おとぎ話『姫君ともの悲しき竜』
むかしむかし、あるところに、それはそれは美しいけれど、いつも書物を片手に物思いにふける、聡明な姫君がおわしました。
その姫君の国は、大きな黒い竜の影におびえておりました。竜は時折、山から下りてきては、人々に恐れを振りまいたのでございます。
ある日、姫君は国の古い書物の中から、小さな、忘れられたような記述を見つけました。 「竜は、かつて世界の守護者なりき」と。
それを読んだ姫君は、深く心に決めました。「わたくしが参りましょう。竜と語り、その心を鎮めるために」と。
王も家臣たちも皆、止めましたが、姫君の決意は固く、ついにたった一人で竜の棲む山へと向かったのでございます。
山の頂き、霧に包まれた古き祭壇で、姫君を待ち受けていたのは、月をも隠す巨大な黒き竜でございました。竜は、鋭い牙をむき、姫君を一口に食らおうといたしました。その時でございます。
姫君の身から、ふわりと、それはそれは清らかで、魂の奥底を震わせるような、かぐわしい“香り”が立ち上ったのです。(笑)
永い孤独と、満たされぬ渇きの中にいた竜は、その〈永劫の香り〉に撃たれ、初めて魂の安らぎというものを感じました。恐ろしい怒りの炎も、その香りの前では、まるで春の雪のように融けてしまったのでございます。
竜は、生まれて初めて感じる魂の温もりに、その巨大な体を震わせ、姫君にこう言ったのでございます。 「どうか、どうかここにいてはくれまいか。わたしは……もう、ひとりでは……」
それは、威厳ある竜の言葉とはとても思えぬ、か細く、途切れ途切れの、まことに情けないほどの願いでございましたと。
姫君は、竜に一緒に人里へ下り、再び守護者となることを願いました。けれど竜は、「多くの血をその爪にかけたわたしが、今さら人に受け入れられるわけがない」と、悲しそうに首を振り、山の砦に留まることを望みました。
姫君は、そんな竜を放ってはおけませんでした。見かけは恐ろしいけれど、本当は寂しがり屋で、ちょっぴり臆病で、そして誰よりも優しい心を持った彼。
なにより、その大きな体にそっと寄り添うと、陽だまりのように温かくて、心地がよくて……。姫君は、生まれて初めて、そんな満たされた気持ちになったのでございます。
こうして、山の砦で始まった、姫君と竜の、誰にも知られぬ密やかな同居。二人は言葉を交わし、心を通わせました。姫君は竜の魂の気高さと深い孤独を知り、竜は姫君の無垢な優しさと、芯の強さに触れました。
いつしか二人の間には、人と竜という垣根を超えた、清らかで深い情愛が芽生えておりました。 竜は、星月夜に、そっと嘆息をもらしました。
「もし、わたしが人の姿を得られたなら……この腕で、そなたをかき抱き、同じ時を生き、愛を語り、共に老いていくことができたなら……」と。
けれど、その禁断の愛は、あまりにも儚いものでございました。 竜に家族を奪われたと信じ、復讐の炎に身を焦がす若き騎士――後のラヴェル家の祖となる勇者が、国を救うという大義を胸に、山砦へと向かってきたのです。
姫君は、必死に戦いを止めようと、竜と勇者の間に割って入りました。しかし、勇者にはそれが「竜の幻惑」としか映りませんでした。
激しい剣と爪の応酬の中、姫君の清らかな香りが、一瞬だけ、竜の猛りを鎮めた、まさにその時でございます。悲劇は起こってしまいました。 勇者の剣が、図らずも、姫君を庇った竜の胸を、深く、深く貫いたのでございます。
真紅の血飛沫が勇者を染め上げ、それがラヴェル家に代々伝わる「紅い瞳と狂気」の呪いとなりました。
息絶える寸前、竜は、薄れゆく意識の中で、姫君に最後の言葉を告げました。
「人になり、君を抱き、共に老いて……死にたかった……」と。
その言葉を聞き、姫君は、自らの内にも、竜への深い、深い愛があったことを悟るのでございま す。けれど、全てはあまりにも遅すぎました。
竜は、姫君の腕の中で、紅蓮の炎に包まれて灰となり、風と共に消えてしまいました。
姫君は、その後、心を固く閉ざし、傷心のまま、静かに世を去ったと伝えられます。
彼女が最後に遺したのは、竜との真実の愛をそっと隠し、少しでも竜への慈しみを残そうと、言葉を尽くして書き換えられた「竜妃の昔語り」という、一冊の物語でございました。
そして、ラヴェル家には、夜毎に紅い瞳の幻視と、竜の苦悶の記憶に苛まれ、無意識のうちに竜の言葉を書き記すという、呪われた当主たちの、血の記録だけが残されたのでございます。
これが、「姫と竜の悲恋」の、語り継がれなかった真実のお話。 けれど、姫君の〈永劫の香り〉と、竜の切なる願いは、幾星霜の時を超え、いつか、どこかで、形を変えて再び巡り合うのかもしれません。
その時こそ、哀しい運命の糸が解き放たれ、真実の愛が成就するのかもしれませんね……。
おしまい。