第13話 エピローグ 白赦火の花、黎明に永遠(とわ)にほどけて
――“香暁祭”から二度目の春――
香暁祭から二度目の春。
王都の空は、あの日の白赦火で永久に浄められたかのように、どこまでも青く澄みわたり、王都のあらゆる窓辺で純白の香花がいっせいにひらき、世界を祝福の香りで満たす。
ここ、ラヴェル邸の新しい中庭もまた、柔らかな陽光と香気に満ちています。
あの激闘の後、魂の力を分け与えるようにして芽吹いた魂樹の苗は、今では私の両腕でも抱ききれぬほどの、逞しい若木へと成長いたしました。そのしなやかな枝先には、今年もまた、小さな白い炎形の花が無数に灯り、風にそよぐたびに、清浄な光の粒子をきらきらと振りまいています。
そして、その魂樹の穏やかな脈動は、すぐそばの寝室で眠る私たちの鼓動と、まるで優しい輪唱のように、いつも静かに重なり合っているのでございます。
【1. めざめの枕】
「ん……エリィ……起きて。太陽が、君の頬に嫉妬して“まだか”とせがんでいる」
耳元で、くすぐったいほど優しい囁き。
ゆっくりと瞼を開けると、朝の柔らかな光の中で、アルヴィン様が、わたくしたちの愛しい“添い寝枕”の上から、本当に愛おしげな表情で、私をのぞき込んでいらっしゃいました。
彼の紅琥珀色の瞳は、かつて宿していた竜の激しさの残滓を、今はただ深淵なる優しさの奥に静かに湛え、今朝もまた、人の持つ、温かく柔らかな光で満ちています。
その光は、私だけを映し、私だけを求めている。それだけで、私の胸は幸福感でいっぱいになるのです。
私はゆっくりと腕をのばし、彼の逞しい胸元に、まるで銀色の星を散りばめたように残る“竜痣”を、そっと指でなぞりました。
かつての禍々しい呪いの痕は、今では神々しささえ帯びた、彼だけの美しい紋様のようですわ。
「ふふ、アルヴィン様。またここ、光っていらっしゃいますわ」
「ああ、君にこうして触れるたび、俺の鼓動が、あの魂樹と共振するんだ。まるで、君への愛しさが、この体から溢れて光っているみたいにね」
彼は、私の指先に、ご自身の指をそっと絡め、愛おしげに口づけを落とします。
「私の方こそ、毎朝、あなたの優しい香りで胸がいっぱいになって、甘すぎてとろけてしまいそうですわ」
私たちは自然と頬を寄せ合い、互いの白檀の香りと、窓から差し込む朝日の匂いを、ゆっくりと、そして深く分け合いました。
――わたくしたちの結婚生活の始まりから、ずっとそこにある“添い寝枕”は、今朝もまた、私たちの頭のちょうど真ん中に誇らしげに鎮座し、二つの頬を、それはそれは優しく支えてくれておりました。
【2. 蜜仕立ての朝食】
ダイニングルームは、今日も朝から賑やかです。
テーブルの上では、サイラス卿が、あの後すっかり気に入って研究を重ねている“香花蜜ジャム”の新作が、芳しい湯気を立てています。
あの千年物の蜜はもうありませんが、魂樹の若木から僅かに採れる蜜と、庭に咲く香花から、サイラス卿が独自に再現した、それはそれは美味なジャムなのです。
使用人たちが、焼きたてのパンや温かいミルク、そして色とりどりのフルーツを、笑顔で手際よく運んでいます。ラヴェル邸の日常は、いつもこうして、温かな笑顔と芳しい香気に満ちているのです。
そして、今日は特別なお客様も。
ランスロット――今は皆、親しみを込めて“ラン”と呼んでいます――が、新設された王都守護のための〈白赦騎士団〉の教官としての務めの合間を縫って、休暇を取り、こうして遊びに来てくれたのです。
壮絶な夜に刻まれた赦火の痕は、いまや薄桃の桜片めいて彼の胸に灯る勲章。隻眼となったその眼差しは、しかし以前のような影はなく、誰よりも柔らかな光を宿し、若き騎士たちを、そしてこの国の未来を、温かく導いていると評判です。昼の訓練では、若い騎士候補生がランの号令一つで凍てつく馬場を駆け抜けている――白赦の未来を背負っている。
「アルヴィン伯爵、エリザベート奥様、そしてサイラス先生。まずは、この素晴らしい朝に乾杯を!」
ランが、にこやかに杯を掲げました。そのグラスの中では、香花蜜をほんの少し溶かした白ワインが、朝の光を浴びて淡く、そして美しくきらめいています。
