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第9話 香鏡回路と赫炎の契り ―人か、竜か―

【0. 月蝕 00:01】

 ――0時1分。月が、完全に喰われた。


 天蓋は、磨かれた黒曜石のように深淵なる闇を湛え、星々の瞬きさえも呑み込み、ただ不吉な、血を薄めたようなあけの輪郭だけが、喰われた月の存在を虚しく、そして嘲笑うかのように縁取っている。


 地の底では、その凶兆に呼応するように、あかき竜核が、どくん、どくん、と、そのおぞましい脈動を早め、洞窟全体を不気味な揺れで満たしていく。

 闇と血の赤が支配する世界。

 息苦しいほどの絶望だけが、そこには満ちていた。



【1. 香鏡回路

(暗い……熱い……アルヴィン様……どこ……?)


 落下する一瞬の浮遊感と、何かに強く体を打ち付けた衝撃の後、私の意識は混濁した闇の中を、出口の見えないまま漂っていた。

 ランスロットに攫われたのだと、はっきりと認識したのは、肌を刺す洞窟の冷気と、遠くに反響する獣の咆哮、そして、私を抱える彼の鎧の、冷たくて硬質な感触からだった。

 どれほどの時間が経ったのだろうか。あるいは、ほんの数瞬だったのかもしれない。

 ふと、目の前に、あの赤黒く脈打つ巨大な《核》が、圧倒的な存在感をもって迫っていることに気づく。

 その禍々しい光が、否応なく、私の魂の奥底まで届き、私の纏う白檀の香りに触れた瞬間――。


 パァンッ!と、脳内で何かが弾け飛んだ。


 目の前に、鮮烈な光と共に、あの古き「姫と竜の悲恋」の物語が、単なる知識としてではなく、痛みと愛おしさを伴う、生々しい記憶の奔流として、私の意識の中に直接流れ込んできたのだ。


 ――それは、声なき声で語られる、魂の追体験。


 視界が開けると、そこは霧深い山の頂き。古びた祭壇の前に、凛とした気品を纏いながらも、そのまぶたの奥には、国を救うという重責と未知なる竜への恐れから来るのであろう、かすかな震えが見て取れた、美しい姫君が立っていた。


《むかしむかし、あるところに、それはそれは美しいけれど、いつも書物を片手に物思いにふける、聡明な姫君がおわしました……》


 私の胸が、彼女の覚悟と不安に共鳴して、きりりと痛む。


 突如、空が陰り、巨大な影が祭壇を覆う。月をも隠す巨大な黒き竜。その威圧感に、姫君は息をのむが、決して瞳を逸らさない。竜は鋭い牙をむき、姫君を一口に食らおうと、その巨大な顎を開いた。


 その瞬間だった。


 姫君の身から、ふわりと、まるで彼女の魂そのものが香り立つかのような、清冽で、甘く、そしてどこまでも優しい〈永劫の香り〉が立ち上ったのだ。


 竜の動きが、ぴたりと止まる。その紅い瞳が見開かれ、驚愕と、信じられないものを見たかのような戸惑いの色が浮かぶ。永い孤独と、決して満たされることのなかった魂の渇きが、その香りによって、初めて癒されるかのような、圧倒的な安らぎ。


《竜は、生まれて初めて感じる魂の温もりに、その巨大な体を震わせ、姫君にこう言ったのでございます。

 「どうか、どうかここにいてはくれまいか。わたしは……もう、ひとりでは……」

 凍てつくような声が、ひび割れて砕けるかのようだった。それは、威厳ある竜の言葉とはとても思えぬ、か細く、途切れ途切れの、まことに情けないほどの願いでございましたと。》


 ああ、彼の声が聞こえる。永い孤独に耐えかねた、魂からの悲痛な懇願が。私の頬を、熱いものが伝っていく。


 姫君は、竜のその思いがけない弱さと純粋さに触れ、心が揺れる。


《姫君は、そんな竜を放ってはおけませんでした。見かけは恐ろしいけれど、本当は寂しがり屋で、ちょっぴり臆病で、そして誰よりも優しい心を持った彼……。なにより、その大きな体にそっと寄り添うと、陽だまりのように温かくて、心地がよくて……。姫君は、生まれて初めて、そんな満たされた気持ちになったのでございます。》


