第一部後半 第二章:新たな火種
ブルゴーニュの決戦から十日ほどが過ぎた。
野営地の西側からは、今もなお、故郷へと送還されるさすらいのエルフ氏族の、長くて黒い蟻の行列のような列が、地平線の彼方へと続いているのが見えた。
彼らが完全に故郷へ帰り着くまでには、まだ数ヶ月はかかるだろう。
だが、彼らはもう軍隊ではない。ただの、武器を持たない難民の群れだ。
俺たちにとって、「エルフとの戦争」は、もう終わったのだ。
俺の百人隊は、後方で再編成と補給を受け、ようやく「軍隊」としての形を取り戻しつつあった。
俺はと言えば、来る日も来る日も、新しい武具の員数チェックと、新兵の訓練計画の作成に追われていた。
地味で、退屈で、そして何より安全な仕事。後方勤務に戻ったようで、俺は内心、この日々が一日でも長く続くことを願っていた。
だが、俺の副官殿は、そうではなかったらしい。
ボルグは、日を追うごとに口数が少なくなり、その黒曜石の瞳には、焦りと憎悪の炎が宿っているように見えた。
彼は夜になると、一人で巨大な戦斧を研ぎ続けていた。その、砥石と鋼が擦れる不気味な音だけが、この束の間の平和が、決して長続きしないことを俺に告げていた。
その夜、野営地が妙な静けさに包まれた。
普段なら勝利の余韻で騒がしいはずの司令部周辺が、ぴんと張り詰めている。
見れば、カエサルの本陣の前に、見慣れない一団がいた。
森のエルフ氏族、セクアニ族の獣人、そして山から下りてきたドワーフの族長たち。
彼らは、共和国軍の兵士たちを警戒するように、フードを目深に被り、まるで罪人のようにうつむきながら、カエサルとの面会を待っているらしかった。
「何事でしょうな」
見張りに立っていた兵士が、不安そうに呟いた。
「さあな。だが、あれは我々が呼びつけた客人の顔じゃない。何か、よほど切羽詰まった願い事でもしに来た顔だ」
俺はそう言って、天幕に戻った。
面倒事の匂いが、ぷんぷんした。関わらないのが一番だ。
だが、俺のそんなささやかな願いは、翌日の昼、あっさりと打ち砕かれた。
「全軍に通達! これより我々は東へ向かう! ライン川を越えて侵入してきた、魔族の王アリオウィストゥスを討伐する!」
伝令の言葉が、野営地を凍りつかせた。
エルフとの死闘を生き延びたばかりの兵士たちが、今度はさらに恐ろしい魔族と戦わねばならない。その事実が、彼らの顔から血の気を奪っていく。
俺は、自分の天幕に戻ると、すぐに地図と羊皮紙を広げた。
東へ。ライン川へ。
頭の中で、即座に行軍ルート、必要な食料、予測される損耗率の計算が始まる。
相手は魔族。エルフ以上に、厄介な相手だ。
こちらの損害は、最低でも三割。いや、下手をすれば五割を超える。非効率極まりない、割に合わない戦いだ。
「隊長」
天幕の入り口に、ボルグが立っていた。
その顔は、これまでに見たことがないほど、凄まじい闘志に満ちていた。
「聞いたか。アリオウィストゥスだ。ついに、奴を討つ時が来た」
「ああ、聞いた」
俺は、地図から顔も上げずに答えた。
「面倒なことになった。このルートでは水場が少ない。補給部隊との連携を密にしなければ、戦う前に半数が飢えと渇きで倒れるぞ。全く、割に合わん」
「…割に合わん、だと?」
ボルグの声が、地を這うように低くなった。
俺が顔を上げると、彼は鬼のような形相で俺を睨みつけていた。
「あんたにとって、これはただの『計算』か? 損得勘定か?」
「当たり前だ。俺の仕事は、この百人隊を、一人でも多く生きて故郷に帰すことだ。そのためには、無駄な損害は一ミリだって許容できん」
俺がそう言い切った瞬間、ボルグの巨大な拳が、俺の目の前の机を叩き割った。
「故郷など、もうない!」
ボルグの、獣のような咆哮が、狭い天幕に響き渡った。
「俺の故郷は、アリオウィストゥスに焼かれた! 仲間も、家族も、すべて奴らに奪われた! 俺にはもう、この斧に宿る復讐心しか残っていない! それを、あんたは『割に合わん』の一言で片付けるのか!」
俺は、何も言い返せなかった。
ボルグは、荒い息をつきながら、俺を睨みつけていた。その瞳には、俺への軽蔑と、そしてどうしようもない悲しみが浮かんでいた。
「あんたには分かるまい! すべてを失ったことのない、あんたのような男には!」
「…」
「だが、覚えておけ。俺は奴らを倒す。この命の全てを捧げてもな」
それだけ言うと、彼は背を向け、天幕から出て行った。
俺は、叩き割られた机の残骸を、ただ呆然と見つめていた。
俺は、生き残るために、この戦いの「損失」を計算していた。
ボルグは、死ぬために、この戦いの「意味」を求めていた。
俺たちの道は、もう決して交わることはないのかもしれない。
俺は、この軍団で、本当の意味で一人になったのだと悟った。
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