第5話 香花の蜜と紅血の誓い ―史官サイラスの竜語解読―
黒騎士の襲撃という衝撃的な出来事から数時間。
夜も更けた小書斎で、暖炉の残り火が赤く瞬き、三人はまだ眠気とは無縁だった――まさにその“数時間後”、緊急の作戦会議が始まろうとしている。
作戦会議(夜半)
パチパチと暖炉の薪がはぜる音だけが、室内に響いている。
アルヴィン様は大きな革張りの椅子に深く腰掛け、膝の上には……やはり、わたくしの枕をしっかりと抱えていた。
うん、もうこれが彼の定位置なのね。
「しかし伯爵様、その枕は一体いつまで……?」
サイラス卿が、ずり落ちる眼鏡を押し上げながら、半ば呆れたようにアルヴィン様を見る。
「……これがあると、落ち着くんだ」
アルヴィン様が枕をわたくしに差し出す瞬間、ふわりとわたくしの髪が揺れ、彼が微かに目を細めてその香りを吸い込んだように見えた。
「はあ、左様ですか。
いやはや、奥様の香りは確かに特筆すべきものですが……。
いっそ、その枕を貴重な分析試料として学会に……」
「なりません! それはわたくしの大事な安眠用ですの!」
わたくしが枕を死守すべく割って入ると、アルヴィン様が「そうだ、これはエリィのものだ」と、珍しく力強い援護射撃(?)。
なんだか妙な三角関係(?)が、この小さな書斎で成立しかけていた。
そこへ、メイドのアンナが温かい飲み物を運んきてくれた。
ふわりと甘い香りが漂う、蜂蜜入りのホットミルクだ。
「皆様、夜も更けましたので。温かいものでもいかがかと」
「ありがとう、アンナ。気が利くな」
アルヴィン様がミルクのカップを受け取り、一口飲もうとした瞬間。
彼の指先に、一瞬だけ、黒い血管のようなものが蛇のように浮き上がり、すぐに消えた。
わたくしは息を呑み、咄嗟に自分の白檀の香りを移したハンカチを取り出し、アルヴィン様の手元にそっとかざす。
ふわりと香りが彼の指を包むと、彼の表情がわずかに和らいだ。
「……すまない。甘い香りは……やはり、よく効くようだ」
アルヴィン様が小さな声で呟く。
サイラス卿も「これはこれは」と嬉しそうに手を伸ばした。
「ふむ、この香り……蜂蜜とミルクの芳香の奥に、やはり奥様の白檀の香りが微かに混じっていますな。
実に興味深い調合です。伯爵様、これが例の……?」
「ああ。この香りが、俺の……その、荒ぶる何かを鎮めてくれるんだ」
アルヴィン様が少し照れくさそうに言うと、サイラス卿は真剣な顔で頷いた。
わたくしもミルクを一口。
……美味しい! やはり甘いものは正義ですわ!
つい夢中になって飲んでいたら、アルヴィン様がくすりと笑った。
「エリィ、口元に泡がついているぞ」
「えっ、あ、本当ですわ!」
ハンカチを取り出そうとしたら、アルヴィン様の長い指がそっと伸びてきて、わたくしの唇の端を優しく拭ってくれた。
……!!
(きゅ、きゅきゅ、キュンポイント発生ですわーーー!! しかもナチュラルに!)
暖炉の火よりも顔が熱い! これは蜂蜜ミルクのせい? それとも……?
竜語解読
気を取り直して、サイラス卿が古文書の解読結果を説明し始めた。
「例の竜語の走り書きですが、いくつか判明したことがあります。
古竜語というのは、どうやら“律動”、つまり音の響きと、“血”、つまり特定の色素反応で意味を二重に構成する言語体系のようです。
例えるなら、楽譜と香りの組み合わせによる、非常に複雑な暗号に近い」
サイラス卿が、アルヴィン様の残した《君ヲ抱キ 人ト逝ク》というメモと、ラヴェル家伝来の『竜妃伝』の一節を並べて、抑揚をつけながら朗読し始めた。
すると、どうでしょう。
書斎の壁にかけられていた古いリュートの弦が、ポン……と低い『ラ』の音を立てて、微かに、しかし確かに共鳴したのだ。
「やはり……! この“律動”が鍵ですな!」
サイラス卿の言葉に、アルヴィン様の紅い瞳が、まるで呼び覚まされるかのようにチリチリと赤みを増し、彼が苦しげに眉を寄せた。
一瞬、その指の爪がほんのわずかに黒く変色しかけたが、わたくしが難解な専門用語に思わず首をかしげ、その動きでふわりと白檀の香りが広がると、それはすぐに元の色に戻った。
わたくしは慌てて、自分の香りのハンカチを、彼の肩にそっと置いた。
ふわりと香りが広がり、アルヴィン様の呼吸が少しだけ穏やかになる。
「……大丈夫ですか、アルヴィン様?」
「ああ……少し、頭に響いただけだ。だが、エリィの香りで……」
「ふむ。香りと血と音……この三つが何らかの形で作用しあっているのかもしれませんな」
サイラス卿は顎に手を当て、何かを閃いたように言った。
まるで、三人で小さな科学実験をしているみたいだ。
サイラス卿は深刻な顔で続ける。
「どうやら、これらの竜語には、伯爵様の奥底に眠る何かに直接作用する力があるようですな。
そして、この記述……『竜骨祭壇』。
そして、こちらには『蜜は血ヲ鎮メル』とあります」
「蜜……?」
「はい。さらに別の文献の断片には、こうあります。
『かの竜妃、最後に隠セシは“香花の蜜”ナリ』と。
香花……奥様の香りに通じる言葉ですな。
そして、こうも書かれていました。
『骨ノ髄ニ宿リシ香ヲ、蜜ヘ転ズ……』」
つまり、どこかにある「竜骨祭壇」で、「香花の蜜」なるものが作られ、それが竜の血――おそらくは呪いを鎮める、ということだろうか。
「俺の呪いも……その蜜とやらで、抑え込めるかもしれないということか……」
アルヴィン様の声に、微かな希望の色が灯る。
わたくしは、彼のその言葉に、力強く頷いた。
「きっとそうですわ! わたくしたちで見つけましょう、その香花の蜜を!」
そう口にした途端、胸の奥がずきりと疼いた。
(――もし“蜜”が見つからなかったら?
