第一部後半 第三章:石の街の絶望
東への行軍は、これまでのどの戦いとも違っていた。
さすらいのエルフ氏族との戦いには、まだ「勝てるかもしれない」という希望があった。
だが、今度の敵は魔族だ。我々が子供の頃から、寝物語で聞かされてきた、絶対的な恐怖の象徴。
兵士たちの顔からは表情が消え、ただ命令に従って足を動かすだけの、灰色の行列がどこまでも続いていた。
夜になると、その恐怖はさらに濃くなった。
焚き火を囲む兵士たちの間で、囁かれるのは故郷の話ではない。魔族に関する、絶望的な噂話だけだった。
「聞いたか? 斥候部隊が、魔族の斥候と遭遇したらしい。共和国軍が誇るエルフの斥候が、五人がかりで一人に敵わなかったそうだ」
「奴らの魔法は、大地そのものを腐らせるらしい。一度通った道は、十年は草木も生えんとか…」
俺は、そんな兵士たちに精神論を説く気にはなれなかった。
俺自身が、その恐怖を一番感じているのだから。俺にできることは、ただ一つ。
補給官の側近として叩き込まれた、俺だけの戦い方だ。
「ボルグ。今日の分の水嚢をチェックしろ。明日の水場までは距離がある。一滴たりとも無駄にするな」
「兵士たちの靴底がすり減っている。次の補給部隊が持ってくる交換用の靴の数を、正確に洗い出せ」
ボルグは、そんな俺のやり方が気に食わないようだった。
彼は、恐怖に怯える兵士たちを、より厳しい訓練で鍛え上げようとしていた。
その日の夕方、ついに俺とボルグは衝突した。
「ボルグ。今日の訓練はやりすぎだ。兵士たちが疲弊しきっている。このままでは、戦う前に倒れるぞ」
「甘いことを言うな、隊長! 奴らには、この程度の厳しさが必要だ! あんたのように、天幕にこもって数字をいじっているだけでは、兵士の魂は鍛えられん!」
「魂の前に、肉体が滅びては意味がない!」
俺たちは、激しく言い争った。
だが、その時だった。隣の区画から、数人の兵士が担架で運び出されていくのが見えた。
彼らは皆、高熱にうなされ、ひどい下痢に苦しんでいるようだった。
俺たちの部隊の兵士が、心配そうに呟いた。
「…またか。隣の百人隊、もう十人以上が病気で倒れてるらしいぜ」
「ああ。なんでも、隊長が焦って、地図にない小川の水を兵士に飲ませたらしい」
俺は、ボルグを見た。彼は、何も言えずに立ち尽くしていた。
俺の部隊では、病人は一人も出ていない。
俺が、行軍計画の段階で、全ての水場の位置と水質のリスクを計算し、兵士たちには必ず煮沸した水しか飲ませていなかったからだ。
補給官の側近だった頃、前線で最も多くの兵士の命を奪うのが、敵の剣ではなく不衛生な水だと、嫌というほど学んでいた。
俺は、ボルグに背を向けた。
「…ボルグ。俺のやり方は、兵士の魂は鍛えられないかもしれん。だがな」
俺は、自分の部隊の兵士たちを見渡した。
彼らは疲れてはいたが、その目にはまだ光があった。
「少なくとも、俺の部隊の奴らを、腹を壊して犬死にさせるつもりはない。それだけだ」
数日後、疲弊しきった俺たちの軍団は、ウェソンティオという街に到着した。
そこは、元々はドワーフが築いた要塞都市だった。
巨大な切り出し石で寸分の狂いもなく組まれた城壁。幾何学的に区画整理された、清潔な石畳の道。そして、街のどこにいても聞こえてくる、鍛冶場の規則正しい槌の音。
すべてが、ドワーフという種族の実直さと、勤勉さを体現しているようだった。
だが、この街に到着したことで、事態はさらに悪化した。
表向きは補給部隊の到着を待つため、ということだったが、本当の理由は誰の目にも明らかだった。
兵士たちが、これ以上前に進むことを、魂のレベルで拒否しているのだ。
この街に滞在して十日あまり。軍団の空気は完全に腐りきっていた。
兵士たちは、ドワーフたちが営む酒場の隅で、故郷の言葉でひそひそと囁き合う。その話題は、決まって魔族の王アリオウィストゥスに関する、さらに絶望的な噂話だけだった。
「一番恐ろしいのは、奴らの王アリオウィストゥスだ。その眼を見た者は、魂を抜かれて、ただの抜け殻になってしまうそうだ…」
噂は、尾ひれがついてあっという間に軍全体に伝染していく。
脱走兵が出始めたという報せも、日に日に増えていった。
ボルグは、街の城壁の上から、黙々と槌を振るうドワーフの職人たちと、酒場で怯える人間の兵士たちとを、毎日苦々しい顔で見比べていた。
俺は天幕にこもり、ひたすら数字と格闘していた。
食料や水は、恐怖そのものを洗い流してはくれない。この軍団を覆う絶望的な空気は、日に日に濃くなる一方だった。
そして、ついに軍全体の士気が地に落ちた、その時。
あの男が、動いた。
「全指揮官に通達! ただちに本陣前に集合せよ!」
カエサルが、俺たちの前に、初めてその姿を現そうとしていた。
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