第二章:東への道
春が本格的に訪れ、ガリアの大地が緑に染まる頃、俺たちカエサル直属の遠征軍は、東へ、未知なるライン川へと向かって進軍を開始した。
その行軍の途中、俺は第七軍団の筆頭百人隊長ファビウス殿の天幕に呼び出された。
天幕の中には、第十軍団のマルクス筆頭隊長もいる。そのただならぬ雰囲気に、俺は思わず背筋を伸ばした。
「…レビルス。先日の会議での貴官の功績報告を受け、総司令官から直々にお達しがあった」
ファビウス殿が、公式の口調で切り出した。
「総司令官は、こう仰せられた。『レビルス百人隊長は、筆頭百人隊長ではない。だが、彼のその特異な計算能力は、一個軍団にも匹敵する戦略的価値を持つ。今後、俺は必要に応じて、彼に直接命令を下すことがあるだろう。これは、通常の指揮系統を超えた、特別措置と心得るように』…と。その場にいた、全指揮官の前でな」
俺は、言葉を失った。
ファビウス殿は、俺の肩に、その無骨な手を置いた。
「…つまり、貴官は一個の駒であると同時に、盤面を動かす指の一つにもなった、ということだ。多くの者から、嫉妬とやっかみを受けることになるだろう。だが、忘れるな。貴官の働きが、第七軍団の多くの兵士の命を救ったことも、また事実だ。胸を張れ」
ファビウス殿がそう言って俺を労った後、今まで黙って腕を組んでいたマルクス殿が、重々しく口を開いた。
「…計算屋。浮かれるなよ」
その声は、いつものようにぶっきらぼうだったが、その目には親心にも似た厳しさがあった。
「総司令官の『特別』になるってのはな、誰よりも早く、誰よりも危険な場所に放り込まれるってことだ。そして、失敗は許されん。貴様の計算ミスは、貴様一人の首じゃ済まなくなる。総司令官ご自身の顔に、泥を塗ることになるからだ。…分かったら、せいぜい頭を使い続けろ。それが、貴様の戦い方なんだからな」
二人の筆頭百人隊長からの、立場の違う、しかし心のこもった激励と警告。俺は、自分がとんでもない立場に立たされてしまったことを、改めて実感していた。
そんな俺の新たな立場などお構いなしに、行軍は続いた。
兵士たちは、困惑と、そしてどこか非現実的な任務への奇妙な興奮をない交ぜにしながら、泥道を踏みしめていた。
彼らの間には、もはや魔族への恐怖はない。ただ、カエサルという男が次に何を仕掛けるのか、という尽きない好奇心だけがあった。
進軍開始から十日後、我々はついにライン川の西岸に到達した。
その光景を前に、兵士たちは言葉を失った。
どこまでも続く、雄大な流れ。測量兵の報告によれば、その川幅は実に四百メートルを超え、俺たちがこれまで見てきたどの川よりも広く、その流れは、まるで生き物のように荒々しく渦巻いていた。
「…こいつに、橋を架けるのか」
俺の隣で、副官のボルグが、その岩のような顔を険しくして呟いた。
ドワーフである彼ですら、この大自然の暴力の前には、畏敬の念を抱いているようだった。
その日の午後、事態は動いた。
対岸から、数隻の粗末な丸木舟に乗って、一団の男たちがこちらへ渡ってきたのだ。
魔族。以前対峙したアリオウィストゥスの軍勢と同じ、屈強な肉体と、全身から放たれる暴力的なオーラ。
だが、その雰囲気はどこか違っていた。
彼らの鎧は使い古された獣の毛皮や骨でできており、その瞳には王者の風格ではなく、故郷を追われた者の、飢えた狼のような光が宿っていた。兵士たちは、彼らを**「流浪の民」**と呼び始めた。
ウシペテス族とテンクテリ族と名乗った彼らの使者は、カエサルの前に立つと、こう要求した。
「我らは、ラインの東で、より強大な**『黒森の民』**に追われ、安住の地を失った。どうか、このライン川の西の土地に、我らを受け入れ、新たな故郷とすることを許してはいただけまいか」
それは、懇願であり、同時に脅迫でもあった。彼らの背後には、数万の同胞が控えているのだ。
カエサルは、その要求を、静かに、しかしきっぱりと拒否した。
「ガリアに、お前たちを受け入れる土地はない。だが、もし望むなら、ラインの東でお前たちを庇護してくれる**『境界の民』**を、我が方から紹介しよう。そこへ行くがいい」
魔族の使者の顔が、怒りと屈辱に歪んだ。
「我らが故郷を捨ててきたのは、誰かに庇護されるためではない! 我らは、自らの剣で、新たな土地を勝ち取る!」
交渉は、決裂した。
使者たちは、憎悪に満ちた目で俺たちを睨みつけると、再び丸木舟に乗り込み、対岸へと戻っていった。
その日から、川を挟んだ両軍の間に、一触即発の緊張が走った。
俺は、斥候がもたらす断片的な情報から、敵の兵力、移動速度、そして彼らが渡河に使いそうな浅瀬の位置を計算し、最悪の事態に備えていた。
だが、カエサルは、動かなかった。まるで、何かを待っているかのように。
俺は、その静けさの中に、次なる嵐の、不気味な予兆を感じ取っていた。
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