私とアルヴィン様、そしてサイラス卿もそれぞれのカップを掲げ、カチン、と心地よい音を立てて合わせました。
その瞬間、中庭に立つ魂樹の枝先が、まるで私たちの祝福に応えるように、かすかに揺れ、きいん……と、鈴を転がすような、それはそれは澄んだ音を、空へと放ったのでございます。
――魂樹が、私たちに祝福の鐘を鳴らしてくれたのですわ。
【3. 香暁祭・昼の部】
その日の正午。王都は、「香暁祭」の祝祭ムード一色に染まっておりました。
大通りには、あの日の白赦火の花弁を模した純白の花吹雪が舞い、子どもたちが『ハクシャカ!』と行進する。その歌声は、二年前のあの絶望を知らない、新しい世代の希望そのものでした。
私は他の貴族の奥方様たちと並んで、特設された観覧席からその光景を微笑ましく眺めておりました。
そして、広場の中央に設けられた式台の上では、ラヴェル家の紋章と、新たに魂樹の意匠が加えられた真新しい礼服に身を包んだアルヴィン様が、王都の民衆を前に、力強く、そして優しい声で挨拶に立っておられました。
「――二年前、この王都の空を覆った赫き霧は、もはやどこにもありません。それは、今、ここにいる皆様方の笑顔と、未来への希望の香りに溶け、完全に浄められたのでございます。
我がラヴェル家は、この地に根差す者として、以後千年、この王都と共に歩み、その繁栄と平和を守り抜くことを、ここに固く誓います。その、永遠の約束の証に――」
アルヴィン様は、ゆっくりと式台を降り、私の前へと進み出ると、そっと私の左手を取りました。
そして、その薬指に、彼がこの日のために特別に作らせた指輪を、静かに、そして愛おしそうに重ねてくださったのです。
それは、魂樹の銀色に輝く枝を薄く削り出し、それを丁寧に編み上げ、最後の一点を、あの香花蜜で封蝋した、“樹指輪”でございました。
ひんやりとした、しかしどこまでも温かい魂樹の感触が、私の指を優しく包み込みます。
その瞬間、会場全体から、割れんばかりの歓声と祝福の拍手が湧き上がり、白赦火の花吹雪が、もう一度、春の昼の空を真っ白に染め上げたのでございます。
【4. ふたりきりの夕暮れ】
祭りの喧騒が嘘のように遠ざかり、夕暮れの美しい光がラヴェル邸のバルコニーを茜色に染める頃。
私たちは、二人きりで、そこに並んで腰をおろしておりました。
どちらからともなく伸ばした手が、自然と触れ合い、そして、そっと互いの指を絡め取る。わずか汗ばむ掌の温度は、あの最初に手を繋いだ、暗く冷たい洞窟の闇夜と同じはずなのに――いいえ、あの日よりもずっと穏やかで、そしてどこまでも深く、満たされた温もりを感じました。
「エリィ」
アルヴィン様が、夕焼けよりも甘い声で、私の名を呼びます。
「はい、アルヴィン様?」
「あの時……最後に残っていた“竜の願い”を、君が、君のその愛が、全て赦してくれたんだ」
彼の瞳には、深い感謝と、そしてそれ以上の愛情が、夕陽の光を反射してきらめいていました。
「いいえ、アルヴィン様。あなたの、人としての、そして竜としての魂の勇気が、ご自身を、そして世界を赦したのですわ」
しばしの沈黙の後、彼が、ほんの少し悪戯っぽい光をその紅琥珀の瞳に宿して、私に顔を寄せました。
「……でもね、エリィ。もう一つだけ、どうしようもない“欲”が、俺の中に残ってしまったんだ」
その囁きは、少し低く、そして、どうしようもなく甘い響きを帯びていて、私の心臓を優しくくすぐります。
「君の世界で一番の添い寝係として――この夜が明けるまで、もっと、もっと貪欲に、君のその甘い香りを、味わいつくしたい、というね……」
――そういえば近ごろのアルヴィン様は、言葉の端々が妙に詩的だ。
暇さえあれば私の書斎に顔を出しては、恋詩や古い叙情歌をぱらぱらと読んでいる。
……もしかして、あの本棚の香りまで移ってしまったのかしら? 胸がくすぐったくなる。
私は、燃えるように頬を染めながらも、精一杯の笑顔で彼に応えました。
「もちろんですわ、アルヴィン様。甘い夜明けを迎えるのは、いつだって、私たち二人の専売特許ですものね」
【5. 星降る寝室】
