第一部前半 第二章:最初の命令
ボルグに案内された天幕は、俺が後方で使っていたものより一回りは小さく、そしてひどくカビ臭かった。前任者の私物であろう、丸められた寝具の隅が黒ずんでいるのを見て、俺は早々に自分の荷物から寝袋を出すことに決めた。
「百人隊の兵員名簿と、装備の現状報告書です」
ボルグは、俺が荷物を解くのを待つでもなく、分厚い羊皮紙の束を無造作に机に置いた。その無遠慮な態度は、むしろ好ましかった。変に気を遣われるより、よほど話が早い。
俺は羊皮紙の束を受け取って目を通す。補給官の側近として嫌というほど見てきた、見慣れた書式だ。だが、そこに書かれた内容は、俺の頭痛をさらに悪化させるのに十分だった。 剣は三割が刃こぼれ、盾は半数近くに補修不能な亀裂。投槍に至っては、定数の半分もない。
「…ひどいな。補給の要請は?」
「三度。いずれも『現在対応中』との返答のみ。高級将校の署名がなければ、我々現場の要請などそんなものです」
高級将校か。俺の直属の上官になる男だ。ボルグの口ぶりからして、面倒な相手でなければいいが。俺は羊皮紙を机に放り出し、こめかみを押さえた。これから始まる厄介事の数々を想像し、本気で腹が痛くなってきた。
その時だった。天幕の入り口が静かに開けられ、伝令の兵士が顔をのぞかせた。
「第三百人隊長。クラウディウス高級将校がお呼びです。司令部天幕まで」
早速お出ましか。俺は心の中でぼやき、ボルグに視線を送る。彼はただ、無表情に頷くだけだった。
司令部天幕は、俺たちのそれとは比べ物にならないほど巨大で、そして清潔だった。入り口には香が焚かれ、カビ臭さの代わりに、高価な香油の匂いが鼻をつく。
中央の大きな机では、数人の書記官が忙しなく羽根ペンを走らせていた。
そして、その中央に、一人の男が立っていた。 年の頃は俺とそう変わらないだろう。しかし、その鎧は一点の曇りもなく磨き上げられ、マントには見事な刺繍が施されている。
後方勤務の俺ですら場違いなこの野営地で、彼はまるで観劇にでも来たかのように、一人だけ別世界の空気をまとっていた。彼がクラウディウスか。
「君が、新しく配属された百人隊長か。名は?」
「は。本日付けで着任しました、レビルスと申します」
「そうか。レビルス。貴官に任務を与える」
クラウディウスは、まるで天気の話でもするかのような、何の抑揚もない声で言った。彼の視線は俺の顔ではなく、机の上の地図に注がれている。
俺という人間に、微塵も興味がないのが見て取れた。 彼は地図の一点を、細くしなやかな指で叩いた。そこは、この野営地からほど近い、ローヌ川に架かる唯一の橋だった。
「あの橋を、破壊せよ」
俺は一瞬、自分の耳を疑った。 橋を、破壊? なぜだ。あの橋は、我々の補給路の一部でもあるはずだ。
破壊すれば、我々自身も物資の供給に支障が出る。
それに、もし敵を追撃するとなった場合、渡るべき橋がなくなるではないか。 様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
補給官の側近として兵站を管理していた俺にとって、それは自殺行為に等しい、愚策中の愚策に思えた。
だが、目の前の男にそれを問い質すだけ無駄だということも、すぐに悟った。
彼にとって、俺は命令を遂行するための駒の一つに過ぎない。駒に、作戦の意図を説明する必要などないのだ。
「…承知いたしました。いつまでに?」
「夜明けまでに。橋桁の一本も残すな。以上だ。下がれ」
彼は最後まで俺の顔を見ることなく、手にした羽根ペンで羊皮紙に何かを書き込み始めた。もう俺への関心は完全に失われている。 俺は敬礼し、無言で天幕を出た。
自分の天幕に戻ると、ボルグが待っていた。彼は俺の顔を見るなり、すべてを察したようだった。
「…ボルグ。部隊を集めろ」
俺の声が、自分でも驚くほど乾いていた。
「任務だ。今から、橋を壊しに行く」
ボルグは何も言わなかった。
ただ、その黒曜石の瞳で俺をじっと見つめ、そして、まるで「やはりな」とでも言うように、小さく、ほとんど分からないほど小さく頷いた。
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