第7話 竜骨洞の心臓 ―鼓動する“核”と骨鐘の結界―
① 洞奥へ―“香り羅針盤”
深紅の闇へと歩みを進めた私たちを導いたのは、意外にも、私が持っていた蜜の染みたハンカチだった。
アルヴィン様がそれを「香り羅針盤」と名付けた。ハンカチから放たれる甘い香りが、洞窟の奥から流れてくる微かな気流に乗り、まるで目に見えない糸のように、私たちを「核」へと続く正しい道へと誘うのだ。
「こちらだ」
アルヴィン様が、暗闇の中で私の手を自然に取る。ひんやりとした彼の指先が、私の手を包んだ。その瞬間、彼の呪いの熱が少しだけ和らぐのが、繋がれた手を通して伝わってくるようだった。
彼が私の脈を指先でなぞっているのだと気づいたとき、アルヴィン様が、ほんのわずかにその手を握り返してくれた。
“彼も、私の鼓動に気づいていらっしゃる…?” そう思うと、顔が熱くなった。
暗所は少し苦手だけれど、彼の大きな手に引かれていると、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、彼の力強い鼓動が、繋いだ手を通して、私の心臓にまで伝わってくる距離が、今は何よりも心強かった。
時折、ゴゴゴォ……と、地鳴りのような微振動が足元から響く。
そのたびに、アルヴィン様の爪がほんのわずかに黒く変色しかけ、私が彼の手にきゅっと力を込めると、その香りに反応して、またすぐに元の色へと戻るのだった。
蜜が、そして“核”が近づくほど、彼の呪いまで脈を打つ。
② “白檀の川”と転倒ハプニング
やがて私たちは、広大な地底空間に出た。
そこには、静かに流れる地底河があり、対岸へと続く巨大な竜の背骨でできたような橋が架かっている。川面は、私自身の息遣いを写すように白檀を揺らしていた。
「この川……まさか、蜜が薄まった水が流れているのか?」
サイラス卿が興奮気味に声を上げる。
「ひゃっ、冷たい……!」
骨の橋へと足を踏み出した瞬間、濡れた骨の表面が、つるり、と滑った。
バランスを崩し、白檀の香りがする川へと落ちそうになった私の体を、背後から伸びてきた力強い腕が、ぐっと引き寄せた。
ドン、という鈍い音と共に、私の背中は、アルヴィン様の逞しい胸板に強く押し付けられていた。
「……気をつけるんだ」
耳元で、彼の少しだけ焦ったような声が響く。濡れた白シャツ越しに伝わる、彼の確かな体温。その瞬間、洞窟の照明代わりだった魔石ランプが、ぷつり、と音を立てて消え、完全な暗闇が私たちを包んだ。
闇の中、彼の息が私の髪を揺らした。
「平気だ」低く囁く声。その穏やかな囁きに、私の心臓が小さく暴れた。
闇しか映さないはずの彼の瞳に、今この瞬間、私だけが小さな灯火として映っているような、そんな不思議な感覚に包まれた。
彼の心音が耳に触れるほどの距離。私もそっと頬を寄せ、“大丈夫ですわ”と無言で返した。
「おのれ、肝心な時に魔力切れとは!」
サイラス卿のぼやきが遠くに聞こえる。
暗闇の中、アルヴィン様は私を抱きしめたまま、静かに言った。
「……エリィ。この川の水、呪いに効くかもしれんぞ」
彼の肌に触れていた私の濡れたドレスの部分だけ、彼の呪いの黒紋が薄くなっているのだという。蜜水を汲めば、簡易的な治療薬になるかもしれない。新たな希望の光が見えた瞬間だった。
③ 蜜水採取&簡易治療キス
サイラス卿が予備の魔石ランプを灯すまでの間、アルヴィン様は採取した“蜜水”を、自身の腕に浮かび上がった黒い痣に垂らした。しかし、効果は限定的だった。
「くそっ……香りと一緒でなければ、持続しないのか……」
彼の額に、苦痛の汗が滲む。
私は、もう迷わなかった。彼の前に跪くと、小瓶に残った濃い「香花の蜜」を、ほんの少しだけ、自分の唇に含んだ。
「エリィ、何をするんだ……!」
声が揺れるアルヴィン様。私は“信じて”と唇で告げるように、頷きながら彼の手を両手で包んだ。
そして、彼の腕の、最も黒く変色した痣へと顔を近づける。
私の唇が、彼の肌に触れる寸前。アルヴィン様の、息をのむ気配。
とどめは、私から。
そっと、唇を彼の肌に押し当て、私の香りと唾液で混じり合った蜜を、ゆっくりと塗り広げるように――。
「っ……!」
アルヴィン様の体が、甘美な痛みに耐えるように、びくり、と身を強張らせた。
唇が離れると、黒い痣は、まるで熱を持ったように赤く変化し、そしてゆっくりと人の肌の色へと戻っていく。
