第一章:凶報と、再燃する戦火
長い冬は、終わりを告げようとしていた。
硬く凍てついていた大地はぬかるみ、兵舎の屋根から滴る雪解け水が、春の訪れを告げている。
だが、そんな束の間の平穏は、一人の伝令によって、唐突に引き裂かれた。
天険アルプス方面から命からがら駆け込んできた伝令は、鎧も兜も失い、その顔は雪と泥と絶望にまみれていた。
彼がもたらしたのは、ガルバの第十二軍団からの、信じがたい凶報だった。
「――ガルバ軍団、**『天険の獣人氏族』の奇襲を受け、壊滅的損害! 敗走の末、同盟者である『河港のドワーフ氏族』**の領地まで撤退したとの報せです!」
その報せは、冬の弛緩した空気に慣れきっていた野営地を、一瞬で凍りつかせた。
「馬鹿な! あのガルバ将軍が?」
「共和国軍が、蛮族に敗れただと?」
兵士たちの間に、動揺と恐怖が、まるで疫病のように広がっていく。二年間の激戦で築き上げられた、「共和国軍は無敵である」という神話が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
俺が敗因の変数を頭の中で組み立てていると、司令部天幕の周辺がにわかに騒がしくなった。クラウディウスのような高級将校たちが、責任の所在を巡って色めき立っているのだ。
その混乱を、凛とした一声が切り裂いた。
「静粛に」
声の主は、副司令官のラビエヌスだった。カエサル不在の今、彼がこの軍団の最高指揮官だ。
「総司令官は間もなくお戻りになる。我々が今すべきは、正確な情報の収集と、持ち場を固めることだ。無用な混乱は敵を利するだけだと、なぜ分からん」
美しいエルフの顔に一切の感情を浮かべず、彼は冷静に場を収めた。他の将校たちが狼狽する中、彼だけが、そして俺だけが、この事態を冷静に受け止めていた。
数日後、ガリア・キサルピナから、カエサルが帰還した。
彼は、まずラビエヌスだけを司令部天幕に呼び入れると、ガルバからの詳細な報告書を一瞥し、表情一つ変えずに、巨大なガリアの地図の前に立った。
「…面白い」
やがて、カエサルは静かに口を開いた。その声には、動揺のかけらもなかった。
「奴らは、我々が冬で動けぬこの時期を、そして最も油断しやすい辺境を、完璧なタイミングで突いてきた。これは、単独の部族が起こした偶発的な襲撃ではない」
「同感です」
と、ラビエヌスが応じた。
「この敗報が広まるのを待っていたかのように、各地で不穏な動きが活発化しています。南西部の**『山砦のドワーフ諸氏族』は、我らの使者を追い返しました。そして…」
ラビエヌスは、地図の大西洋岸を指差した。
「『鉄鎖海岸のドワーフ』**が、我が国の穀物輸送船を拿捕。乗組員を人質に取り、明確な敵対行動を開始したとの報せが、先ほど」
「やはりな」
カエサルは、まるで待ち望んでいた報せを聞いたかのように、わずかに口元を緩めた。
「ガリア全土の反乱勢力が、連携している証だ。奴らは、我々がこの敗北に動揺し、守りに入ると踏んでいる。だからこそ、好機なのだ、ラビエヌス」
カエサルの目が、地図の上で獰猛な光を放った。
「奴らの予想を裏切り、この多発的な反乱の全てを、同時に叩き潰す」
その日の夕方、カエサルは全指揮官を司令部天幕に召集した。
天幕の中は、凶報がもたらした緊張感で満ちている。その中央に立ったカエサルは、静かに、しかし絶対的な権威をもって、宣言した。
「諸君らが聞いた通り、ガリアは再び燃え上がった。だが、これは危機ではない。我々の力を、ガリア全土に示す好機だ。これより、全軍を分割し、壮大な多方面作戦を開始する!」
カエサルは、地図の上で駒を動かすように、次々と命令を下していく。
「デキムス! 貴官はロワール川の河口に布陣し、艦隊の建造を急がせよ。完成次第、出航し、『鉄鎖海岸のドワーフ』を海の藻屑とせよ!」
「サビヌス、そしてコッタ! 貴官らは共に軍団を率いて北西へ向かい、我らに降ったはずの、猪突猛進する猪の民(ウネッリ族)、河川を縄張りとする川辺のエルフ氏族(クリオソリテス族)、そして崖や森に潜む**山猫の民(レクソウィイ族)といった愚か者どもに、共和国の恐怖を思い出させてやれ!」
「クラッスス! 貴官の任務は、南西部の平定だ。かの地に割拠する、『山砦のドワーフ諸氏族』**を、一人残らず我らの前にひざまずかせろ!」
クラッススは、「はっ!」と、若き獅子のように力強く答えた。
俺は、その隣で、ただ黙って頭を下げた。
カエサルは、最後に、彼の隣に立つ副司令官ラビエヌスに向き直った。
「そして、ラビエヌス。お前は俺と共に、この中央拠点に残る。
各戦線の報告を受け、全体の指揮を執る。そして、マルクス筆頭隊長が率いる第十大隊を含む最強の予備兵力として、いかなる緊急事態にも備えよ。戦況が動いた時、我ら自身が、この戦争の行方を決める『鉄槌』となるのだ」
「御意に」
ラビエヌスは、静かに、しかし絶対的な信頼を込めて頷いた。クラウディウスのような他の高級将校たちも、拠点防衛や後方支援という重要な任務を与えられ、それぞれの持ち場へと散っていく。
アルプスから吹く、まだ冷たい風が、俺の頬を撫でていく。それは、これから始まる、新たな、そしてこれまで以上に厄介な戦いの匂いがした。
俺は、心底うんざりしながら、深い、深い溜息をついた。
どうやら、俺の平穏な日々は、また少し、遠のいたらしい。
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