子抜けしたように顔を見合わせ、そして、戦わずに済んだという安堵の息を漏らした。
だが、俺の心の奥底では、警鐘が鳴り響いていた。この静けさは、あまりに不自然だ。
俺の隣で、エルフの斥候シルウァヌスが、その美しい顔をわずかに曇らせていた。
「…隊長。この島の空気が、変わりました」
「どういう意味だ?」
「分かりません。ですが、風が、奇妙な囁きを運んできます。まるで、森全体が、我々を嘲笑っているかのような…」
その日の夜、野営地で焚き火を囲む兵士たちの間で、一つの噂が囁かれ始めた。
この島の民は、人間でありながら、ガリアの者たちから**「霧の一族」**と呼ばれている、と。
彼らは、戦場で霧のように現れ、こちらの陣形を掻き乱すと、また霧のように姿を消してしまう。その戦い方は、あまりに捉えどころがなく、まるで幻と戦っているかのようだ、と。
俺は、その非論理的な噂話を、一笑に付そうとした。
だが、シルウァヌスの言葉と、この島の不気味なまでの静けさが、俺の計算能力を、じわじわと、しかし確実に狂わせていくのを、俺は感じずにはいられなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!
【先行公開】最新話はカクヨムで連載中です!
いち早く続きを読みたい方は、ぜひこちらにも遊びに来てください。
[https://kakuyomu.jp/works/16818792438187300822]




