第二部 第四章:川辺の睨み合い
俺たちの要塞が完成して二日後、奴らは来た。
地平線の向こうから現れた、黒い人の波。
それは、もはや軍隊というより、大地を覆い尽くさんばかりの、巨大な蝗の群れだった。三十万。その数字が、圧倒的な現実となって、俺たちの眼前に広がっていた。
奴らは、我々の要塞から二マイルほど離れた場所に、巨大な野営地を築き始めた。
統率も何もない、ただ無秩序に天幕が乱立していく様は、まるで巨大なゴミの山のようだった。
「…隊長。あれだけの数を維持するには、一日でどれだけの食料が必要になるか、考えたくもありませんな」
土塁の上から敵陣を眺めていたマルクス・セクンドゥスが、顔を歪めて言った。
「考えるな。考えたら、気が狂う」
俺はそう答えた。だが、俺の頭は、勝手に計算を始めてしまっていた。
(三十万の軍勢が、ただ野営をするだけで、一つの都市が一年で消費するほどの食料と水を飲み干していく。奴らの補給は、もって十日。いや、五日がいいところだ…)
その日から、奇妙な睨み合いが始まった。
カエサルは、決して要塞から打って出ない。ベルガエ連合軍も、この難攻不落の城塞を攻めあぐねている。時折、両軍の軽装部隊が小競り合いを演じるだけで、戦況は完全に膠着していた。
「じれったい!」
ボルグは、毎日そう言って巨大な戦斧を振り回し、有り余る闘志を訓練にぶつけていた。
「なぜ、総司令官は攻撃を命じない! このままでは、奴らに包囲されて干上がるだけだぞ!」
「落ち着け、ボルグ」
俺は、書きかけの報告書から顔も上げずに言った。
「焦っているのは、俺たちじゃない。奴らの方だ」
その証拠に、敵陣から逃亡してくる捕虜が、日に日に増えていた。
彼らが語るのは、ベルガエ連合の内情の脆さだった。
部族間のいさかい、食料の奪い合い、そして、このまま戦いが長引くことへの焦り。
シルウァヌスが言った通り、巨大すぎる軍勢は、それ自体が巨大な弱点となっていたのだ。
そして、睨み合いが始まって五日目の夜。
事態は、ついに動いた。
「隊長!」
俺の天幕に、シルウァヌスとガレウスが駆け込んできた。
二人は、斥候任務から戻ったばかりだった。
「敵の一部隊が、川の上流へ向かっています」
と、シルウァヌスが静かに報告した。
「月の光を頼りに確認しましたが、その数、およそ一万」
ガレウスが、その言葉を引き継いだ。
「奴らの匂いは、焦りだ。そして、飢えている。間違いなく、我々の補給路を断ちに来るつもりだ。この先の浅瀬を渡る気だろう」
俺は、すぐに地図を広げた。川の上流。そこには、我々の要塞へ続く、唯一の補給路がある。
奴らの狙いは、決戦ではない。兵糧攻めだ。
「ボルグ! マルクス! 動ける者を集めろ!」
司令部からの正式な命令が下るよりも早く、俺は部隊に指示を飛ばしていた。
案の定、すぐに伝令がやってきた。
「オクソナ川を渡ろうとする敵部隊を、全力で阻止せよ!」
俺たちは、夜の闇に紛れて、川岸へと急いだ。
そこには、すでに敵の先遣隊が、浅瀬を探して川を渡り始めているのが見えた。
「シルウァヌス! 弓兵を率いて、対岸の森に潜め! あんたの目なら、この闇でも敵の指揮官を見つけ出せるはずだ!」
「ガレウス! お前の部隊は、川岸の茂みに隠れろ! 敵が半分ほど渡りきった瞬間、狼のように側面から食い破れ!」
「ボルグ! マルクス! お前たちは、俺と共に本隊を率いる! ガレウスが作った混乱に乗じて、正面から叩き潰す!」
俺の命令は、単純明快だった。
これは、賭けではない。ただの、計算だ。
ガレウス率いる獣人部隊が、狼の群れのように、無防備な敵の側面に襲いかかった。
川を渡ることに集中していた敵兵は、突然の奇襲に完全に不意を突かれ、パニックに陥る。
「今だ! シルウァヌス、射て!」
俺の合図で、対岸の森から無数の矢の雨が降り注いだ。それは、逃げ場を失った敵兵を、的確に射抜いていく。
そして、仕上げだ。
「全隊、突撃!」
ボルグの獣のような咆哮を合図に、俺たちの本隊が、混乱の極みにある敵陣へと突撃した。
川の水が、血で赤く染まっていく。
それは、もはや戦闘ではなかった。
一方的な、蹂躙だった。
夜が明ける頃には、川岸にはおびただしい数の死体が転がっていた。
俺たちは、一人の死者も出すことなく、敵の作戦を完璧に粉砕したのだ。
そして、その日の昼過ぎ。
斥候が、信じられない報せを持ち帰ってきた。
「隊長! ベルガエ連合軍が…奴ら、撤退を始めました! 全軍、自分の領地へ向かって、バラバラに退却していきます!」
俺は、その報告を聞いて、天を仰いだ。
終わった。
いや、違う。
「…ボルグ。どうやら、ここからが本当の狩りの時間らしいぞ」
俺は、これから始まる、長い追撃戦の勘定書を、頭の中で計算し始めていた。
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