第二部 第五章:狩りの時間
俺の予測通り、司令部からの命令は夜明けと共に下された。
「全軍、追撃に移る! 敵の後衛を叩き、一兵たりとも領地へ帰すな!」
野営地は、昨日までの重苦しい沈黙が嘘のように、熱狂的な興奮に包まれていた。
三十万という絶望的な数字に怯えていた兵士たちが、今や、逃げ出した獲物を追いかける、飢えた狼の群れへと姿を変えていた。
「見たか、隊長! 奴ら、算を乱して逃げていくぞ!」
若い旗手のルキウスが、興奮に顔を上気させながら叫んだ。
「追撃だ! 追撃! 奴らの首を、一つでも多く持ち帰るぞ!」
獣人のガレウスは、すでにその瞳に獰猛な狩人の光を宿していた。
だが、俺は、その熱狂の輪から一歩引いた場所で、地図を広げていた。
俺の頭の中は、勝利の興奮ではなく、冷徹な計算だけで満たされていた。
(敵の撤退ルートは、大きく三つに分かれる。最も多くの部隊が使うのは、この中央の街道だ。だが、ここは最も警戒が厚く、待ち伏せの危険性も高い。非効率だ)
俺は、地図の上で、誰もが見落とすような、細い森の小道と、川の浅瀬を指で結んだ。
(最短ルートは、ここだ。だが、道が険しすぎる。通常の部隊では、行軍速度が落ちて追いつけない。だが、もし…)
その時、俺たちのすぐそばを、筆頭百人隊長マルクス殿の部隊が駆け抜けていった。
「計算屋! ぼさっとするな! 追うぞ!」
「マルクス殿! お待ちください!」
俺は、彼を呼び止め、地図を突きつけた。
「このまま中央街道を追っても、敵の屈強な後衛とぶつかるだけです! こちらの森の道を使えば、敵の側面に回り込めます!」
「馬鹿を言え! そんな道、本隊から逸脱する! 軍規違反だ!」
「ですが!」
「だが、」
と、マルクスは続けた。その目は、面白そうに光っていた。
「追撃戦は、混沌だ。誰がどのルートを通ったかなど、総司令官様にも分かりはしない。もし、貴官の部隊が『道に迷った』あげく、偶然にも敵の側面に現れたとしたら、それはただの幸運だ。違うか?」
それは、問いではなかった。現場の最高指揮官からの、暗黙の「許可」だった。
「…感謝します、マルクス殿」
「礼など言うな。手柄を立てたら、酒の一杯でもおごれ。それだけだ」
彼はそう言うと、本隊と共に中央街道の砂塵の中へと消えていった。
俺は、自分の部隊に向き直った。
「ボルグ、マルクス、シルウァヌス、ガレウス! 聞いたな!」
俺は、この奇妙な仲間たちを見渡した。
俺の命令は、本来ならありえない越権行為だ。だが、今、俺たちには大義名分がある。
「これより、俺の部隊は軍団本隊から離れ、独自のルートで追撃を行う。目標は、敵の側面。文句のある者は、ここに残って良い」
天幕の中が、静まり返った。
最初に口を開いたのは、古参兵のマルクス・セクンドゥスだった。
「…へっ、面白え。隊長殿の、また面倒な計算に乗ってやるのも、悪くはねえか」
「俺もだ」
と、ガレウスが牙を剥いて笑った。
「本隊の連中と、のろのろ歩くのは性に合わん。最短距離で、敵の喉笛に食らいつけるなら、文句はない」
シルウァヌスは、ただ静かに頷いた。
彼の森の民としての本能が、俺の選んだルートの正しさを告げているのだろう。
最後に、ボルグが、その岩のような腕を組んで言った。
「…あんたは、どうせまた一番後ろで、地図を眺めているだけだろう。なら、俺が前で斧を振るうまでだ。いつものことさ」
俺たちは、本隊の喧騒から離れ、静かな森の小道へと足を踏み入れた。
シルウァヌスが先導し、ガレウスが周囲を警戒し、ボルグとマルクスが隊列を維持する。そして俺は、その後方で、常に状況を計算し、次の手を予測する。
俺の百人隊は、もはや共和国軍の一部隊ではなかった。
それぞれが異なる能力を持つ、一つの完璧な狩人のチームとなっていた。
半日後、俺の計算通り、俺たちは敵の後衛部隊の、まさに真横に出た。
彼らは、まさかこんな場所から共和国軍が現れるとは夢にも思っておらず、完全に無防備だった。
「シルウァヌス! 敵の指揮官を狙え!」
「ガレウス! 混乱に乗じて、荷馬車を破壊しろ! 奴らの足を止めろ!」
「ボルグ、マルクス! 正面から叩き潰せ!」
それは、もはや戦闘ではなかった。
完璧に計画され、完璧に実行された、一方的な狩りだった。
俺たちは、敵の後衛部隊を壊滅させると、すぐにその場を離脱した。
深追いはしない。俺たちの目的は、敵を殲滅することではない。この戦争を、最も効率的に、最も少ない損害で終わらせることだ。
その日の夕暮れ、俺たちは本隊に合流した。
他の部隊が、敵の頑強な抵抗に遭い、少なからぬ損害を出している中、俺の部隊は、一人の負傷者も出していなかった。
俺は、夕日に染まる戦場を見つめていた。
あちこちで、仲間を失った兵士たちの、低い泣き声が聞こえる。
俺は、勝利の興奮も、手柄を立てた誇りも、何も感じていなかった。
ただ、自分の計算が正しかったという、冷たい満足感と、そして、この果てしなく続く面倒事への、深い、深い疲労感だけが、そこにあった。
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