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ガリア戦記異聞 とある計算屋の活躍  作者: 奪胎院
第三部 幕間:嵐の前の静寂

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第二章:計算屋の家族と、未来の夢

その夜、俺は割り当てられた天幕で、一人、山と積まれた羊皮紙と睨み合っていた 。


第七軍団に編入されてから、俺の仕事は自らの百人隊の指揮だけにとどまらず、軍団全体の兵站や作戦効率に関する膨大な計算へと拡大していた。

ストーブの炎が揺れ、革とインクの匂いだけが、この殺風景な空間を満たしている。今日の会議でクラッスス様やファビウス様から受けた、身に余る称賛の言葉が、未だに耳の奥で重く響いていた 。


(…計算屋の評価、か)


俺は、心の中で自嘲気味に呟いた。俺がやったことは、ただ数字を並べ替え、最も損害の少ない道を選んだだけだ。


それが、仲間たちの血と汗によって、初めて意味を持つ。俺一人の功績などではない。


その事実が、カエサル閣下の前で名指しで評価されたという事実を、さらに重く感じさせた 。


その静寂を、遠慮のない、しかし聞き慣れた声が破った。


「おっと、これは失礼。共和国の新しい英雄殿は、勝利の夜もお勉強ですかい?」


天幕の入り口には、古参兵のセクンドゥスが、皮肉っぽい笑みを浮かべて立っていた 。


その腕には、どこからか「調達」してきたであろう、上等な葡萄酒の壺が抱えられている 。彼の後ろからは、ひょっこりと、見慣れた顔ぶれが姿を現した。


「邪魔するぞ、隊長」


その岩のような顔で、しかしどこか誇らしげにそう言ったのは、副官のボルグだった 。彼の手には、串に刺さって香ばしい匂いを立てる、焼きたての兎肉がある 。

その隣では、獣人のガレウスが、満足げに鼻を鳴らしていた 。彼が今日の獲物を仕留めたのだろう 。

そして、その後ろから、エルフのシルウァヌスが、森で摘んできたのであろう数種類の薬草の束を手に、静かに入ってきた 。


俺のかつての「家族」 。彼らは、俺がこの孤独な天幕で一人でいることを見透かしたかのように、それぞれの獲物を手に、訪ねてきてくれたのだ。


「…入れ。ただし、その『英雄殿』というのはやめろ。気味が悪い」


俺がそう言うと、セクンドゥスは「へっ」と短く笑い、当たり前のように俺の机の羊皮紙を片付け、そこに葡萄酒の壺を置いた。

ボルグは何も言わず、一番よく焼けた肉の塊を切り分けると、黙って俺の皿に乗せてくれる 。その無骨な気遣いが、軍団内で確立されつつある俺の特異な立場が生んだ、見えない壁を、少しだけ溶かしてくれた 。

この気心の知れた仲間たちとの時間は、確かに俺の心を癒してくれた 。


「それにしても、大したもんですぜ。アキテーヌの連中も、あんたの計算の前じゃ赤子同然だったってわけだ 。今や、あんたの名を知らねえ百人隊長はいませんや」


セクンドゥスの言葉に、俺はただ杯を傾ける。


しばらく、他愛ない会話が続いた。やがて、肉を食らい、酒が回ってきた頃、セクンドゥスが、ふと、暖炉の炎を見つめながら言った。


「…そういや、このクソみたいな戦争が終わったら、お前さんたちは何がしてえかね」


その問いに、最初に答えたのは、意外にもガレウスだった。

「狩りだ。だが、戦争いくさの狩りではない。ただ、森で、腹を満たすためだけの狩りがしたい。この血の匂いを忘れるまで、静かな森を駆け回りたい」


シルウァヌスも、その言葉に静かに頷いた。

「ええ。このガリアの森は、我々の戦いで深く傷ついた。血の匂いが消え、本当に静かになった森を、ただ、ゆっくりと巡りたい。それが、私の唯一の望みです」


二人の言葉には、戦いの中に生きる者ならではの、静かで切実な響きがあった。


「ボルグ、お前さんは確か、故郷の山に帰りたいとか言ってたな」

セクンドゥスの言葉に、ボルグは杯の中の葡萄酒を揺らしながら、静かに首を振った。

「…あの頃は、まだ復讐の炎しか見えていなかった。だが、今は違う。俺の守るべきものは、もうあの山にはない。ここにいる」


その黒曜石の瞳が、俺たち一人一人を、そして彼が副官として支える百人隊の兵士たちがいるであろう兵舎の方向を、静かに見つめた。


「へっ、柄にもねえ」とセクンドゥスは笑ったが、その顔はどこか優しかった。

「俺の夢は、退役金で小さな酒場でも開いて、可愛い娘でも侍らせて、のんびり暮らすことだったが…どうやら、あんたみたいな石頭の隊長の下で、悪態ついてる方が性に合ってるらしい」


最後に、全員の視線が俺に集まった。


「隊長は、確か…」


ボルグが言いかけた。


「ああ」


と俺は自嘲気味に笑った。


「安全な後方で、羊皮紙とインクにまみれて、静かに暮らすのが夢だった。平穏に任期を終えて、二度と戦場になど戻らない、と」


その言葉に、天幕の中が、穏やかな笑いに包まれた 。


「とんでもねえ夢違いだ」


「今や、このガリアで一番面倒な男の、一番面倒な懐刀ですぜ」


俺は、仲間たちの顔を見渡した。そうだ。俺が守りたいものは、もはや俺自身の平穏ではない。この、面倒で、どうしようもなく、しかし、かけがえのない仲間たちが、いつかそれぞれの夢を叶えるのを見届けること。いつの間にか、俺の計算の目的は、それへとすり替わっていた。


戦争を経て、それぞれが守りたいもの、そして求めるものが少しずつ変わってきているのを、俺たちは、この穏やかな時間の中で、確かめ合っていた 。


それは、次なる巨大な嵐が訪れる前の、ほんの一瞬の、しかし、かけがえのない静寂だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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