色が戻るのを見届け、思わず彼の指を私の唇にそっと押し当てた。
「ほら、ちゃんと人の温かさですわ……」
アルヴィン様の耳が、ご本人も気づかぬうちに、わずかに紅を差していた。
私は、そっと自分の胸元でハンカチを握り直した。
……そこには、黄金色の蜜の雫が一つだけ、小さな染みを残していた。掌に残るこの甘い湿りは、次にアルヴィン様にお会いする時までの、私だけの“お守り”になるだろう。
洞穴の冷気までも、甘い湯気にほどけていく。
「香花の蜜は媒介にすぎない……やはり、鍵となるのは君の香り、君自身なのだな……」
ぜえ、と荒い息をつきながら、アルヴィン様が熱っぽい瞳で私を見つめる。その視線に、私の顔まで熱くなるようだった。
④ 黒騎士(元近衛)ランスロットの回想フラッシュ
その時だった。蜜と香りと血が交じり合ったせいか、私の脳裏に、閃光のような映像が流れ込んできた。
それは、黒騎士。その名をランスロットという人物の記憶だった。
かつて王女を守る騎士だった彼。しかし、竜との戦いで、守るべき主をその腕の中で失った。自らを責め、絶望する彼の耳に、黒竜の怨念が囁きかける。
『姫を蘇らせる器を求めよ。我にその身を捧げよ』と。彼は、王女を蘇らせたい一心で、その契約を受け入れ、自ら人の身を捨てて、竜血と蜜の器へと成り果てたのだ――。
⑤ 核前広間 ― “骨鐘”の結界
ざわり、と皮膚の裏が泡立つ。
記憶の奔流から解放されると、私たちは巨大なドーム状の広間に辿り着いていた。
壁一面が骨――人の胴を反らしたような肋骨が、聖堂のリブアーチみたいに頭上へ伸びていた。
そして天井からは、巨大な竜の頭蓋骨が、まるで教会の鐘のように吊り下げられている。
《骨鐘》――。
その鐘の中空には、赤黒い、巨大な心臓が、どくん、どくん、と不気味に鼓動していた。あれが《核》。
ゴォォン……耳の奥の血が震え、味覚までも鉄錆に変わった。
骨鐘が、侵入者を拒むように低く唸る。その音に呼応して、アルヴィン様の腕に、再び黒い鱗が浮かび上がる。
「ぐっ……!」
「アルヴィン様!」
私は、彼の背中にぴったりと身を寄せ、蜜の小瓶を彼の胸に当て、全力で自身の香りを放つ。蜜と香りの力で、彼の暴走を必死に抑え込む。互いに支え合い、一体となって、私たちは結界と対峙した。
「あの鐘を壊さなければ、核には届かない……!」
(この闇ごと、彼の温度で溶かしてしまえたら……!)
⑥ ランスロット乱入~三つ巴
「させるかァ!!」
背後から、再びランスロットが襲いかかる!
アルヴィン様が私を庇い、ランスロットと斬り結ぶ。私はサイラス卿の詠唱に合わせて、残りの蜜をアルヴィン様の剣に塗りつけ、香りを散布して援護する。
アルヴィン&エリィ vs ランスロット vs 骨鐘の結界。
三つ巴の激しい戦いの中、ついに蜜の小瓶が空になった。
「エリィ、離れろ!」
「嫌です! 私だって、あなたを守ります!」
私はアルヴィン様の背中に自分の背中を預け、決して離れないという意思を示した。
二人の肩が汗で滑り合った瞬間、アルヴィン様が小さく笑ったような気がした。
(……頼もし過ぎて困りますわ、アルヴィン……)
その時、ランスロットの兜が砕け散り、その片目が、赤く輝く《竜の瞳》へと変貌しているのが見えた。
⑦ クリフハンガー
核の鼓動が、急速に早まる。広間全体が激しく揺れ、骨鐘に無数の亀裂が走る!
結界が崩壊する!
その瞬間、ランスロットが、私の体を強引に攫った。
「姫は渡さん! 核と共に、真の竜神の元へ!」
彼は、崩れ始めた床の裂け目から、私を抱えたまま、さらに下層の闇へと飛び降りる!
「エリィーーー!!」
アルヴィン様の絶叫が響く。彼の全身から、制御を失った黒い鱗が、一斉に噴き出した。
「離れたら……俺は……俺でなくなってしまう……! 君が、君がいなければ俺は……!」
闇へと落ちながら、頬をかすめた彼の指先がまだ熱い。
落下の一瞬、指が確かに触れた気がした。その爪先に、彼の震える「好き」という想いが伝わった気がして、涙が滲む。
(ああ、アルヴィン様……あの枕、返して! など、お願いするのではなかった……)
指先は届かず──それでも、彼の温度だけが肌に残った。
暴走寸前のアルヴィン様もまた、私へと手を伸ばす。
その指先が、触れ合うか、触れ合わないか――。
私の心臓が、最高潮に達したところで、視界は完全に闇に閉ざされた。
次なる闇は――まだ、途方もなく深い。
(第7話 了)