緩く波打つシルクのカーテンの向こうでは、中庭の魂樹が、星々の光を集めて、さらに柔らかな夜光をふり注いでいます。それはまるで、私たち二人だけの、優しい祝福のようですわ。
ベッドには、私が今日縫い終えたばかりの、新しい枕カバー。淡い桃色の地に、銀糸で、竜と姫が仲睦まじく寄り添う文様が、細やかに刺繍されています。
アルヴィン様が、私をそっと抱き上げ、羽のように軽いシーツの上へと、それはそれは優しく下ろしてくださいました。
彼の腕が、私の体をしっかりと、しかし決して苦しくないように抱きしめます。
「エリィ。あの時俺たちは、一本の樹になろうと誓っただろう?」
彼の声は、夜の静寂に溶けるように甘く、私の耳朶をくすぐります。
「ええ、アルヴィン様。永遠に、あなたと共に」
「なら、その根も、その枝も、そしてその葉の一枚一枚に至るまで、隅々まで、しっかりと繋げておきたいんだが……構わないかな?」
彼の微かなジョークを含んだ、しかし真剣な眼差しに、私は胸の奥が、甘酸っぱく、そして幸せにくすぐったくなるのを感じました。
香気も温もりも寝室に溶け合い、私たち二人だけを包み込む、柔らかな靄となって。
【6. 夢のはざま】
アルヴィン様の腕の中で、うとうとと意識が心地よく揺れ始めた、その時。
遠く、中庭の魂樹が、さらさらと葉を揺らし、優しい歌を歌うように、さざめいたのを感じました。
夢とも現ともつかない意識の中で、私は、魂樹の枝先に、まだ開ききらずに残る、ひときわ清らかな光を放つ一つの蕾が、愛おしそうに抱かれ、そっと揺れているのを見たような気がいたします。
そして、その蕾の中心には、淡い、淡い光の粒が――まるで、新しい、小さな命のゆりかごのように、優しく瞬いておりました。その光景に、私は知らず知らずのうちに、そっと自分のお腹に手を当てておりました。温かな、確かな予感が胸を満たします。
眠りに落ちる、ほんの直前。
私は、どこからともなく聞こえてくる、小さな、しかし確かな囁きを聴いた気がしたのです。
「この香りは、未来へ――愛しい、私たちの未来へ」
それが、私の心の声だったのか、あの優しい姫君の魂の囁きだったのか、あるいは、魂樹そのものの、未来を祝福する歌声だったのかは、もう、私にはわかりませんでした。
ただ、その言葉が、限りない愛おしさと、そして確かな希望と共に、私の魂に深く、深く染み入っていくのを感じたのです。
【7. 夜明けの添い寝係】
東の空が、瑠璃色から、ゆっくりと白み始めています。
世界で一番、静かで、そして幸せな夜明け。
私たちの愛の巣であるベッドの上で、アルヴィン様は、まるで幼子のような、それはそれは穏やかな寝息をたて、私の額に、彼の形の良い鼻先を、愛おしそうに触れさせていらっしゃいました。
あの“添い寝枕”は、今宵もまた、私たち二人の頭の下で、たくさんの温もりと幸せな夢を、優しく抱え込んでいます。
開け放たれた窓から、ふわりと春の風が舞い込み、魂樹から散ったのであろう、白赦火の花弁が一枚、そっと、その枕の上に舞い降りました。
私は、まだ閉じた瞼の裏で、この部屋を満たす、魂樹の気配と、アルヴィン様の腕の温もり、そして彼の肌から立ち上る、私だけの甘い香りの全てを感じ、その完璧な調和の中で、そっと囁きました。
「おはようございます、アルヴィン様。きょうもまた、世界で一番、甘く、そして幸せな一日を――ご一緒に、始めましょうね」
そう囁きながら、そっと自分のお腹に手を当てると、アルヴィン様の大きな手が、その上から優しく重ねられました。
二人の瞳が合い、言葉はいらない、ただ愛おしさに満ちた微笑みが交わされる。魂樹の祝福が、確かにここに、新しい形で息づいているのを感じながら。
朝の白赦火が、寝室から未来まで淡く染め上げる――優しさは、もう永遠。
そして、かつて書物をこよなく愛した一人の女性――エリザベート・ラヴェルは、多くの春を重ね、愛する人々と温かな日々を過ごした後、自らの手で、この永劫の愛と奇跡の物語を、一冊の書物として綴り上げました。
かつて王国にひっそりと伝わっていた、悲しみに満ちた「竜姫の伝説」。
その古き物語に、エリザベートは、アルヴィン様と共に歩んだ真実の愛の軌跡と、絶望を越えて掴んだ希望に満ちた新しい一節を、心を込めて、一文字一文字、丁寧に書き加えたのでございます。
