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第8話  赫き竜核と月下契り ―暴走と抱擁―

【0章題プロローグ】

 月が、喰われる。

 夜空にかかる銀の盆は、まるで巨大な獣の顎に捕らえられたかのように、ゆっくりと、しかし確実にその輪郭を闇に侵食され、清冽な光を失っていく。不吉な紅が、その欠けた縁を滲ませる。


 地の底、あかき竜核が脈打つ。

 どくん、と一度。それは、古の闇が揺籃から目覚める胎動。

 どくん、と二度。それは、忘れ去られた血の記憶が、熱をもって蘇る予兆。

 そして、三度目の重々しい鼓動が、もはや誰にも止められぬ運命の歯車を、無慈悲に、そして確実なる破滅へと向かって回し始める――。



【1闇の奈落 ―ランスロットの巣窟】

 気が付くと、私は冷たい石の壁に背を預ける形で、何かにきつく拘束されていた。

 ざらりとした岩肌の感触が、薄いドレス越しに肌を刺す。手首、足首、そして鎖骨から腰にかけてを、まるで意思を持つかのように、ごわごわとした暗緑色の「竜樹の蔦」が、生き物のように私を締め付けていた。

 身じろぎするたびに、蔦の棘が肉を撫で、じくじとした痛みが薫り立つようだった。


 目の前には、あの黒騎士――ランスロットが、兜を脱いだ素顔で、苦悩の色を浮かべて立っていた。

 片方の瞳は、かつての騎士の面影を残す青い光を失い、赤黒く濁った竜のものへと変貌してしまっている。その双眸が、複雑な感情をたたえて、じっと私を見つめていた。


「……すまない。だが、こうする他なかったのだ」


 彼の声は、洞窟の湿気を含んで掠れ、その指先は、鞘に収められた剣の柄の上で微かに震えている。頬には、いつのものか、乾いた涙の痕のようなものが痛々しく光っていた。


「姫……いや、エリザベート殿。あなたは、我らが真の竜神様を蘇らせるための、唯一無二の《器》なのだ。この竜核の脈動と、あなたの魂が、今まさに同調し始めている……。

 もう少しだ、もう少しで、この永劫の苦しみからも、そしてあの御方も、解放されるのだ……」


 彼の言葉と共に、私の胸の奥深くで、何か巨大なものが、どくん、どくん、と直接的に脈打つのを感じた。

 それは、この洞窟の最奥で不気味に鼓動を続ける、あの赤黒い心臓の響き。蔦を通して、その禍々しい生命力が、直接私の内に流れ込んでくるかのようで、息が詰まる。圧倒的な無力感が、甘い吐息へすり替わるのを感じた。私の意思とは無関係に、体が熱を帯びていく。



【2暴走境界 ―アルヴィン捜索】

「アルヴィン様っ! エリザベート様が、ランスロットに!」


 サイラス卿の悲鳴に近い声が、崩壊した骨鐘の広間に、絶望の色を乗せて響き渡る。


 彼は、私が落下する間際に落とした、あの蜜の染みたハンカチを必死で手に取り、魔石ランプの揺らめく光を頼りに、その紋様を複雑な手順で調整していた。核から放たれる特有の波長に、このハンカチに残る私の香りを同調させることで、僅かでも私の気配を追おうという、藁にもすがるような試みだった。


 一方、その頃のアルヴィン様は。


 私を失ったという絶望感と、この地の底で増幅される核の共鳴によって、彼の内に潜む竜の呪いは、もはや七割方、その理性の領域を侵食し尽くしていた。


 その紅い瞳は、人の知性を失い、ただ血のように赤く濁っている。喉の奥からは、もはや言葉にならない、獣のような低い唸り声が絶え間なく漏れ出ていた。両手の爪は完全に黒く太く伸び、肩や背中からは、硬質な黒い鱗が、彼の高価なシャツを無残に突き破って現れ始めていた。

 それでも、彼の魂の最も深い場所で、風前の灯火のように揺らめく理性の最後の欠片が、一つの言葉を、ただ一つの名前を、血を吐くように、必死に紡いでいた。


「エリィ…… あの香りは……どこ…?」


 囁き一つで、私の心臓が遠く離れた場所でも呼応するように暴れた。

 その呟きと共に、彼は破壊の限りを尽くしながら、本能の赴くままに、この地下迷宮の壁をなぎ倒し、岩を蹴散らし、ただ私の香りの痕跡だけを頼りに突き進む。その姿は、もはや人のそれではなく、傷つき、愛するものを奪われた猛獣そのものだった。

