第6話 井戸下の竜骨祭壇 ―黒き血と白き香花―
夜明け直前――灰色の光が東窓を染める頃、私たちは屋敷地下へ続く古井戸の蓋を開けた。
冷えた石の隙間から立ちのぼる甘い土の匂いがどこか白檀に似ていて、胸をざわつかせる。
「深さは二十メートルほど。はしごの一部が腐食しています」
サイラス卿が魔石ランプを翳し、学者らしい冷静な口調で告げた。
「俺が先に降りる」
アルヴィン様は滑車に麻縄を通し、数度引いて強度を確かめると、そのまま身をおろした。井戸壁に刻まれた、古い竜の子守歌らしき譜面の落書きに彼の手が触れた瞬間、遠くの書斎でリュートが微かに共鳴したような気がした。
底へ着くや、彼は軽く合図を送る。
「それじゃ、先に行く」
そう言うや、彼はロープに体重を乗せ、闇の底へ滑り込んだ。しばらくして微かな声が響く。
「降りておいで、エリィ」
「ロープだけで? 落ちたらどうなさるおつもりですの」
「――だったら抱える」
抗う間もなく、彼の腕がわたくしの腰をさらう。
問答無用のお姫様抱っこ。夜通しの作戦会議で膝枕を譲ってもらった借りは大きい。
滑車が軋み、二人の体が闇へ沈む。音のたびに心臓が跳ね、わたくしはそれを誤魔化すように、彼の首筋に差し込んだハンカチをきゅっと握りしめた。
アルヴィン様が耳元で囁く。
「大丈夫、離さないよ」
その穏やかな語調に、わたくしの心臓が、また一つ、大きく音を立てた。
着地した彼は、すぐに表情を引き締めると「先へ進むぞ」と、即座にシリアスモードへ回帰した。
◆◆◆
井戸底は楕円状の石室だった。壁の一角が崩落し、闇へ通じる自然洞穴になっている。足下を覆う薄い地下水がランプ光を揺らし、天井の鍾乳石が星座のように瞬いた。
「ひゃっ、冷たい……! 湿気が骨身に染みますわ」
立ち枯れた朽木を跨いだとき、わたくしの靴が苔で滑り、ザブン、と音を立てた。
すねまで冷たい地下水に浸かってしまい、思わず身震いする。
アルヴィン様は無言で火打石を取り出すと、すぐに焚火を組み始めた。火花が散る瞬間、彼の指先に黒い血管が浮き――そしてわたくしの香りに触れると、すっと退いた。
「足が冷えただろう。ここで温まって」
彼は焚火を背にすると、自身の大きなマントで半円のドームを作り、冷えたわたくしの足元をすっぽりと包んでくれた。
(“マントドーム”……なんて贅沢な風除け!)
焚火の熱で蒸気が立ち上り、わたくしの纏う白檀の香りが、その狭い空間に濃密に満ちる。アルヴィン様が一瞬、ぼうっとした表情でわたくしを見つめた。
彼の濡れた前髪から雫が落ちる。わたくしは、そっと指を伸ばしてそれを払ってあげた。逆世話焼きだ。
「――むむ! 香気濃度が一気に1.7倍……! いや、これは学会に報告を…」
「サ、サイラス卿、少し黙っていてくださるかしら!」
学者先生の無粋な解説が、甘くなりかけた空気を霧散させた。直後、洞穴の奥から悲鳴のような風の音が響き、私たちは再び緊張に包まれた。
◆◆◆
洞穴を進むと空気が変わった。
壁面が骨の列で埋め尽くされ、頭上には無数の白い肋骨が聖堂のアーチのように組まれている。
「ここが《竜骨祭壇》――」
サイラス卿が息を呑む。中央の石壇には小皿が据えられ、そこへ滴る水が淡い黄金を湛えていた。
甘い――けれど鋭い香り。わたくしの白檀に酷似しながら、より濃密で胸奥を熱くする。
「香花の蜜……」
アルヴィン様が囁く。
わたくしが祭壇皿の縁へ身を乗り出した瞬間、黄金色の蜜が、ぽたり、とわたくしの下唇に落ちた。
「あっ……」
本能的に拭おうとしたアルヴィン様の親指が、わたくしの唇にそっと触れ、二人とも凍りついた。
「……甘いな」
彼の囁きに、わたくしの心臓の音が重なる。蜜の香と白檀が混ざり、洞窟の冷気が一瞬、春の夜気に変わった。
アルヴィン様が、蜜のついた親指を無意識にご自身の口元へ運び――はっと息を呑んで動きを止め、その耳を真っ赤に染めた。
その、あまりにも甘い静寂を破ったのは――背後からの轟音だった。
骨壁を砕き、黒い槍が突き出た!
◆ 黒騎士襲来 ◆
鎧の隙間から黒煙を噴き上げ、兜の奥の単眼が赫々(かくかく)と燃える。
「蜜……香花……寄越セ!」
黒騎士が、地を揺るがす声で叫んだ。
アルヴィン様が銀剣で迎え撃つ。火花を散らす一合目で、黒槍は祭壇石を抉り、甘い液が床へ飛び散った。
わたくしは咄嗟にハンカチを浸し、香を霧のように広げる。
黒騎士の鱗が微かに蜂蜜色へ濁り、動きが鈍る。だが踏み込みはなお重い。鎧の胸板が裂け、血とともに若い素顔が覗いた。
「今のは……人間の顔、ですか?」
わたくしが呟くと、アルヴィン様が息をのむ。
「ヒメヨ……器トナレ……」
狂気と悲哀が混じった声。片頬に光る王都近衛の紋章が、かつての彼の身分を語る。
黒槍が再度振り上がる。わたくしは祭壇皿の蜜を掬い、アルヴィン様の背中へと払った。
黄金の雫が黒ずんだ血管に触れる。ジュッ、という音と共に黒が朱に還る――。
「効く……!」
アルヴィン様が瞳の烈火を鎮め、わたくしの手を取った。
「今度こそ、この蜜と君の香りで――俺も、此奴も救えるかもしれん!」
サイラス卿が倒れたリュートを拾い、竜語詩を歌う。弦が洞窟と共振し、赤と金の律動が空気を震わせた。
黒騎士の鱗がもう一度収縮する。
「退くぞ!」
黒騎士は壁を蹴り、骨天井を砕きながら闇へ溶けた。鎧の継ぎ目から落ちたのか、蜂蜜色のしずくが一つ、床石に小さな染みを作っていた。彼の残した言葉は、ひときわ低い咆哮。
「竜骨ノ核……更ニ深ク……!」
◆◆◆
静寂。祭壇皿にはまだ半分ほど蜜が残る。
アルヴィン様はそれを小瓶へ注ぎ、懐の奥でしっかりと封をした。
「核――『竜骨洞』の最奥だろう。そこへ辿り着かなければ終われない」
黒ずみが消えたはずの指が、また微かに震えている。
わたくしは彼の手を包み込み、香を重ねる。
「行きましょう。あなたが怯えずに眠れる夜を取り戻すために。そして――あの黒騎士も解放するために」
アルヴィン様は小さく息を吸い、指を絡め返した。
「いつか人として、君の隣に立つ。その日のために……」
白檀と蜜と血の匂いが混ざり、骨の回廊を流れる冷風に乗る。
私たちは深紅の闇へ歩みを進めた。遠く、竜の笛のような呻きがこだまし、それに呼応するように、森からの遠吠えが重なって聞こえる。胸に抱いた蜜の小瓶が、その不穏な響きに震えた。
次なる闇は、まだ、果てしなく深い――。
(第6話 了)