外伝 日常甘々スケッチ①『眠りのお時間と、父なる竜のハミング』
月の光が、魂樹の若木を優しく照らし、その柔らかな影をラヴェル邸の寝室の床に落とす、穏やかな夜のこと。
今日の夜は、どうやら我が家の小さな若君――アレクシスが、なかなか寝付いてくれないご様子でした。お腹はいっぱいのようですし、おむつも替えたばかり。だというのに、小さなベビーベッドの中で、時折「ふえぇ」と、か細くも意思の強そうな声を上げているのです。
「おやおや、アレクシス。今宵は少しご機嫌斜めですの?」
私は、授乳を終えて腕の中で微睡み始めたアレクシスを、そっとベビーベッドに寝かせようとしたのですが、背中が布団に触れた途端、再びその小さな眉間にきゅっと皺が寄ってしまいました。
すると、書斎から戻ってきたばかりのアルヴィン様が、心配そうに眉を寄せながら、そっとベビーベッドを覗き込みました。
「……どうした、アレク。眠れないのか?」
その声は、かつて私を闇から救い出してくれた力強さとは裏腹に、今はどうしようもなく優しく、そしてほんの少しだけ、途方に暮れたような響きを帯びています。
あの堅物で、近寄りがたいほどの威厳を放っていた竜神伯爵が、今ではこの小さな命の前では、ただの心配性な新米パパなのですから、本当に愛おしくてたまりません。
アレクシスは、父の大きな影と声に気づいたのか、一度だけ「あう?」と不思議そうな声を上げましたが、すぐにまた「ふぇ……」と泣き出しそうな気配。
アルヴィン様は、どうしたものかと、その大きな手でご自身の顎をそっとなでました。その仕草は、彼が深く考え事をしている時の癖。
「エリィ、私が代わろう。君は少し休むといい」
「あら、大丈夫ですの? アルヴィン様」
「ああ。問題ない……はずだ」
最後の「はずだ」に、ほんの少しだけ自信のなさが滲んでいるのが、また可愛らしいのです。
私は微笑んで頷き、そっと寝室の隅の長椅子に腰掛け、成り行きを見守ることにいたしました。
アルヴィン様は、それはそれは慎重な手つきで、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、アレクシスをそっと抱き上げました。彼の逞しい胸板の上で、アレクシスはまるで小さな豆粒のようです。
(ふふ、アルヴィン様の大きな手では、アレクシスのおむつを替えるのも一苦労でしたものね)
初めてのおむつ替えの時、彼がその強大な力を持て余し、おむつを破ってしまいそうになったり、逆に赤子の肌を傷つけまいと極度に緊張して、汗だくになっていた姿を思い出し、私はくすりと笑みを漏らしてしまいました。
アルヴィン様は、アレクシスを抱いたまま、ゆっくりと部屋の中を歩き始めました。
「よしよし……眠くなれ……眠くなれ……」
その声は、かつて竜であった頃の威厳など微塵もなく、ただただ優しい、けれど少しだけぎこちない子守唄のよう。
しかし、アレクシスのご機嫌はなかなか直りません。「うー、あー」と、まだ何かを訴えるように、小さな手足をばたつかせています。
アルヴィン様は、少し困ったように眉を寄せると、ふと何かを思いついたように、息を吸い込みました。
そして――。
「ンンンンーーーーー…………ンンンンーーーーー…………」
彼の喉の奥から、それはそれは低く、そして深く、しかし不思議と心地よい振動を伴ったハミングが、静かな寝室に響き渡ったのです。
それは、かつて彼が呪いに苦しんでいた頃、私を安らげるために、あるいは彼自身を落ち着けるために、無意識に発していた、あの竜の咆哮にも似た、魂の奥底から響くような音。
けれど、今のそれは、決して恐ろしいものではなく、むしろ、太古の森の木々が風にそよぐような、あるいは、地底深くを流れる大河のせせらぎのような、どこまでも深く、そして穏やかな響きを持っていました。
そのハミングが始まると、ピタリ、とアレクシスの動きが止まりました。
そして、その小さな瞳が、不思議そうに、しかしどこか安心したように、父の顔を見上げています。
ふと、アレクシスの小さな手が伸びて、アルヴィン様のこめかみのあたり――かつて竜であった頃の名残で、ごく僅かに硬質化している部分――を、むにゅりと掴みました。そして、歯の生え始めた小さなお口で、カミカミ、と愛らしく噛みつき始めたのです。
その瞬間、アルヴィн様の巨体が、ピシリ、と硬直いたしました。
「ア、アレク……そこは……」
彼の顔から、すうっと血の気が引いていくのが見えます。
アルヴィン様は、眉間に皺を寄せつつも、どこか困惑したように小声で呟きました。
「……痛…いや、これは……もしかして、心地良い……のか?」
その真剣な問いかけに、私は思わずくすりと笑ってしまいました。
「まあ、アルヴィン様。もしかして、噛まれるのがお好きでいらっしゃいますの?」
わたくしの、ほんの少しからかうような言葉に、アルヴィン様のお顔が、みるみるうちに首筋まで真っ赤に染まっていくのがわかりました。
「なっ……! そ、そのようなことは断じてない! ただ、アレクのやることだから……だ!」
しどろもどろになりながらも、彼はアレクシスの小さな頭を、それはそれは優しい手つきで撫でています。
父デレ120%、いえ、もはや計測不能なほどのデレっぷりに、私の心臓がきゅっとなりました。
アルヴィン様は、アレクシスが満足するまでその「角(?)」をカミカミさせてあげながら、さらにそのハミングを続けました。
その振動は、アレクシスの小さな体を優しく揺らし、そして、私の心までも、穏やかな眠りへと誘うかのようです。
(あら……? なんだか、窓ガラスが、ほんの少しだけ、ビリビリと震えているような……?)