 彼の爪と瞳が、限界が近いことを示すように、不吉な黒と絶望の紅の光を、激しく、そして不規則に点滅させていた。



【3蜜鏡回想】

 ランスロットは、拘束された私を抱きかかえると、まるで大切な宝物を運ぶかのように、ゆっくりと洞窟の奥、あの赤黒く脈打つ巨大な「核」が鎮座する広間へと近づけていく。


 核が近づくにつれ、その甘く危険な香りと共に、私の頭の中に、まるで万華鏡のように、様々な時代の、様々な場所の映像が、激しく流れ込んできた。

 それは、ランスロット自身の、悲痛な記憶の断片。そして、ラヴェル家に代々伝わる「竜妃伝」の、血塗られた真実の場面。


 山頂の寂しい祭壇。そこに捧げられた、世界を救うと信じられていた特異な香りを放つ姫。

 その香りに、永い渇きと孤独の中にいた竜が、初めて魂を震わせる衝撃を受ける。

 砦での密やかな、そして穏やかな同居生活。芽生え、育まれていく、種族を超えた禁断の恋情。しかし、その幸せは、英雄の剣によって無残に引き裂かれる……。


 場面は不意に転換し、なぜか昨夜の、アルヴィン様の寝室が鮮明に映し出された。

 私が彼に貸した、白檀の香りが染み込んだ枕。それを胸に抱きしめ、まるで子供のように安らかな寝息を立てる彼の顔。そして、彼が寝言で、しかしはっきりと呟いた「君ヲ抱キ 人ト逝ク」という、あの切ない言葉……。


 ふと、その幻視の最後に、今は亡き古の王女が、どこか寂しげに、しかし慈愛に満ちた表情で、アルヴィン様の枕とよく似た、刺繍の施された小さな枕を抱きしめて微笑む姿が、一瞬だけ、鮮烈に重なって見えた気がした。まるで、私に何かを伝えようとするかのように。



【4邂逅衝突 ―三者再会】


「エリィィィィィッ!!」


 壁が砕け散る轟音と、獣の咆哮としか思えぬ絶叫と共に、アルヴィン様が最後の隔壁を蹴破り、この核の広間へと凄まじい勢いで乱入してきた!


 その姿は、もはや半分以上が、彼が最も恐れていた竜そのものだった。背中からは、漆黒の巨大な翼の原型が皮膚を突き破って盛り上がり、その鋭く尖った先端が禍々しく空を掻く。口元からは、制御しきれぬ蒼い炎が、まるで彼の苦悶の吐息のように漏れ出ている。


 折しも、洞窟の天井の裂け目から差し込む月蝕の深紅の光が、核の不気味な脈動と、アルヴィン様の内に眠る竜の呪いを、恐ろしいほどに共振させ、彼を完全な《竜神形態》へと、刻一刻と変貌させようとしていた。


「来るな! それ以上近づけば、姫が、この核の力に完全に呑まれてしまうぞ!」


 ランスロットが、私を庇うようにその巨体で立ちふさがり、変貌しつつあるアルヴィン様と激しく激突する。

 元王都近衛騎士と、現ラヴェル伯爵。二人の、竜の血と運命をその身に宿す者が、私という一点を挟んで、互いの全てを賭けた壮絶な戦いを開始した。剣と槍が交錯するたびに、火花が散り、洞窟全体が揺れる。


「アルヴィン様っ! わたくしです! エリザベートですわ!」


 私の必死の呼び掛けに、アルヴィン様の血に染まった紅い瞳が一瞬だけ、人間の知性と悲しみの光を取り戻した。

 彼は、まるで悪夢の中でもがくように苦しげに私を見つめ、その引き裂かれた唇が、微かに、しかし確かに動いた。


「……枕……返す……だから……逝くな……エリィ……」


 その言葉は、呪いと狂気の中で、彼が唯一保っていた、私への、そして人間としての彼自身への、切なる想いの残滓。


「この方もまた、愛する姫様を……己の無力さ故に守りたかっただけなのだ……!」


 ランスロットが、血を吐くような悲痛な声で叫ぶ。その竜の瞳の奥からは、憎悪とは異なる、深い深い悲しみと後悔の色が、痛いほどに滲み出ていた。



【5二度目の治療キス+枕フラグ全開】

(もう、迷ってなどいられない! このままでは、アルヴィン様も、ランスロットも、核の力に呑まれてしまう!)


