第二部 第十章:狐の罠
熊の民との戦いは、俺たちの軍団に深い傷跡を残した。
兵士の数は半数近くまで減り、生き残った者たちも、その心と体に、決して癒えることのない傷を負っていた。
野営地には、勝利を祝う声はなく、ただ仲間を失った者たちの、静かな嗚咽だけが響いていた。
だが、カエサルは、俺たちに休むことを許さなかった。
「最後の抵抗勢力、狐の民を討つ」
命令は、非情なまでに簡潔だった。
俺たちは、疲弊しきった体を引きずりながら、再び北へと進軍を開始した。
狐の民の要塞は、天然の岩山をくり抜いて作られた、難攻不落の城塞だった。その城壁は、ドワーフの仕事とは違う、どこか有機的で、狡猾な曲線を描いている。あれが、狐の民の巣か。
「隊長。あんなもの、どうやって攻めるんですかい」
古参兵のセクンドゥスが、絶望的な声で言った。
「攻城兵器を組み立てる前に、上から岩でも落とされて終わりですぜ」
その通りだった。まともに攻めれば、我々の損害は計り知れない。
だが、俺たちの心配は、杞憂に終わった。 俺たちの軍団が、城塞から矢の届く距離まで近づいた、その時。 城門から、白い旗を掲げた一団が現れたのだ。 彼らは、狐の民だった。
その顔には、戦意のかけらも見当たらない。
ただ、人好きのする、しかしどこか本心の読めない笑みを浮かべて、彼らはカエサルの前にひざまずいた。
「偉大なる共和国の指導者よ。我々は、貴殿の武勇に心から敬服いたしました。我ら狐の民は、これより共和国に忠誠を誓い、すべての武器を差し出すことをお約束します」
あまりにも、あっけない降伏だった。 兵士たちの間に、安堵と歓喜の声が広がる。
「戦わずに済んだ!」
「これで、本当に戦争は終わりだ!」。
カエサルも、その降伏を寛大に受け入れ、軍団全体に警戒を解くよう命令を下した。
だが、その日の夜。俺は、マルクス筆頭隊長の天幕に、密かに呼び出されていた。
天幕の中には、マルクス筆頭隊長だけでなく、副司令官のラビエヌスもいた。その美しいエルフの顔は、凍てつくように冷たい。
「…レビルス百人隊長。貴官は、この降伏をどう見る?」
ラビエヌスの、静かな問いが、俺に突き刺さる。
「…不自然です」
と、俺は答えた。
「彼らの降伏には、恐怖も、敬意もない。ただ、何かを待っているかのような、奇妙な余裕が感じられます」
「同感だ」
と、ラビエヌスは頷いた。
「総司令官も、同じお考えだ。だが、公然と彼らの降伏を疑えば、他のガリア部族との関係に角が立つ。ゆえに、表向きはこれを受け入れる」
彼は、地図の一点を指差した。
「だが、裏では動く。マルクス」
「はっ」
「貴官の麾下にある、レビルス百人隊長とその部隊を使え。奴らの斥候は、共和国で最も静かな足を持つ。奴らの突撃兵は、共和国で最も鋭い牙を持つ。そして何より、この百人隊長は、共和国で最も疑り深い目を持っている」
ラビエヌスは、俺に向き直った。
「レビルス百人隊長。これは、総司令官からの、非公式の特命だ。軍団全体が平和に浮かれるこの夜、貴官の部隊だけが、我々の『眼』となり『牙』となれ。敵が何を隠しているのか、その正体を突き止め、そして、奴らが動いた瞬間に、その喉笛を食い破れ」
天幕に戻る道すがら、俺は心底うんざりしていた。
結局、こうなるのだ。面倒事は、いつも俺のところに転がり込んでくる。
だが、あの狐どもを放置すれば、我々が寝首をかかれるのは目に見えている。
共和国軍が勝つためには、誰かがこの汚れ仕事を引き受けなければならない。
そして、その役目を、司令部が俺の計算能力に期待して任せてきた。 …まあ、悪くない。柄にもなく、そう思ってしまった。
俺は、自分の天幕に戻ると、仲間たちを集めた。
副官のボルグ、古参兵のセクンドゥス、獣人のガレウス、そしてエルフのシルウァヌス。
四人が、俺の前に揃っていた。
俺はまず、シルウァヌスとガレウスに向き直った。
「二人に、極秘の任務を与える。今夜、城壁に潜入しろ。奴らが何を隠しているのか、その正体を突き止めるんだ。ただし、決して見つかるな。これは、ただの偵察だ」
ガレウスは、獰猛な笑みを浮かべた。
「面白い。狐狩りか」
シルウァヌスは、ただ、静かに頷いた。
二人が闇に消えた後、俺は残ったボルグとセクンドゥスに地図を広げて見せた。
「さて、と。狐狩りの準備はできた。次は、俺たちの番だ」
俺は、城壁の最も手薄な区画を指でなぞった。
「もし、俺の予測が正しければ、奴らは今夜、ここから夜襲を仕掛けてくる」
ボルグが、その岩のような腕を組んで唸った。
「それで、どうする」
「罠を仕掛ける。セクンドゥス、お前の経験を貸せ。この区画の前に、気づかれないように逆茂木と罠を増設しろ。兵士は最小限で、音を立てるな」
「へいへい。また面倒な土いじりですかい。任せておきな」
と、古参兵は皮肉っぽく笑った。
「ボルグ。お前は、残りの兵を率いて、この第二土塁の裏に潜め。音を立てず、息を殺して、ただ待つんだ。俺の合図があるまで、決して動くな」
「…承知した」
ボルグは、その黒曜石の瞳に、静かな闘志を宿して頷いた。
仲間たちがそれぞれの持ち場へ向かった後、俺は一人、天幕の中で地図を広げた。 やはり、あの男は怪物だ。
カエサルは、敵だけでなく、味方さえも欺いている。
この偽りの平和は、彼が仕掛けた、巨大な罠なのだ。
そして、俺の部隊は、その罠の中で、引き金を引く役目を任されたらしい。
俺は、これから始まるであろう、静かな夜の戦いのための、完璧な「返し罠」の計算を、独り、始めていた。
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