第二部 エピローグ:偽りの平定と、怪物の視線
狐の民との戦いが終わった後、俺は文字通り、羊皮紙の山に埋もれていた。
五万三千の捕虜の管理、鹵獲した武具の再分配、そして、この二ヶ月にわたる激戦で消費された、天文学的な量の食料と資材の計算。それが、この戦争の、巨大で、そして面倒な勘定書だった。
俺たちの軍団は、占領した狐の民の要塞で、ようやく掴んだ休息に安堵していた。
そんなある日の午後、西から一人の伝令が駆け込んできた。大西洋岸へ派遣されていた、青年将校クラッススの部隊からだった。
「ご報告します! クラッスス様率いる第七軍団が、大西洋沿岸の全諸部族を平定! すべての部族が、共和国に降伏を表明したとのことです!」
その報せは、野営地に新たな熱狂を生んだ。
「西もか!」
「これで、ガリアの西から北まで、すべて我らのものだ!」
兵士たちが、新たな勝利に沸き立つ。
その日の夕方、カエサルは全軍を集め、高らかに宣言した。
「兵士諸君! 我々の二年間にわたる戦いの末、ガリアは平定された! 今宵は、勝利の宴だ!」
野営地は、地鳴りのような歓声に包まれた。
樽の酒が振る舞われ、兵士たちは肩を組み、故郷の歌を歌っている。
誰もが、これでようやく、この長くて過酷な戦争が終わり、家に帰れるのだと信じていた。
俺は、自分の部隊の仲間たちと、焚き火を囲んでいた。
俺の百人隊の兵士たちが、顔を赤らめ、大きな声で戦の手柄を自慢し合っている。
ある者は、熊の民の戦士といかに戦ったかを身振り手振りで語り、またある者は、故郷に残してきた恋人の話をしている。
「隊長! 一杯どうぞ!」
と、若い旗手のルキウスが、なみなみと注がれた杯を差し出してくる。
「へっ、どうせ隊長殿は、この酒の原価でも計算してるんだろうぜ」
と、古参兵のセクンドゥスが軽口を叩き、ガレウスが獣のような笑い声を上げた。
ボルグは、ただ黙って、一番よく焼けた肉を俺の皿に乗せてくれた。
そして、いつもは影のように気配を消しているエルフのシルウァヌスが、俺の杯に、森で摘んできたのであろう、香り高い薬草の葉を一枚、そっと浮かべた。
俺は、差し出された杯を静かに受け取った。
「…ありがとう」
悪くない。この寄せ集めの家族と過ごす時間は、確かに。
その時だった。
俺たちのすぐ近くで、マルクス筆頭隊長が、誰かに向かって深々と頭を下げているのが見えた。
「マルクス。貴官の第十大隊の働き、見事だった」
その声に、俺は息をのんだ。 カエサル。
そして、その隣には、副司令官のラビエヌスが、エルフならではの静かな佇まいで立っていた。
マルクス筆頭隊長は、顔を上げると、俺たちの方を指差した。
「いえ。この戦役の流れを変えたのは、俺たちではありやせん。あの計算屋の、ふざけた一手です」
その言葉に、カエサルとラビエヌスの視線が、俺に、まっすぐに注がれた。 野営地の喧騒が、遠のいていく。 カエサルは、ゆっくりと俺たちの焚き火に近づいてきた。
彼は、俺の顔をじっと見つめると、静かに、しかしはっきりと、こう言った。
「レビルス百人隊長。貴官の部隊は、この戦役で最も損耗率が低かったと聞く。指揮官の第一の義務は、一人でも多くの兵士を生きて故郷に帰すことだ。貴官は、その義務を、誰よりも見事に果たした」
ラビエヌスも、その森の湖のような瞳で俺を見据え、一言だけ付け加えた。
「…貴官の報告書は、常に正確だ」
俺は、立ち上がり、杯を胸の前に掲げて答えた。
「恐縮です、閣下。部下を生きて故郷に帰すのが、私の任務ですので。計算は、そのための道具に過ぎません」
カエサルは、その答えに、初めてわずかに口元を緩めたように見えた。 彼は、俺の肩を一度だけ、軽く叩くと、次の部隊を労うために、雑踏の中へと消えていった。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
仲間たちの、賞賛と、驚きと、そして尊敬の眼差しが、俺に突き刺さる。
その時、背後から、無骨な手が俺の肩を叩いた。 マルクス筆頭隊長だった。
「…浮かされるなよ、計算屋」
彼は、いつものようにぶっきらぼうに言った。
だが、その目には、確かな賞賛の色が浮かんでいた。
「だが、まあ…見事だった。お前の戦い方は、教科書には載っていない。だが、兵士の命を救う。それだけは、事実だ。これからも、そのやり方でやれ」
マルクス筆頭隊長が去った後、俺たちの焚き火は、それまで以上の熱狂に包まれた。
「聞いたか! 総司令官と、筆頭百人隊長のお墨付きだ!」
「俺たちの隊長は、共和国一の計算屋だ!」
俺の部隊の兵士たちが、わっと俺の周りに集まり、その無骨な手で、俺を担ぎ上げようとする。
俺は、柄にもなく、それを笑って受け入れた。 そして、仲間たちの歓声の中心で、俺は、手にした杯を高く掲げた。
「今夜は計算抜きだ!」
俺は、生まれて初めて、腹の底から叫んだ。
「飲むぞ! 明日のことなど忘れて、今宵は、共和国一の百人隊の勝利を祝う!」
「「「うおおおおおっ!」」」
その夜、俺たちの焚き火の周りだけが、野営地のどこよりも明るく、そして、どこまでも騒がしかった。
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