第一部後半 第一章:勝利の勘定書
ブルゴーニュの決戦が終わって数日、野営地は奇妙な熱気に包まれていた。
他の指揮官たちが手柄話に花を咲かせ、戦勝祝いにうつつを抜かす中、俺の天幕には、クラウディウスからの命令で、第四大隊すべての死傷者報告書と、捕虜の名簿、そして鹵獲した物資のリストが、巨大な山となって運び込まれていた。
「お前は補給官の側近上がりで、計算が得意らしいな。ちょうどいい、これを整理しておけ」
あの男は、そう言い放ったきりだ。
これは、賞賛ではない。ただの、面倒事の押し付けだ。
俺は、その羊皮紙の山を前に、心底うんざりしながら、インクの匂いが染みついた指で、一枚目の報告書を手に取った。
これが、戦争の正体だ。英雄譚の裏側にある、無味乾燥な勘定書。
そして、どういうわけか、その計算はいつも俺の仕事になるらしい。
そんな時、司令部から新しい命令書が届いた。
差出人は、総司令官カエサル。
その内容は、俺が今まさに計算している、この勘定書の行き先を示すものだった。
「降伏したさすらいのエルフ氏族を、彼らの故郷へ送還せよ。そのための食料と、来年の春に蒔くための種籾を、共和国軍の備蓄から支給すること。必要量を計算し、報告せよ」
なんだ、これは。
慈悲? あの男が?
俺は、思わず鼻で笑ってしまった。
捕虜は奴隷として売り飛ばすか、労働力として使うのが常道だ。敵に食料を与えて送り返すなど、聞いたことがない。ましてや、来年の生活を保障する種籾まで。
これは、慈悲というより、ほとんど慈善事業だ。
だが、あのカエサルという男が、そんな感傷的な判断を下すはずがない。
俺は、天幕に広げたガリア全土の地図を睨みつけた。
さすらいのエルフ氏族の故郷。その北に広がる、深い森と山脈。そして、そのさらに向こう側。
ゲルマン連合、つまり、魔族の領域。
その瞬間、俺はすべてを理解した。
背筋に、氷の刃を突き立てられたかのような、冷たい悪寒が走った。
これは、慈悲などではない。
これは、あの男が描く、次なる戦争のための、あまりにも冷徹で、あまりにも巨大な**「布石」**だ。
さすらいのエルフ氏族の故郷が、無人の地になればどうなる?
そこは、北から常に領土を狙っている魔族にとって、格好の侵入経路になる。
カエサルは、それを防ごうとしているのだ。彼らを、生きた**「防波堤」**として、元の場所に戻すことで。
彼にとって、さすらいのエルフ氏族は、もはや敵ですらない。ただの、戦略地図の上に配置し直すべき、便利な駒の一つなのだ。
俺は、自分の立てた計算が、そのあまりの非人間的な正しさの前に、色褪せていくのを感じた。
俺がやっているのは、ただの算術だ。だが、あの男がやっているのは、国家と民族を駒として動かす、神の領域の遊戯だ。
「…隊長」
いつの間にか、ボルグが天幕の入り口に立っていた。
俺が地図を睨みつけているのに気づいたのだろう。彼の視線は、俺の指が示す、魔族の領域に注がれていた。
「奴らのことか」
その声は、普段の彼からは想像もできないほど、静かな憎しみに満ちていた。
「ああ。次の厄介事は、こいつららしい」
俺がそう答えると、ボルグは重々しく口を開いた。
「俺の故郷は、あの山の向こうにあった。アリオウィストゥスという名の王が率いる魔族の軍勢に、一夜にして焼き尽くされるまではな」
俺は、言葉を失った。
ボルグは、ただ、地図の上のその一点を、燃えるような瞳で見つめていた。
「俺の一族は、皆殺しにされた。生き残ったのは、俺を含めてほんの数人だ。俺が共和国軍に入ったのは、生きるため、そして…いつか奴らに、この斧で借りを返すためだ」
俺は、初めて、この無骨なドワーフの魂の奥底に触れた気がした。
そして同時に、悟った。
俺が「面倒事」としか思っていないこの戦争は、ボルグにとっては、彼のすべてを懸けた復讐戦なのだ。
俺は、ボルグの肩に、そっと手を置いた。
どんな慰めの言葉も、この男の前では無力だろう。
「…そうか」
俺は、ただ、それだけ言った。
ボルグは、何も答えなかった。
外では、まだ兵士たちの勝利を祝う喧騒が続いている。
だが、俺たちの天幕の中だけは、次なる戦争の、静かで、そして決定的な予感に満ちされていた。
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