第二部 第三章:罠の中の獲物
俺たちは、完成したばかりの土塁の上から、その信じがたい光景を眺めていた。
三十万のベルガエ連合軍が、我々の築いた巨大な要塞を、まるで道端の石ころでも見るかのように完全に無視し、南へ、レミ族の街ビブラクスへと向かっていく。
その行軍は、統率が取れているとは言い難い、ただ巨大なだけの人の波だった。
「…馬鹿にしおって」
隣で、古参兵のマルクス・セクンドゥスが、吐き捨てるように言った。
「奴ら、我々がこの城塞から出てこないと、完全に高を括っているのですな」
「あるいは、我々を無視しても、あの街を先に落とせると考えているかだ」
俺は、冷ややかに答えた。
どちらにせよ、彼らのその傲慢さが、カエサルの罠の引き金を引いたのだ。
その日の夕方、俺たちの予想通り、ビブラクスの街から一人の伝令が、命からがら要塞に駆け込んできた。彼はレミ族の獣人(狼の民)で、その全身は傷と泥にまみれていた。
「…カエサル様に、ご報告を! ビブラクスが…ビブラクスが、ベルガエの猛攻に晒されております! このままでは、明日まで持ちません! どうか、援軍を!」
彼の悲痛な叫びが、俺たちの間に重く響き渡る。
俺たちは、この安全な要塞の中で、同盟者が蹂躙されていくのを、ただ見ていることしかできないのか。兵士たちの間に、気まずい沈黙が流れた。
だが、カエサルの決断は、迅速かつ、冷徹だった。
彼が援軍として選んだのは、軍団の主力ではない。
弓の名手であるクレタ人のエルフ部隊、投石を得意とするバレアレスの獣人部隊、そして、俊敏なヌミディアの軽装歩兵たち。
いずれも、正面からの殴り合いではなく、一撃離脱の奇襲戦を得意とする、専門家集団だった。
そして、その中に、俺の部隊から一人の男が選ばれた。
獣人のガレウスだ。
「ガレウス。貴官の分隊を、この援軍の先導役とする。狼の民の嗅覚で、敵に気づかれずに、最短でビブラクスへ潜入せよ」
司令部から下されたその命令に、ガレウスは、その獰猛な口元を歪めて笑った。
「面白い。夜の狩りか。任せておけ」
俺は、その夜、ガレウスと彼の部隊のために、特別な配給を手配した。
通常の携帯食料ではなく、体力と集中力を最大限に維持するための、高カロリーな干し肉とナッツ。そして、夜間の行動に必要な、煙の出ない松明。
「…隊長。あんたらしいな」
出撃直前、ガレウスが、俺のところにやってきた。
「他の隊長なら『武運を祈る』とでも言うところだろうが、あんたは飯と明かりの心配か」
「当たり前だ」
と、俺は答えた。
「腹が減っては、狩りはできん。それに、俺の部下を、暗闇でつまらない怪我をさせて死なせるつもりはない。それだけだ」
ガレウスは、何も言わなかった。ただ、俺の肩を一度だけ強く叩くと、闇の中へと消えていった。
俺は、彼らを見送りながら、カエサルの本当の狙いを計算していた。
あの程度の兵力では、三十万の敵を撃退することなど不可能だ。カエサルも、そんなことは百も承知のはず。
そうだ。彼の狙いは、勝利ではない。
**「時間稼ぎ」と「揺さぶり」**だ。
援軍を送ることで、レミ族への「義理」を果たし、彼らの忠誠心を繋ぎ止める。
そして、敵の背後を奇襲することで、彼らの補給と攻城戦を妨害し、焦りと混乱を生み出す。
彼は、ビブラクスを救うために、最小限のコストで、最大限の政治的・心理的効果を狙っているのだ。
俺は、自分の腹の底から、冷たいものがせり上がってくるのを感じた。
あの男の頭の中では、兵士の命さえも、一つの数字として計算されているに違いない。
翌日の昼過ぎ、ビブラクスの方向から、黒い煙が上がっているのが見えた。
そして、その日の夕方。斥候のエルフ、シルウァヌスが、信じられない報せを持ち帰ってきた。
「隊長。ベルガエ連合軍が、ビブラクスの包囲を解きました。彼ら、目標を我々の要塞に変更。こちらへ向かっています」
俺は、思わず乾いた笑いを漏らした。
やはり、あの男は怪物だ。
「…ボルグ。どうやら、腹を空かせた三十万の獲物が、自分から俺たちの罠にかかりに戻ってきてくれたらしいぞ」
カエサルの描いた、巨大な盤上の戦いが、いよいよ、本当のクライマックスを迎えようとしていた。
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