こうして、白檀の香りと温かな愛に満ちた、竜神様とその添い寝係の物語は、千年の悲恋の涙を優しく拭い去り、王国中に、そして未来永劫にわたり語り継がれる、幸福なハッピーエンドのおとぎ話として、人々の心に恒久の光を灯し続けました。
めでたし、めでたし。
(エピローグ・完)
主な登場人物 ――人物像・能力・物語内での成長
◆エリザベート・フォン・モンヴェール
立場:没落寸前の地方男爵家令嬢/読書狂い/“香鏡”の継承者
外見:地味な栗茶髪を三つ編みにし、大きな丸眼鏡で半分顔を隠す。身長156cm。普段は泥色の地味ドレスだが祭服では白檀を織り込んだ純白ローブ。
香り:白檀・蜜・薄荷が溶け合った“永劫の香り”。緊張すると甘さが強まり、怒ると薄荷が立つ。
性格:皮肉屋で現実主義、だが本の中のロマンスには全力でときめく“理論派乙女”。問題を見つけると寝食忘れて調査するオタク気質。
得意:速読・古語解読・投げナイフ(実は短剣マニア)・共感覚。
弱点:運動音痴、褒められると処理落ち。
ヒロインとしての軸
「本当の愛など物語の中だけ」と信じ込んでいたが、伯爵の異常な執着を通して“匂い=魂の触れ合い”を学び、自分が物語を書き換える側へ。終盤は〈香鏡回路〉を自由に開閉できる高位媒介者となり、最終戦では香りで世界樹を発芽させる。
◆アルヴィン・ラヴェル
立場:王家血筋を引く若き伯爵/「竜神」の異名を持つ天才剣士
外見:黒褐の髪、紅い瞳。183cm。儀礼服では黒×深紅、私服は生成りシャツと乗馬ズボン。背中に細い竜痣が銀色に走る。
香り:黒曜石・雨上がり杉葉・焦げた砂糖。感情が昂ると微かに火薬香が混ざる。
性格:外面は冷徹・寡黙。実際は異常なまでの執着気質+甘え下手。信頼した相手には仔犬のように距離ゼロ。
技能:長剣術・竜語詠唱・地脈覚知。家政も完璧(片付け魔)。
呪い:胸に《半竜残滓》──満月や激昂で鱗・翼が出る。最終的に“白桜核”へ置換し制御可能。
萌えポイント
・添い寝枕必須。
・香りを嗅ぐと瞳が蕩け、すぐ理性が溶解。
・恋愛経験ゼロなので告白もプロポーズも全部直球。
成長:自己嫌悪(怪物化)→“香り”を介した信頼→愛を受け入れ、呪いを自ら引き剥がし〈媒質樹の核〉へ。
◆ランスロット(ラン)
立場:元・王都近衛隊長 → 黒騎士 → 白赦騎士団教官
外見:白銀髪、隻眼。戦後は片目に深紅の義眼。“赦火”の痣が胸に桜色の星形を描く。
性格:本来は生真面目で騎士道一直線。姫を救えなかった自責から怨念に飲まれたが、浄化後はひょうひょうとした兄貴分。
武装:槍と大盾、赦火を纏った二振りの短刀。
役割:ヒロイン以外で唯一“竜の涙”を流せる存在。最終決戦で命を灯して媒質樹を守る。
◆サイラス・ヴェルマン
立場:王立大学・古竜語研究主任/自称“香り民俗学者”
外見:丸眼鏡、灰色の癖髪。三十代半ば。文献で重すぎる鞄を常に両脇に。
性格:脳内9割学術、1割妄想。興奮すると早口が止まらない。
能力:古文書即解読、即実験、即論文。魔石ランプ工作と錬金を組み合わせた即席ガジェット制作。
見せ場:赤灰+蜜+香鏡を“赦火パッチ”として合成。ラストは魂樹観測塔の初代館長として忙殺中。
◆黒竜怨念(擬態姫)
本質:千年前に討たれた竜と姫、そして英雄の罪悪感が融合した負の集合意識。
姿:血液と闇で形成された“赤い姫”の巨像、または赫核珠。
目的:永遠の夜。香りの器を取り込み、竜神の身体を依り代として世界の再構築を図る。
決着:ヒロインの抱擁と赦火で涙を流し、浄化核へ昇華。
主要カップリング・相関
エリザベート⇄アルヴィン
香りで繋がった主従→依存→相互救済の両片思い→夫婦(添い寝無制限)。
アルヴィン⇄ランスロット
貴族同志/剣士同志→呪いの先輩後輩→赦し合い、兄弟のような絆に。
ヒロイン⇄サイラス
オタク同志で文献語りが止まらない。香り測定の実験台にされるが親しい師弟。
ランスロット⇄サイラス
「人体実験はイヤだ」騎士と興奮研究者の凸凹漫才枠。
それぞれが“香り・赦し・再生”の三テーマを持ち、恋と贖罪を経て 「甘々添い寝 × 神話級浄化ファンタジー」 を形づくります。