もし、アルヴィン様が再び黒い爪に呑まれたら?)
静寂が一拍挟む。薪がパチ、と小さくはじけた。
それでも、わたくしは 震える指を自分でぎゅっと握りしめ、小指を差し出した。
「……いいえ、必ず見つけます。わたくしが、探します」
アルヴィン様の瞳が揺らぎ、そして宿る光がいっそう強くなった。
「エリィ……指を――君の香りに、俺の血を重ねれば……きっと、この呪いから逃れられる」
アルヴィン様が、真剣な眼差しでわたくしを見つめて言う。
その瞬間、黒ずみかけていた彼の爪が、ひと息に和らぐように元の色へ戻った。
「……満月の夜が怖くなくなるその日まで、わたくし、アルヴィン様の盾になりますわ!」
アルヴィン様は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに優しい笑みを浮かべると、 彼の大きな小指をわたくしの小指にそっと絡めた。
暖炉の火に照らされた二人の指が、確かに繋がった。紅血の誓いだ。
夜明け前
作戦会議(という名のおしゃべり大会)は夜明け近くまで続いた。
さすがに眠気に勝てず、わたくしがうたた寝を始めると、暖炉の火がまるで生きているかのように、一瞬だけ赤黒くチラついた。薪がパチッとはじけ、白い火花が闇に散る。
サイラス卿が「ふむ……やはり竜血が刺激されておられるようですな」と小さな声で呟いたのが聞こえたけれど、アルヴィン様は気づいていないようだった。
彼は自分の膝の上の枕をそっとわたくしの頭の下に差し込み、どこからか持ってきた古い詩集を、穏やかな声で読み聞かせてくれた。
なんだか、いつもと逆の添い寝モードだ。
これもまた、悪くない。
心地よい声に微睡んでいたその時。
不意に、書斎の床の一点に、朝日が差し込んでいることに気がついた。
古い石造りの床。その一枚だけ、なぜか模様が違う。
手を伸ばして埃を払うと、そこには……。
ギイィ……と、どこか遠くで、錆びた滑車が軋むような、微かな音が聞こえた気がした。
そして、埃っぽい古い石の匂いに混じり、どこか甘く、清浄な風が、その床の隙間から微かに吹き上がってきたのだ。
「アルヴィン様、これ……!」
朝日を浴びて鈍く輝く、古い竜の紋章が、石の蓋らしきものに刻まれていたのだ。
それは、屋敷の地下へと続く、古井戸の入り口だった。
(黒騎士側幕間)
深い森の奥、湿った洞窟の中。
黒騎士は、胸の鎧の裂け目から滲む黒い血を片手で押さえ、苦悶の声を漏らしていた。
その黒煙のような血は、なぜかほんのりと蜂蜜のような甘い色味を帯び始めている。
「蜜……香花……早く……手に入れねば……」
彼の胸に当てられた簡素な器には、どす黒い液体がなみなみと満ち、そこから溢れたものが彼の半身を覆う黒い鱗を、さらに悍しく拡大させていた。
(第5話 了)
次回予告
第6話『井戸下の竜骨祭壇 ―黒き血と白き香花―』
ついに発見された地下への入り口。
アルヴィンとエリザベート、そしてサイラスは、香花の蜜を求め、古井戸の底へと足を踏み入れる。
そこには何が待ち受けているのか?
そして、黒騎士の影が再び迫る――!
お姫様抱っこでの降下あり、ちょっぴりハプニングありの地下探索が始まる!
冷気で香りが濃縮され、骨管が風で鳴く、嗅覚と聴覚に訴える地下の恐怖にもご期待ください!