第一部後半 第五章:王との対峙
カエサルの演説から数日後、俺たちの軍団は、ライン川へと続く広大な平原に布陣していた。
演説によって取り戻された士気は、本物だった。
兵士たちの顔から恐怖の色は消え、その代わりに、共和国軍としての誇りと、これから始まる戦いへの静かな覚悟が宿っていた。
だが、俺の心は晴れなかった。
兵士の士気など、戦況次第でどうとでも変わる、脆いものだ。俺が信じるのは、数字と計算だけだ。
そして、俺の計算が導き出す答えは、常に最悪の未来を示唆していた。
その日の正午、司令部から一本の命令が下った。
「総司令官と魔族の王アリオウィストゥスとの会談が行われる。第四大隊第三百人隊は、その護衛に付け」
俺は、思わず天を仰いだ。なぜ、俺たちなのだ。
ブルゴーニュでの功績が、完全に裏目に出た。目立ちたくないと思っていたのに、どうやら俺たちは、総司令官様のお覚えめでたい「使える駒」の一つに数えられてしまったらしい。
「…ボルグ。最高の兵士を選べ。少しでも気の抜けた奴は、置いていけ」
「言われるまでもない」
ボルグは、その黒曜石の瞳に、復讐の炎を燃らしながら答えた。
会談の場所は、両軍の中間地点に設けられた、小高い丘の上だった。
俺とボルグは、百人隊の精鋭を率いて、カエサルの少し後ろに陣取る。
俺たちの仕事は、ただ一つ。何があっても、総司令官を守り抜くこと。
やがて、地平線の向こうから、一団の影が現れた。
魔族だ。
その体躯は、共和国軍で最も大柄な兵士よりも、さらに頭一つ分は大きい。
鍛え上げられた鋼のような肉体は、まるで歩く攻城兵器のようだ。
そして、その全身から放たれる、純粋な暴力のオーラ。
それは、俺がこれまで対峙してきたどんな敵とも、明らかに異質だった。
そして、その中心に、王がいた。
アリオウィストゥス。
彼は、他の魔族よりもさらに屈強で、その頭には、まるで歪んだ王冠のように、二本の巨大な角が生えていた。
だが、俺が本当に恐ろしいと感じたのは、その威圧的な肉体ではない。
彼の、全てを見下すかのような、傲慢さに満ちた瞳だった。
カエサルとアリオウィストゥスが、丘の上で対峙する。
共和国と魔族、二人の王の会談が始まった。
俺の位置からは、彼らの会話のすべてを聞き取ることはできない。だが、その雰囲気だけで、交渉が決裂寸前であることは明らかだった。
カエサルは、静かだ。彼は、ただ淡々と、共和国の論理を語っている。
それに対し、アリオウィストゥスは、終始、せせら笑うような態度を崩さない。彼は、共和国のことなど、取るに足らない存在としか見ていないのだ。
俺の隣で、ボルグの呼吸が荒くなっていくのが分かった。
彼の巨大な拳は、戦斧の柄を、今にも握りつぶさんばかりに強く握りしめている。
俺は、彼の肩にそっと手を置き、無言で制した。まだ、その時ではない。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
アリオウィストゥスが、退屈そうに大きなあくびを一つすると、カエサルに背を向けたのだ。
交渉を、一方的に打ち切る、という意思表示。
「…話は終わりだ、人間の王よ。貴様らの首を、我が同胞への手土産にしてやろう」
その言葉を合図に、彼の背後に控えていた魔族の戦士たちが、一斉に武器を構えた。
「ボルグ!」
俺が叫ぶより早く、ボルグは俺の前に立ちはだかり、巨大な盾を構えていた。
俺たちの部隊も、即座にカエサルの周りを囲むように、盾の壁を形成する。
だが、魔族の攻撃は、俺たちの想像を絶していた。
彼らは、突撃してこなかった。ただ、その場で、一人の魔族が不気味な呪文を唱え始めたのだ。
すると、彼の両手の間に、灼熱の光を放つ、圧縮された魔力の塊が形成されていくのが見えた。
まずい。あれは…!
俺は、補給官の側近だった頃に読んだ、古代魔法に関する報告書の記述を、必死に思い出していた。
あれは、ただの火球ではない。着弾の瞬間に爆発的な衝撃波を放ち、盾ごと兵士を粉砕する、対陣形用の破壊魔法だ。
「全隊、盾を密着させろ! 衝撃波が来るぞ! 盾を地面に突き立て、全身で踏ん張れ!」
俺の命令に、兵士たちは即座に反応した。
彼らは、密集方陣の基本に立ち返り、互いの盾を重ね合わせ、巨大な一つの鉄の壁となる。
直後、魔力の塊が、唸りを上げて俺たちの盾の壁に叩きつけられた。
凄まじい衝撃と爆音。
盾の表面が赤熱し、最前列の兵士たちが苦悶の声を上げる。数枚の盾には亀裂が走り、何人かは衝撃で後ろへ吹き飛ばされた。
だが、壁は、崩壊しなかった。
俺たちは、耐えきったのだ。
「…ほう」
アリオウィストゥスが、初めて、わずかに感心したような声を漏らした。
「ただの雑魚ではないらしいな。良いだろう。次に会う時は、戦場だ。貴様らの頭蓋骨で、杯を作るのが楽しみだ」
そう言うと、彼らは再び大地を揺らしながら、自軍の陣営へと戻っていった。
俺たちは、ひび割れた盾と、立ち上る焦げ臭い匂いの中で、呆然と立ち尽くしていた。
カエサルの演説で生まれた、脆い自信は、完全に打ち砕かれていた。
俺は、隣に立つボルグを見た。
彼の瞳から、憎悪の炎は消えていた。その代わりに宿っていたのは、絶望的なまでに静かな、そして揺るぎない、覚悟の色だった。
俺は、これから始まる戦いの勘定書を、頭の中で計算し始めていた。
損耗率、五割。いや、七割か。
どちらにせよ、まともな数字が出てこないことだけは、確かだった。
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