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第4話 月影に揺らぐ黒鱗 ―“もう一柱”の咆哮と黒騎士の襲来―

 満月が西の空に傾き、夜明けの淡い光が、あの物騒な鉄格子の檻をぼんやりと照らし出している。

 ひんやりとした石床の冷気が、少しずつ和らいでいくのを感じた。

 新婚夫婦の朝は、とてもロマンティックなものだと恋愛小説には書いてあった。

 けれど、私たちの場合は――昨夜貸し出した“添い寝枕”の、ちょっと変わった返却式から始まった。



1 夜明けの檻と甘い返却式


「……ん」


 檻から静かに出てきたアルヴィン様は、おもむろに腕に絡んでいたらしい鎖をカチャリと解いた。

 そして、昨夜わたくしが彼に託し、彼がギュッと抱きしめていた(と思われる)ふかふかの枕を、両手で恭しく差し出してきたのだ。


「……その、返すよ。

 君の香りが、あまりにも強すぎて……朝になっても、離すのが惜しかった」


 長い睫毛まつげが伏せられ、ほんのり赤い耳が朝日に透けて見える。

 なんて可愛らしいことをおっしゃるのかしら、この堅物だったはずの伯爵様は!

 枕を受け取ったわたくしは、そっとそれを胸に抱き、小さく深呼吸した。うん、確かにわたくしの香り。


「まあ、アルヴィン様。

 では今夜、また新たにお貸し出しいたしましょうか?

 延滞料はいただきませんわよ?」


「うん……ぜひ、お願いしたい」


 ふわりと、朝の清浄な空気の中に、わたくしの纏う白檀の香りが満ちる。

 昨夜の鉄と血の匂いとは無縁の、甘く穏やかな空気が、檻が残した物々しい名残を優しく薄めていくようだった。


(この香り、本当にそんなに特別なのかしら……?)


 自分ではもう慣れてしまってよくわからないけれど。

 この国宝級美形伯爵様がこんなにも執着するのだから、きっとそうなのだろう。



2 短い眠りと竜語の走り書き


 朝食の少し前。

 アルヴィン様は執務机に向かっていたけれど、さすがに昨夜はあまり眠れなかったのか、ペンを持ったままこくり、こくりと舟を漕ぎ始めた。

 やがて、机に突っ伏すようにして短い眠りへと落ちてしまった。


(寝顔観察の大チャーンス!)


 ……と、普段のわたくしなら目を輝かせるところだけれど。

 今のわたくしは違う。

 ちゃんと、書斎から拝借してきた新しいメモ帳と羽ペンを構えているのだ。

 ふふん、名付けて「伯爵様生態観察記録(秘密厳守)」。


 すると、アルヴィン様の唇が微かに動き、寝言にしては妙に明瞭な、しかし全く聞き慣れない言葉を呟いた。


「ヒト……カウクヮ……いだキ……トモニ……」


(んん? 何語かしら? 呪文?)


 わたくしが首を傾げていると、ふと、彼の手元でペンが動いたのが見えた。

眠っているはずなのに?

 慌てて覗き込むと、彼が突っ伏している羊皮紙の余白に、まるで引っ掻いたような、力強い、しかし見慣れない文字が記されていた。


《君ヲ抱キ 人ト逝ク》


(キミヲイダキ ヒトトイク……?)


 意味はさっぱりわからないけれど。

 なんだか、すごく切なくて、ロマンティックな響きを感じてしまうのはなぜかしら。

 胸の奥が、きゅっと小さく鳴った。


「…………見たな?」


 いつの間にか目を覚ましていたアルヴィン様が、じっとりとした紅い瞳でわたくしを見上げていた。


「はい! ばっちり拝見し、お聞きし、そして記録させていただきましたわ♪」


 わたくしが満面の笑みでメモ帳を掲げてみせると、伯爵様は「ぐっ……!」と呻き、顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がった。

 そして、そばにあった外套のフードを深く深く被ってしまった。


 ……か、かわいい。


 けれど、絶対に言わないでおこう。調子に乗りそうだから。



3 史官サイラスと“竜妃伝”の抜粋


 お昼過ぎ。

 王都大学から派遣されたという史官、サイラス卿がラヴェル伯爵邸に到着した。

年の頃は三十代半ばくらいだろうか。

 分厚い革装丁の写本を何冊も小脇に抱え、大きな丸眼鏡が何度もずり落ちそうになっている。

 典型的な学者先生、という感じの方だ。


「ラヴェル伯爵様、そして奥様。

 新婚さんの真っただ中にお邪魔して大変恐縮ではございますが、早速ながら学術的なお話を始めさせていただいても?」


 早口でまくし立てるサイラス卿に、アルヴィン様は静かに頷いた。


「ああ、構わない。それで、例の件だが……」

「その前に一つ。伯爵様、どうにかこの……ええと、鼻腔をくすぐる芳しい甘い香りを、少しばかり抑えていただくことは叶いませんでしょうか?