 その温もり、その心地よさ……まるで、私がアルヴィン様の香りに包まれる時のような……。姫君の胸の高鳴りが、時を超えて私の心臓を打つ。


 山の砦での、二人だけの密やかな日々。

 姫が古書を読み聞かせると、巨大な竜は、その傍らで静かに目を閉じ、心地よさそうに喉を鳴らす。時には、姫の小さな手に、その大きな鼻面をすり寄せ、不器用な愛情を示す。言葉は少なくとも、二人の間には、確かに温かな信頼と、そしてそれ以上の何かが育まれていた。


《竜は、星月夜に、そっと嘆息をもらしました。「もし、わたしが人の姿を得られたなら……この腕で、そなたをかき抱き、同じ時を生き、愛を語り、共に老いていくことができたなら……」と。》


 その切なる願いが、私の魂に突き刺さる。叶わぬと知りながらも、愛する者と同じ時を歩みたいと願う、その痛みが。


 しかし、運命は残酷だった。

 英雄の到来。誤解。そして、避けられぬ戦い。

 姫は必死に止めようとするが、その声は誰にも届かない。


《激闘の最中、姫君の清らかな香りが、一瞬だけ、竜の猛りを鎮めた、まさにその時でございます。悲劇は起こってしまいました。勇者の剣が、図らずも、姫君を庇った竜の胸を、深く、深く貫いたのでございます。》


 スローモーションのように、世界が色を失う。飛び散る真紅の血。返り血で真っ赤に染まる勇者。姫の、声にならない絶叫。竜の、信じられないものを見るかのような、傷ついた紅い瞳。


《息絶える寸前、竜は、薄れゆく意識の中で、姫君に最後の言葉を告げました。「人間になり、君を抱き、共に老いて……死にたかった……」と。》


 その言葉は、愛の告白であり、叶わなかった夢への慟哭であり、そして姫への、最後の優しい別れだった。

 姫君は、竜の温もりが急速に失われていくのを感じながら、自らの内にも、竜への、かけがえのない深い愛があったことを、この絶望の瞬間に悟る。しかし、その愛を伝えるには、あまりにも遅すぎた。


《姫君が最後に遺したのは、竜との真実の愛をそっと隠し、少しでも竜への慈しみを残そうと、言葉を尽くして書き換えられた「竜妃の昔語り」という、一冊の物語でございました。》


 それは、愛する者を守るための、彼女の最後の、そして最も悲しい嘘。


 止めどなく溢れる涙が、私の視界を滲ませ、現実の闇へと意識を引き戻した。

 これが……これが、ラヴェル家に伝わる呪いの始まり。そして、私の香りが持つ意味。


 私は、あの姫の、遠い遠い末裔……。この悲劇を、この哀しみを、繰り返してはならない。絶対に。



【2. 抱擁鎮静・背後Ver.】

「エリィィィィィィーーーーーッ!!!」


 魂を絞り出すような絶叫。それは、完全に竜へと変貌しかけたアルヴィン様の、最後の、そして最も切実な叫びだった。

 私は、香鏡回路の圧倒的な奔流から意識を引き戻すと、彼がいたはずの場所へと必死で手を伸ばす。しかし、そこにはもう、彼の温かい人間の姿はなかった。


「アルヴィン様……!」


 その時、背後から、焼けつくように熱い獣の呼気が、私の首筋にかかった。

 振り向くよりも早く、巨大な、硬い鱗に覆われた腕が、私を背後から力強く、しかしどこか壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。


 それは、アルヴィン様だった。

 もはや人の面影はほとんどなく、燃えるマグマのように紅く血走った巨大な竜の瞳が、私のうなじを、そしてその奥にある魂を見下ろしている。その瞳には、抑えきれぬ破壊衝動と、そしてほんの僅かな、私への、焼け付くような執着の色だけが残っていた。


(アルヴィン様視点)

