第六章:計算と工芸の融合
その日から、俺の天幕は第七軍団の工兵部隊の司令部と化した。
羊皮紙が壁という壁に張り巡らされ、その上を、俺が狂ったように書き殴った計算式と設計図が、黒いインクの川となって埋め尽くしていく。
俺は、補給官時代の知識と、これまで独学で学んできた全ての数学と物理学を総動員していた。
川の流れが橋脚に与える圧力の計算、数万の兵士を動員するための最適な人員配置、そして、この地で手に入る木材だけで、最大の強度を生み出すための構造力学。
俺は、眠ることも、食べることも忘れ、ただひたすらに数字と格闘していた。
共和国の、そしてカエサルの「不可能を可能にする」という傲慢なまでの意志を、俺の「計算」という名の刃で、現実世界に刻み込もうとしていた。
三日目の夜、俺はついに最初の設計図を完成させた。
それは、共和国の工学技術の粋を集めた、合理的で、効率的で、そして理論上は完璧なはずの設計図だった。
だが、俺の心の奥底では、何かが足りない、という警鐘が鳴り響いていた。俺の計算は、あくまで静的なものだ。あのライン川の、生きて、呼吸し、そして怒り狂うかのような、動的な暴力の前で、この紙の上の理論がどこまで通用するのか。その確信が、持てなかった。
その時だった。
天幕の入り口に、巨大な影が立った。副官のボルグだった。
彼は、俺が不眠不休で作業しているのを知って、夜食のパンと干し肉を運んできてくれたらしかった。
「…隊長。少しは休んだ方がいい」
その無骨な言葉に、俺は苛立ちを隠せなかった。
「休んでいる暇などない! この川に負けない橋脚を作らねば…!」
「計算、か」
ボルグは、俺が壁に張り出した設計図を、その黒曜石の瞳でじっと見つめていた。
彼は、そこに書かれた数式や理論など、一欠片も理解できないはずだ。だが、彼は、その設計図の、ある一点を、太い指でなぞった。
「…この杭の打ち方では、駄目だ」
その、あまりに断定的な一言に、俺は思わず反論した。
「馬鹿を言え! これは、最新の建築学に基づいた、最も効率的な…」
「川の神は、そんな人間の理屈など知らん」
ボルグは、俺の言葉を遮った。
「俺たちドワーフは、何千年も前から、山や川と共に生きてきた。川には、魂がある。このライン川の魂は、今、怒り狂っている。一本の杭をまっすぐ打ち込んだところで、次の日の朝には、赤子のようにへし折られて流されているだろう」
彼は、おもむろに炭を手に取ると、俺の完璧なはずの設計図の上に、無骨だが、力強い線を、何本も描き加えていった。
「一本では駄目だ。二本一組で、流れに対して斜めに打ち込む。互いを支え合わせるように、だ。そして、その二本の杭を、上流側で巨大な梁で繋ぎ、水の流れそのものを、橋を支える力に変えるのだ」
それは、俺が学んだどの教本にも載っていない、原始的で、しかし圧倒的な説得力を持つ、ドワーフの父祖伝来の知恵だった。
俺は、その瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
そうだ。俺に足りなかったのは、これだ。
自然への敬意。そして、その力を利用するという、発想そのもの。
俺は、自然を「克服」しようとしていた。だが、ボルグは、自然と「共存」しようとしていたのだ。
「…ボルグ。続けてくれ」
俺の声は、興奮に震えていた。
その日から、俺の天幕の光は、夜通し消えることはなかった。
俺が、共和国の「工学」で、橋全体の構造と、必要な資材の量を計算する。
ボルグが、ドワーフの「工芸」で、その構造を、この大自然の中で実現させるための、具体的な手法を提示する。
俺の「頭脳」と、ボルグの「魂」が、アキテーヌの攻城戦の時とは比べ物にならないほど、深く、そして完全に融合していくのが、俺には分かった。
そして、計画開始から五日目の朝。
俺とボルグは、一枚の巨大な羊皮紙を携え、カエサルの前に立っていた。
そこには、共和国の理論と、ドワーフの知恵が融合した、この世に二つとない、狂気じみた、しかし完璧な橋の設計図が描かれていた。
カエサルは、その設計図を一瞥すると、満足げに頷いた。
「…よかろう。工兵部隊の全指揮権を、貴官らに与える。存分に、その腕を振るうがいい」
その言葉は、俺ではなく、俺の隣に立つ、この無骨なドワーフに向けられていた。
ボルグは、その言葉に、ドワーフとして最高の敬意を示すように、巨大な戦斧を自らの胸に当て、深く、そして力強く頷いた。
不可能への挑戦が、今、始まろうとしていた。
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