第五章:不可能への挑戦
「流浪の民」を殲滅した後、ライン川の西岸には、偽りの平穏が訪れた。
兵士たちは、後片付けと、仲間たちの亡骸を埋葬する作業に追われていた。野営地には、勝利を祝う声はなく、ただ、血の匂いを洗い流そうとする川の流れの音だけが、無感情に響いていた。
俺、レビルスは、自分の天幕で、この忌まわしい戦いの損害報告書をまとめていた。俺の手は、まだ、あの魔族の戦士を貫いた時の、生々しい感触を覚えているようだった。
その日の午後、カエサルは全指揮官を川岸に集めた。
彼は、荒々しく流れる対岸を、静かに指し示した。
「…見よ。あの川の向こうが、魔族の領域だ。我々がこの地を去れば、奴らはまた何度でも、この川を渡ってくるだろう」
指揮官たちは、ゴクリと喉を鳴らし、カエサルの次の言葉を待った。
「ならば、我々が先に渡る。そして、奴らの心に、永遠の恐怖を刻み込むのだ」
カエサルは、振り返ると、静かに、しかし絶対的な権威をもって、宣言した。
「これより、このライン川に、橋を架ける!」
天幕の中が、どよめいた。
「橋、ですと!?」
「この川に、ですか…?」
最初に声を上げたのは、軍団の工兵部隊を束ねる、白髪の工兵監だった。彼は、測量結果が記された羊皮紙を手に、カエサルの前に進み出た。
「閣下、お言葉ですが、それは不可能です。この川幅は四百メートルを超え、流れは激しく、川底は砂地で杭を打つのに不向きです。仮に架けるとしても、数年はかかりましょう」
青年将校のクラッススも、困惑した表情で続けた。
「閣下のお考えは、常に我々の想像を超えております。ですが、これではあまりに…」
カエサルは、その全ての反論を、表情一つ変えずに聞き終えた。
やがて、彼の視線が、指揮官たちの輪の後方に立つ、俺を捉えた。
「レビルス百人隊長。前へ」
その声に、天幕の中の全ての視線が、俺に突き刺さる。
俺は、心臓が跳ね上がるのを感じながら、カエサルの前へと進み出た。
カエサルは、俺の目をまっすぐに見据えて言った。その声は、静かだったが、天幕の中の誰の耳にも、はっきりと届いた。
「我が工兵監は、不可能だと言った。だが、不可能を可能にするのが、共和国の工学だ」
彼は、俺の肩に、その手を置いた。
「そして、それを数字で証明するのが、貴官の仕事だ」
その瞬間、俺はすべてを理解した。
俺の腹の底から、これまでに感じたことのない、奇妙な感情がせり上がってきた。
それは、恐怖ではなかった。面倒だという、いつものうんざりした気持ちとも違う。
高揚感。
この男は、俺という駒の能力を、その限界まで正確に見抜き、そして、絶対的な信頼をもって、この途方もない無理難題を、俺に任せたのだ。
これは、懲罰人事でも、面倒事の押し付けでもない。
カエサルから、俺個人への、挑戦状だった。
俺は、背筋を伸ばし、カエサルの目をまっすぐに見返した。
「…御意に」
俺の声は、自分でも驚くほど、力強く響いた。
天幕の中の指揮官たちが、信じられないものを見るような目で、俺を見ていた。
俺は、彼らに一礼すると、背を向け、自分の天幕へと戻っていった。
俺の頭の中は、すでに、無数の数字と計算式で、嵐のように渦巻き始めていた。
必要な木材の総量、杭を打ち込む角度、流れの圧力を分散させるための構造力学、そして、数万の兵士を動かすための、完璧な工程表。
不可能?
面白い。
ならば、計算で、その不可能を可能に変えてやろうじゃないか。
俺は、初めて、この地獄のような戦場で、自らの意志で、この面倒事に真正面から向き合おうとしていた。
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