 闇だ。赤黒い。俺は誰だ? 何を求めている? 熱い。苦しい。骨がきしみ、肉が裂ける。ただ、この、か細い首筋から香る、魂を焦がすような甘い匂いだけが、この狂おしい闇の中で俺を繋ぎとめている唯一の光。エリィ……。

 そうだ、エリィの香りだ。もっと、もっと深く……。この香りに、この温もりに、永遠にこの腕の中で溺れてしまいたい。俺の全てを、この香りで満たしてくれ……。


(エリザベート視点)

 私は、彼の巨大な心臓が、まるで嵐のように荒々しく、しかしどこか規則的に私の背中に直接伝わってくるのを感じながら、震える手で、あの枕と、蜜の染みたハンカチを、彼の竜のかんばせへと必死で押し当てた。


 枕でその恐ろしい牙が隠された前面を、ハンカチで角が生え始めた後頭部を。そして、私の唇を、彼の熱い、鱗に覆われた首筋へ――。


「アルヴィン様っ! わたくしです! あなたのエリザベートですわ! どうか、思い出して!」


 蜜と、私の全ての香りを、彼の荒れ狂う魂の奥底へと、直接注ぎ込むように。



【3. ランスロット赤涙】

 その間にも、ランスロットは骨鐘の破片で傷ついた片目を押さえ、獣のような低い呻き声を上げていた。


 彼の暴走は、しかし、先ほどとは明らかに少し様子が違う。

 私の香りが満ちるこの空間で、彼の、唯一残った竜の瞳から、ぽろり、ぽろりと、赤い灰のようなものが、まるで血の涙のように零れ落ち始めたのだ。それは、確かに涙の形をしていた。


「嗚呼……竜の瞳で泣いても、熱いだけだな……。……人の涙が、うらやましい……」


 それは、彼が人間だった頃の、最後の、そして最も純粋な感情の残滓かもしれなかった。


「サイラス卿! あの灰を、早く!」


 私の必死の声に、サイラス卿がハッと気づき、恐怖に震える手で、その赤い灰を慎重に採取し始めた。灰が彼の指先に触れた刹那、淡い燐光りんこうが微かに跳ねるのが見えた。


「こ、これは……! 間違いありません! 竜血を中和する、浄化の成分を含んでいますぞ! 香花の蜜と合わせれば……まさしく“赦火しゃか”の触媒に……!」


 ランスロット救済の、小さな、しかし確かな光が、絶望の闇の中に灯った瞬間だった。



【4. 核外殻崩壊】

 アルヴィン様の暴走は、私の必死の「背後抱き鎮静」によって、その進行が奇跡的に止まり、かろうじて人の形を保つまでに落ち着いていた。しかし、洞窟の核の脈動は依然として激しく、私たちを押し潰そうとするかのように、その圧力を増していく。


「サイラス卿! 今ですわ! 早く!」

「も、もちろんですとも! お任せください!」


 サイラス卿は、採取した赤い灰と、僅かに残っていた香花の蜜を、震える手つきながらも素早く調合すると、それを骨鐘の残骸と、赤黒く脈打つ核の外殻へと、祈るように勢いよく散布した。


「古の文献に僅かに記されていた“逆結界”の試作です! 成功すれば、この場の禍々しい魔力の流れを反転させ、あるいは……あるいは、この呪われた空間そのものを浄化できるやもしれません!」


 彼の言葉と共に、核の表面が、まるで苦しむかのように激しく明滅し、洞窟全体がこれまでにないほど大きく、そして長く揺れた。


 ドゴォォォン!!という、耳をつんざくような轟音と共に、洞窟の天井の一部が、巨大な口を開けて崩落し始めたのだ。

 そこから、月蝕の深紅の光とは明らかに異なる、夜明けの、清浄で、希望に満ちた黄金色の光が、まるで天からの救いのように、まっすぐに差し込んできた。



【5. 地上《廃砦》】

「エリィ、掴まれ! 今だ!」


 アルヴィン様は、まだ完全に人間に戻りきってはおらず、その逞しい腕や美しい頬に竜の鱗を痛々しく残したままだったが、その紅い瞳には、確かな理性の光が、そして私への深い愛情の色が宿っていた。