気のせいかしら。けれど、確かに、彼のハミングには、人ならざるものの、強大な力の片鱗が、まだ微かに残っているのかもしれません。
やがて、アレクシスの小さな寝息が、すー、すー、と聞こえ始めました。
その小さな胸が、穏やかに上下しているのを確認すると、アルヴィン様は、それはそれは優しい手つきで、アレクシスをベビーベッドへとそっと戻しました。
そして、アレクシスの額に、まるで羽毛が触れるかのような、優しい口づけを一つ。
「……ふう。ようやく眠ったか」
彼は、安堵のため息をつくと、私の隣へとやってきて、そっと腰を下ろしました。
「お疲れ様でした、アルヴィン様。見事な寝かしつけでしたわ。特に、あのハミングは効果的でしたわね」
「いや……あのハミングは、なかなか骨が折れる。それに……まさか、角(のような場所)を気に入られるとはな……」
そう言って苦笑する彼の横顔は、しかし、どこまでも満足げで、そして深い愛情に満ちています。
かつては、私の香りでしか安らげなかった彼が、今では、この小さな命の寝息と、ほのかなミルクの香りに、新たな安らぎを見出している。その事実に、私の胸は温かなもので満たされました。
私たちは、しばらくの間、言葉もなく、ただアレクシスの穏やかな寝顔と、窓の外で優しく光る魂樹の若木を眺めておりました。
アルヴィン様の瞼が、とろんと重くなってきているのがわかります。彼もまた、睡魔に抗えなくなってきているのでしょう。
彼が、ふと、本当に小さな、小声で、何かを口ずさみ始めました。それは、今まで聞いたことのない、けれどどこか懐かしいような、不思議な旋律。おそらくは、彼の中に残る、旧い竜語の子守唄なのでしょう。
その、ほとんど吐息のような歌声に呼応して、窓辺の魂樹の枝先が、ふわり、と優しく揺れ、その白い炎形の花から、きらきらと輝く星屑のような光の粒子が、はらはらと寝室の床へと舞い落ちてきました。それは、あまりにも幻想的で、優しい光景でした。
すると、不意に、アルヴィン様の大きな体が、私の肩にこてん、と寄りかかってきました。
「……アルヴィン様?」
返事はなく、聞こえてくるのは、アレクシスの小さな寝息に重なるようにして、もう一つ、深く、そして穏やかな寝息。
(まあ……!)
アルヴィン様は、アレクシスを寝かしつけている間に、ご自身もまた、その安らぎの中で、深い眠りへと落ちてしまわれたようです。そのお顔は、まるで全ての重荷を下ろしたかのように、安らかで、そしてどこか幼い子供のよう。
私は、愛おしさに胸がいっぱいになりながら、そっと彼の額にかかる髪を指で払い、彼の肩に自分の頭を優しく預けました。
父と子の、穏やかな寝息。
そして、それを見守る私の、この上なく幸せな時間。
ラヴェル家の寝室は、今宵もまた、世界で一番、甘く優しい香りに包まれていたのでございます。
エピローグ・翌朝
翌朝、小鳥のさえずりと共に、アレクシスの元気な「あうー!」という声で目が覚めました。
ベビーベッドを覗き込むと、そこには満面の笑みのアレクシス。そして、その頭には……。
「ふふっ……!」
「くくっ……なんだ、それは」
思わず、アルヴィン様と顔を見合わせて、声を上げて笑ってしまいました。
アレクシスの柔らかな髪の毛が、ちょうど竜の角が生えそうなあたりで、二本、ぴょこん、と愛らしく跳ねていたのです。まるで、“ちいさな竜角”のようではありませんか。
「これは……将来が楽しみですわね、アルヴィン様」
「ああ……全くだ」
アルヴィン様は、その“ちいさな竜角寝癖”を、それはそれは愛おしそうに、大きな指でそっと撫でるのでした。
ラヴェル家の朝は、今日もまた、くすりと笑える、小さな奇跡と、たくさんの愛に満ち溢れているのです。
(日常甘々スケッチ① 了)