 私は、ありったけの力で、腕に食い込む竜樹の蔦を強引に引きちぎると、よろめきながらもアルヴィン様へと駆け寄った。

 そして、暴走する彼の、鱗に覆われ始めた背後から、強く、強く抱きしめた。


「アルヴィン様!」


 彼の熱い首筋に、躊躇など微塵もなく唇を寄せ、残っていた香花の蜜の香りを移すように、深く吸い付く。そして、私の全ての香りを、彼の荒れ狂う魂へと注ぎ込むように、強く息を吹きかけた。


 胸元から、あの蜜の染みたハンカチと、そして夜明けに返してもらったばかりの、彼の温もりがまだ残る枕を取り出し、彼の顔と体に必死で押し当てる。

 ハンカチ、枕、そして私の唇からの蜜と香り――この三点セットでの暴走抑制三種の神器プロトコル、完成よ!


「ぐ……ああ……エリィ……君の、香り……温かい……」


アルヴィン様の体から、黒い鱗がまるで陽炎のように潮が引いていく。漏れ出ていた蒼い炎も急速に勢いを失い、背中の翼もまた、その禍々しい姿をゆっくりと潜めていった。


「エリィ……たすかった……」


 背後からの抱擁、首筋へのキス、そして全身を包む私の香りと蜜の力。私史上最大糖度(自分で言ってて恥ずかしい!)の治療が、かろうじて彼の理性を呼び戻したのだ。


(掌に微かに残る甘い湿り――ええ、これが私だけの護符)


「おおお! なんという現象かっ! この治癒プロセスと、それに伴う竜血活性の鎮静化メカニズムは、ラヴェル伯爵家の特異体質と、奥様の稀有なる芳香成分の相互作用によるものかっ! 学会報告3冊分どころでは済みませんぞ、これは!」


 サイラス卿の、場違いなほど興奮した学術的な声が、戦場の張り詰めた緊張感を、ほんの一瞬だけ和ませた。



【6竜核砕破ミッション】

「今……しかない! 核を、破壊する!」


 アルヴィン様が、まだ荒い息をつきながら叫ぶ。私たち三人は、言葉はなくとも、一瞬だけ視線を交わし、互いの覚悟を確かめ合うように頷き合う。


 骨鐘を破壊し、その中にある核を露出させ、浄化する。

 アルヴィン様と、一時的に憎悪を忘れたランスロットが、左右から同時に骨鐘へと渾身の力で斬りかかる。凄まじい衝撃音と共に、巨大な骨鐘に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った!

 しかし、その破砕片の一つが、ランスロットの、唯一残っていた人間の目を直撃する。


「グオオオオッ!」


 彼の竜瞳が、完全に憎悪と苦痛の色に染まり、再び暴走を始めた。


 鐘の腹に、赤黒い巨心臓。どくん――どくん。むき出しになった核の赤い光が、まるで呼応するように、私の体から放たれる白檀の香りを異常なまでに増幅させ、周囲一帯が、甘く、しかしどこか危険な白い霧に包まれていく。


 砕けた骨鐘の、最も大きな、そして最も禍々しい気を放つ欠片が、アルヴィン様の胸を深く、そして無慈悲に抉った。


「アルヴィン様!!」


 彼の体から、再び、そして今度はこれまでにないほど激しく、おびただしい量の黒い鱗が、まるで内側から爆ぜるように噴き出す。彼は、完全に、そして抗いようもなく、竜へとその姿を変えようとしていた。


 私はあの枕を必死で取り出し、彼の、もはや人間のものではない鱗に覆われた胸へと、強く押し当てる。


「アルヴィン様! もう、枕の返却など要りませんわ! これからは……これからはずっと、一緒に眠りましょう!」


 添い寝枕が、ついに常駐アイテムとなる、魂からの宣言。


 しかし、その時、洞窟の裂け目から見えていた月が、完全に影へと隠れた。

 月蝕カウント0。

 世界が、一瞬にして真紅の闇に染まる。

 落下。頬をかすめた指、熱のまま宙に凍る。


「枕を……返さねば……」


 彼の最後の言葉が、耳の奥でこだまする。届かず、温度だけが残った。

 アルヴィン様の最後の理性が、赤い闇の中で、ぷつりと途切れようとしていた――。


(第8話 了)

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