 おぉ……これは、もしや伝説の“アルバリサ”の系統の香りでは!? 学会に報告せねば……!

 いや、その、古文書のインクの匂いと混ざってどうにも集中を削がれるというか……」


 サイラス卿は、大きな眼鏡の奥の目を興奮気味に瞬かせながら、わたくしの方をちらちらと見ている。


「あの……それって、わたくしのことでしょうか?」

「ええ、間違いなく奥様ですとも!

 その、なんというか、常人が嗅いだら三日で魂を骨抜きにされそうな、非常にこう、抗いがたい魅惑的な香りでいらっしゃいますな!」


(魂を骨抜きって、どんな香りよ!)


 失礼な、と思いつつも、アルヴィン様が「彼女の香りは特別なんだ」とかなんとかフォロー(?)してくれたおかげで、話は本題に入った。

 サイラス卿は、一番大きな写本をテーブルに広げ、埃っぽいページを慎重にめくった。

 そこには、アルヴィン様が夢うつつに書き記した文字とよく似た、古代の竜語らしきものがびっしりと並んでいる。


「これは、ラヴェル家に古くから伝わる『竜妃伝』の写しの一部です。

 解読できた箇所によりますと……こう記されております」


 サイラス卿は、指で一行をなぞりながら読み上げた。


《白キ香花 竜ヲ鎮ムル律動しらべ


(白い香花……竜を鎮める……?)


 わたくしはゴクリと唾を飲み込んだ。


かおりヲ失エバ 黒キうろこ人ヲ喰ラウ》


「……!」


 アルヴィン様の息をのむ音が聞こえた。


 さらにサイラス卿は、小さな革袋から黒光りする鱗のような欠片を取り出し、それを窓から差し込む光にかざした。

 手のひらに収まるほどの小さなそれは、どこか不気味な光沢を放っている。


「これは、先日森で発見されたという“黒鱗”のサンプルですが……。

 純粋な竜の鱗ではございません。

 おそらくは、人の皮膚組織が何らかの強い影響を受けて変質した、“擬鱗ぎりん”と呼ぶべきものでしょう。

 推測ですが、濃密な竜の血、あるいはその魔力を大量に浴びた人間に稀に現れる症状かと」


 アルヴィン様が、ぎゅっと固く拳を握りしめるのが見えた。

 わたくしはそっと、彼のその手に自分の袖先を触れさせる。

 すると、彼の強張っていた指先から、ふっと力が抜けるのがわかった。


(やっぱり、わたくしの香りが……)


 確信に近いものが、胸の中に芽生え始めていた。



4 黒騎士、襲来――でも糖分忘れずに!


 サイラス卿の専門的な説明が佳境に入ろうとした、まさにその時だった。

中庭の方角から、空気をビリビリと震わせるような、獣じみた咆哮が轟いたのだ!


「な、なんだ!」

 

 サイラス卿が飛び上がり、アルヴィン様は鋭い目つきで窓の外を睨む。


 次の瞬間、中庭に面した大きな門が、内側から凄まじい力で蹴破られた!

 そして、黒々とした全身鎧に身を包んだ騎士が、堂々と姿を現したのだ。

 その騎士の鎧の継ぎ目からは、まるで意思を持つかのように、鱗まじりの黒いもやがゆらゆらと吹き出している。

 異様、という言葉では足りないほどの、禍々しい気配。


永劫えいごうの香りを寄越せェ!!」


 地響きのような叫び声と共に、黒騎士はわたくしたちのいる部屋に向かって突進してくる!


「エリィ、下がっていろ!」


 アルヴィン様が、壁にかけてあった愛剣を抜き放ち、黒騎士の前に立ちはだかる。

わたくしは、駆け出そうとする彼の袖を、ぎゅっと掴んで呼び止めた。


「アルヴィン様!

 ご無事に戻られたら――今夜、特別に添い寝の予約を承りますわよ?」


 わたくしがにっこり微笑むと、彼の紅い瞳が驚いたように揺れ、そしてすぐに力強い光を宿した。

 彼はわたくしの手を一瞬だけ強く握り返すと、力強く頷いた。


「ああ、必ず戻る!」


 短い激突。

 黒騎士が振り下ろす、まるで竜の骨で作られたかのような巨大な大剣を、アルヴィン様は華麗な剣さばきで受け流す。

 そして、閃光一閃。

 伯爵の銀剣が、黒騎士の鎧の胸板を斜めに裂いた!


