第八章:西の果てへ
ライン川の橋が、まるで夢であったかのように跡形もなく消え去った後、軍団には短い休息が与えられた。
だが、その休息は、次なる狂気への助走に過ぎなかった。カエサルは、ライン川の岸辺で、次の作戦を告げた。
「これより、軍を二手に分ける! 俺が率いる本隊は、ここから西へ、ガリアの果てにあるイティウス港を目指す! ブリタンニアへ渡るためだ!」
兵士たちの間に、どよめきが広がる。
そして、カエサルは艦隊司令官のデキムスに向き直った。
「デキムス! 貴官は、ここから南西のロワール川へ向かい、艦隊を掌握せよ。その後、全艦隊を率いて、海路でイティウス港へ向かえ。我々と、そこで合流する」
それは、陸と海、二つの壮大な強行軍を同時に行うという、常軌を逸した計画だった。
「…御意に」
デキムスは、その若々しい顔に決意をみなぎらせ、力強く頷いた。
その日から、俺たち遠征軍は、二つの流れに分かれた。
俺たち本隊は、ひたすらに西を目指す。
ライン川での共和国の威光を見せつけられたガリアの諸部族は、もはや我々の軍団に刃向かう気力さえ失っているようだった。
戦いらしい戦いもなく、ただひたすらに続く行軍は、兵士たちに奇妙な弛緩と、これから始まる未知の遠征への漠然とした不安をもたらしていた。
そして、秋が深まる頃、我々はついに、世界の果てを思わせる、広大な海にたどり着いた。
イティウス港。そこには、ロワール川から大西洋の荒波を越え、長い航海の末にたどり着いたデキムスの艦隊が、すでに雄大な姿で俺たちを待っていた。
潮の香りが、内陸育ちの兵士たちの鼻をくすぐる。目の前には、灰色の空と、どこまでも続く灰色の海が広がっていた。
カエサルの次なる目標、「ブリタンニア遠征」の始まりだった。
その夜、司令部の天幕は、これまでにない緊張と、そして無知からくる不安に満ちていた。
カエサルは、まず若き副将のクラッススに問いかけた。
「クラッスス。現状を報告せよ」
「はっ!」
と、クラッススは意気揚々と答えた。
「長距離の行軍でしたが、兵士たちの士気は高く、補給も潤沢です。この地の民(モリニ族)も、我々に協力的で、特に反乱の兆候は見られません。いつでも出航できます!」
「そうか」
と、カエサルは静かに頷いた。
「では、ブリタンニアについては?」
「そ、それは…」
クラッススは、わずかに言葉に詰まった。
「ガリアの商人たちに話を聞いておりますが、どうにも要領を得ず…」
その言葉を受け、カエサルは天幕の中央に視線を移した。
「…レビルス百人隊長。貴官の計算では、どうだ」
俺のその一言に、天幕の中の指揮官たちが、息をのんだ。
俺は、数日間かけて作成した報告書を、無力感と共に差し出した。
「…閣下。計算不能です」
「ブリタンニアに関する情報は、あまりに少なく、そして曖昧です。ガリアの商人たちに話を聞いても、『白い崖の島』『青い化け物が住む森』といった、神話のような話しか出てこない。潮の流れ、天候、現地の部族の兵力、そして彼らの戦い方。その全てが、未知数です」
俺は、苛立ちを隠せなかった。
俺の武器は、計算だ。正確な情報に基づき、敵の動きを予測し、損害を最小限に抑える。
だが、この戦いには、その情報が一切ない。羅針盤も、海図もないまま、嵐の海に乗り出すようなものだ。
俺は、初めて「計算できない戦争」に直面していた。
「面白い」
カエサルは、俺の報告書を一瞥すると、そう言って不敵に笑った。
彼は立ち上がると、俺のそばまでやってきて、その手を、俺の肩に置いた。
「だからこそ、面白いのだ、レビルス。数字だけで勝てる戦など、ただの作業に過ぎん。俺が貴官をこの遠征に連れてきたのは、計算のためだけではない。その計算が通用しない状況で、貴官がどう動き、どう道を切り拓くのか、それが見たいのだ。貴官の本当の価値は、そこにある」
その言葉は、俺の心の奥底に、静かに、しかし深く突き刺さった。この男は、俺の無力さを責めているのではない。俺の未知なる可能性に、期待しているのだ。
「…やってみせろ。計算屋」
カエサルはそう言うと、天幕の中央に戻り、宣言した。
「デキムス!」
艦隊司令官のデキムスが、前に進み出た。
「艦隊の準備は、万全です」
「よろしい。明朝、出航する」
その決定に、天幕の中がどよめいた。だが、先ほどまでの俺のような、不安に満ちたものではなかった。
カエサルの言葉が、俺だけでなく、そこにいた全ての指揮官たちの心に、未知への挑戦という名の、新たな火を灯したのだ。
自分の天幕に戻ると、俺は、ほとんど空白だらけのブリタンニアの地図を、ただ見つめていた。
カエサルの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。『貴官の本当の価値は、そこにある』と。
「…隊長。地図を睨んでも、答えは出ませんぞ」
副官のボルグが、静かに声をかけてきた。
俺は、力なく首を振った。
「分かっている。だがな、ボルグ…計算できなければ、俺はどうすればいい…?」
その声は、自分でも驚くほど、弱々しかった。
「計算だけが、戦ではないでしょう」
天幕の隅で、エルフのシルウァヌスが、静かにお茶を淹れながら言った。
「…海の向こうからは、奇妙な風が吹いてきます。我らの知る、どの精霊とも違う、古く、そして荒々しい気配。計算できないのなら、感じるしかありません」
感じる、だと…?
カエサルも、シルウァヌスも、同じようなことを言う。俺は、その非論理的な言葉に反論する気力もなく、ただ、自分の無力さに、深く溜息をついた。
翌朝、夜明けと共に、我々はデキムスが率いる艦隊に乗り込んだ。
数百隻の輸送船と、それを守る軍船が、港を埋め尽くしている。その光景は壮観だったが、俺の心を晴らすことはなかった。
カエサルは、旗艦の船首に立ち、兵士たちを鼓舞していた。彼の言葉は、もはや計算や論理ではない。栄光、名誉、そして共和国の未来。兵士たちの心を酔わせる、甘美な言葉の連なりだった。
やがて、出航の角笛が鳴り響く。
俺は、自分の「家族」たちと共に、輸送船の甲板に立っていた。
ボルグが、船酔いを堪えるように、難しい顔で遠くを見つめている。ガレウスは、初めて見る海に、子供のようにはしゃいでいた。
俺は、ゆっくりと陸から離れていくガリアの大地と、その向こうに広がる、霧に包まれた未知の海を、ただ黙って見つめていた。
足元が、不確かに揺れる。
俺は、自分が築き上げてきた、計算という名の確固たる大地から、混沌という名の海へと、今、否応なく漕ぎ出そうとしていた。
その先に何が待っているのか、俺の頭脳は、何の答えも、導き出してはくれなかった。
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