第二部 第八章:サビス川の死闘
「全軍、ここで宿営する! ただちに陣地の設営にかかれ!」
司令部から、非情な命令が下った。他の指揮官たちは、この理想的な土地に満足し、何の疑いもなく部下たちに指示を飛ばし始める。
「隊長…」
ボルグが、心配そうに俺を見た。
「分かっている」
と、俺は言った。
「だが、命令だ。やるしかない。ただし、通常の手順は無視する。
ボルグ、セクンドゥス、ガレウス! 兵士の半分は、常に完全武装のまま、森を警戒させろ!
残り半分だけで、急いで塹壕を掘るんだ! ルキウス、軍旗は立てるな! 敵に我々の中心位置を教えるな!」
俺の異例の命令に、部下たちは戸惑いながらも、即座に行動を開始した。 だが、俺たちの小さな抵抗など、無意味だった。 軍団のほとんどが、荷物を解き、鎧を緩め、つるはしを手に取った、まさにその瞬間。
森が、爆発した。
それは、比喩ではなかった。 森の暗闇の中から、数万の巨体が、木々をなぎ倒し、大地を揺るがしながら、一斉に飛び出してきたのだ。 熊の民。
彼らは、雄叫びさえ上げなかった。ただ、その目に狂気の光を宿し、共和国軍を蹂躙するためだけに、川を、浅瀬を、ものともせずに突撃してくる。
計算も、計画も、何の意味もなさない。 ただ、純粋な、圧倒的な暴力の塊が、俺たちに襲いかかってきた。
「敵襲! 敵襲!」
「隊列を組め! 武器を取れ!」
軍団は、大混乱に陥った。 兜をかぶる暇もない。盾を手にするのがやっとだ。指揮系統は、攻撃が始まった瞬間に、完全に麻痺していた。
「持ち場を離れるな! 盾を組め!」
俺は、自分の声が恐怖で裏返っているのを感じながら、絶叫した。
俺の部隊だけが、かろうじて、小さな盾の壁を形成していた。だが、それも、巨大な熊の爪の前に、いつまで持つか。
「ぐあああっ!」
ガレウスが、獣のような咆哮を上げた。
彼は、盾を捨て、両手に持った斧で、敵の熊の戦士と、獣のように斬り結んでいる。
ボルグは、その巨大な体で、盾の壁の最も薄い部分を、文字通り肉体で支えていた。
彼の足は地面に根を張り、まるで古の樫の木のように、微動だにしなかった。
そして、古参兵のセクンドゥスは、血まみれになりながらも、恐怖に腰を抜かした新兵の襟首を掴み上げ、「立て、小僧! 死にたくなければ、盾を構えろ!」と、鬼のような形相で叱咤していた。
だが、多勢に無勢だった。
右翼が、崩れた。左翼も、時間の問題だ。 俺は、少し離れた場所で、マルクス筆頭隊長が、自ら剣を振るい、鬼のような形相で戦っているのを見た。
だが、彼の周りの兵士たちも、次々と倒れていく。 もう、終わりだ。
俺が、そう思った、その時だった。
混乱の極みにある戦場の、その後方から、護衛も連れず、ただ一人、こちらへ向かってくる人影があった。
カエサル。
彼は、崩壊しかけている最前線へと、静かに歩いてくる。
彼は、恐怖に腰を抜かしている兵士から、乱暴に盾をひったくると、叫んだ。
「貴様の名は!? 所属は!?」
「は、はい! 第七軍団の、マルキウスと申します!」
「マルキウス! 俺の顔を覚えているな! 俺は、お前の戦いぶりを、この目で見ているぞ! 立て! 共和国の兵士だろうが!」
彼は、一人、また一人と、兵士の名を呼び、その肩を叩き、叱咤していく。
神でも、悪魔でもない。 ただ、一人の男がそこにいる。 だが、その男の存在が、兵士たちの瞳に、失いかけていた光を、再び灯していくのが分かった。
彼は、俺たちのすぐそばまで来ると、崩壊寸前の盾の壁の、その隙間を埋めるように、自ら盾を構えて立った。
「百人隊長! 貴官の部隊は、見事だ! この地獄の中で、唯一、まだ陣形を保っている!」
俺は、何も答えられなかった。
「持ちこたえろ! 貴官らが、この戦いの楔となれ! 副司令官の部隊が、今、敵の背後を突く!」
その言葉が、真実か、それともただのハッタリか、俺には分からなかった。
だが、そんなことは、どうでもよかった。 俺は、自分の剣を、ついに引き抜いた。
「聞いたな、野郎ども!」
俺は、生まれて初めて、腹の底から声を張り上げた。
「総司令官が、俺たちを見ている! ここで退くは、共和国への裏切りだ! 全員、俺に続け! 目の前の敵を、一人残らず、この地に叩き伏せろ!」
俺の隣で、ボルグが、獣のような歓喜の雄叫びを上げた。 その瞬間、俺の百人隊は、ただの防御の壁から、反撃の刃へと、その姿を変えた。
戦いの結末は、まだ誰にも分からない。 だが、俺たちは、この地獄の底で、確かに、反撃の狼煙を上げたのだ。
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