 ギャァァン!という甲高い金属音と共に、裂け目から熱い黒煙が勢いよく噴き出す。

 わたくしはとっさに、自分でも驚くほど冷静に、香りをできるだけ遠くまで拡散させるように、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。

 ふわりと、白檀の甘い香りが風に乗って戦場に漂う。

 すると、あれほど猛々しかった黒騎士の動きが、ほんの一瞬、確かに鈍ったのだ。


「白檀の……姫……だと……!?

 ……必ず、竜の元へ、戻す……」


 黒騎士は、苦しげな、そしてどこか執着するような捨て台詞を残すと、その巨体を翻し、まるで影が溶けるように森の奥へと消えていった。

 血は一滴も流れていない。

 ただ、月明かりの下で嗅いだような、奇妙に生臭い闇の気配だけが、中庭に重く漂っていた。



5 危機と決意


 城館に束の間の静けさが戻った廊下で、サイラス卿が眼鏡を押し上げながら、難しい顔で推測を口にした。


「今の黒騎士……間違いなく、竜血の深適合者ですな。

 あれは、黒竜の残滓ざんしか、あるいはその呪詛そのものを、その身に色濃く宿しているはずです」

「俺も……いずれ、ああなるというのか……」


 アルヴィン様が、血の気の引いた顔で、自身の拳を見つめながら呟く。

 その瞳に宿る深い絶望の色に、わたくしの胸が締め付けられる。


 わたくしは、彼の冷たくなっている手を取り、両手でぎゅっと包み込んだ。

 彼の紅い瞳が一瞬、薔薇色のような淡い光を帯びて、すぐに元の色に戻ったように見えた。

 そして、はっきりと宣言したのだ。


「ならば、わたくしがあなたの盾になりますわ!

 アルヴィン様を黒い靄から守る、香りの盾に。

 あなたの専属香り係は、夜だけの添い寝係でもあるのですから!」


 わたくしが胸を張ってそう言うと、アルヴィン様はハッとしたように顔を上げ、その紅い瞳を大きく見開いた。

 そして、何かを堪えるように目を細め、わたくしの手を彼の唇に寄せ……る寸前で、慌ててその動きを止めた。


「……エリィ。

 ……今は、控えよう。史官殿の前だ」


 ほんのり赤い耳が、彼の内心を物語っている。

まったく、どこまで奥手なのかしら、この伯爵様は。


 サイラス卿は、わざとらしくゴホンと咳払いを一つすると、旅装の乱れを直し始めた。


「──はいはい、ご夫婦の蜜月はまた後ほど、ということで。

 次は、あの黒騎士と黒鱗の出所調査に向かわねばなりませんな。

よろしいですかな、お二人とも?」


 学者先生は、どこまでもマイペースだった。



6 月下の黒影


 その夜。

 ラヴェル伯爵邸から遠く離れた、深い森の奥。

 月光に照らされた、苔むした朽ちた石柱の傍らで、あの黒騎士は膝をついていた。


 その手には、昼間の戦いでどこからか落ちたらしい、割れた墓標の小さな欠片が握られている。

 欠片の表面には、微かに、白檀の香りを放つ美しい花の紋様が刻まれていた。


「香花の……姫……。

 その魂、必ずや……我が竜神の元へ……お返し申し上げる……」


 蒼白い月光の下、黒騎士の鎧の隙間で、おぞましい黒い鱗がうごめき、次の咆哮をそのはらに宿しているかのように、

不気味に膨らんでいた。


 そして、石柱の影から流れ出した黒い靄が、まるで生きているかのように、静かに、しかし確実に、王都の方角へ向けて広がっていくのだった――。


サイラス卿のメモ:《竜骨祭壇/香花の蜜》――未解読


(第4話 了)


次回予告

第5話『香花の蜜と紅血の誓い ―史官サイラスの竜語解読―』


 名うての史官サイラスの鋭い推理が、古文書に隠された「竜妃伝」の真相の一端を暴き始める。

 そして、襲いくる黒騎士の脅威に対し、添い寝夫婦は反撃を決意する――が、その前にまずは甘々(!?)夜ふかし作戦会議が繰り広げられるのか!?

 エリザベートの香りが、そしてアルヴィンの秘められた力が、今、試される!

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