 私たちは、崩れゆく洞窟を、互いの体を支え合いながら必死で駆け上がり、ついに、その黄金色の光が差す場所へと辿り着いた。

 そこは、雪がうっすらと、しかし清らかに積もった、古い古い砦の跡だった。

 見覚えがある。先ほどの香鏡回路で見た、あの姫と竜が、束の間の幸せな時を過ごした、あの《山砦》の――。


 満天の星明かりと、月蝕の終焉を告げるかのように東の空を染め始めた淡い曙光が、純白の雪を照らし、あまりにも幻想的で、そしてどこか物悲しい光景を作り出している。

 風化した石壁には、あの姫が描いたのであろうか、巨大な竜と小さな人が、互いに優しく寄り添う、素朴で温かい壁画の跡が、幾星霜の時を超えて、辛うじて残っていた。



【6. 赫炎の契り】

「はぁ……はぁ……エリィ、無事か……」


 アルヴィン様は、砦の崩れた壁に背を預け、荒い息をついている。その胸には、先ほどの骨鐘の破片が突き刺さった傷が、赤黒く疼き、彼の命を蝕んでいるのが見て取れた。

 そして、その傷を中心に、彼の心臓の上に、まるで竜の鱗が紋章のように凝縮したかのような、赤黒い《半竜残滓》の刻印が、禍々しく浮かび上がっていた。


「ぐ……うぅ……! まだ……だめだ……」


 刻印が、地下の核と未だに共鳴するように激しく疼き、彼の体が再び竜へと傾きかける。その瞳に、絶望の色がよぎる。


「アルヴィン様!」


 私は、彼の前に静かに跪くと、彼の額に自分の額をそっと合わせた。そして、私の香りの全てを、その不吉な刻印へと注ぎ込むように、彼の胸に両手を当てる。


「貴方が人でも、たとえ竜の姿になろうとも、わたくしの胸は――いつでも、同じ音で、同じ速さで、あなたのために震えますわ。だから、お願い、もう一人で苦しまないで」


 私の言葉に、彼の瞳の紅が、ほんの少しだけ、しかし確かに和らぐ。


「香りが……怖いほど甘い。……けれど、お前の、エリィの声が混ざると、……ただ、優しい……」


 私は、その掠れた、しかし愛おしい言葉に応えるように、彼の冷たい唇に、そっと自分の温かい唇を重ねた。

 それは、治療でも、鎮静でもない。ただ、この溢れる想いを伝えるための、初めての、そして……永遠のキス。


 キスを解くと、私は彼の胸の刻印に、白檀の香りを纏った自分の指先で、そっと、愛しむように封印を施すように触れた。


「これが、わたくしたちの、あかき炎の契りですわ。決して消えない、魂の約束……」



【7. ラスト30秒】

 その時だった。

 砦の石壁の向こう、遥か遠くの王都の方角の空が、一瞬、禍々しいまでの紅に染まった。まるで、巨大な竜が、天を引き裂くように咆哮したかのような、不吉な狼煙のろし


「まさか……伯爵家本邸が……!」


 サイラス卿が、声にならない、絶望的な声を上げる。


 その瞬間、アルヴィン様の胸の《半竜残滓》の刻印が、まるで生きているかのように赫々と激しく疼き、彼の全身を再び紅い炎のような、しかし以前とは質の異なる、神々しささえ帯びたオーラが包み込んだ。

 私の香りが、かろうじてそれを人の形に繋ぎとめているが、いつまた暴走してもおかしくない、あまりにも危うい、ギリギリの状態。


 月が、完全にその姿を現そうとしていた。

 しかし、王都から立ち上る紅き光は、まるで新たな、そしてさらに巨大な月蝕の始まりを告げるかのように、不気味に、そして急速に天を覆い尽くしていく。


「本邸が、呪いの中枢に……変じた……というのか……?」


 アルヴィン様が、苦悶に歪む顔で、しかしどこか運命を受け入れたかのような静かな声で呟いた。


――TO BE CONTINUED―

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