第12話『白赦火の花、黎明にほどけて』 ――香鏡回路・最終段階/千年の呪い終焉篇――
【0. 冥紅00:46】
――月蝕00時46分。
真紅の闇が、なおも世界を支配していた。しかし、その闇の中心で、新たな光が生まれようとしていた。
白赦火――ランスロットの赤灰と、姫君の魂が宿る香花蜜、そして私の香りが熾した聖なる炎が、赫核珠と、それを胸に宿す竜神アルヴィン様を、柔らかな光の花弁となって包み込んでいく。
漆黒の大広間に、祝福の雪がふわりと舞った。赤黒く脈打っていた赫核珠の表面に、その白い花弁が触れた瞬間、“ジュッ”と清浄な音とともに、禍々しい闇色が剥がれ落ち、内側から霞みがかった乳白色の、優しい輝きが滲み出し始めていた。
同時に、暴走の極みにあった竜神アルヴィン様の黒き鱗が、その白い炎に舐められ、まるで春の陽光に触れた残雪のように、音もなく砕けては、きらきらと光の粒子となって宙へ散っていく。
花吹雪の中心に佇む私の白檀は、焦げ残る絶望の匂いを、蜜の香りがそっと溶かしていく。それは、全てを赦し、全てを包み込む香り。
しかし、白赦火の輝きが強まれば強まるほど、竜神アルヴィン様の巨体から吹き出す赫い血煙もまた、その勢いを増していく。浄化と崩壊が、まさしく紙一重の危うい均衡の上で、激しく火花を散らしていた。
【A幕 決断の刻】
ひび割れた赫核珠が、その最後の抵抗を示すかのように、白赦火の光を“喰らう”ように脈動を早め、アルヴィンは荒く喘いだ。核の奥底に潜む黒竜怨念は、姫君の蜜琥珀と私の香りがもたらしたこの浄化の光を、本能的に、そして猛烈に拒絶していた。
竜神アルヴィン様は、胸にランスロット様の赦火剣を受けたまま膝を折り、理性と虚無の狭間で苦しげに身を捩らせる。その喉奥から漏れ聞こえる咆哮には、もはや人の声はなく、ただ竜の、胸を裂くような咳鳴りが重なっていた。彼の魂が、今まさに消え去ろうとしている。
「いかん! このままでは、伯爵様が核の崩壊に巻き込まれる! 赦火は、より強力な“媒質”を必要としていますぞ!」
サイラス卿が、血に濡れた手で計算盤を必死に弾き、叫んだ。
「奥方様の香りのみでは、浄化の拡散が足りませぬ! 核珠と竜神、双方の血脈と魂を束ねる、強靭な“媒質樹”を、今ここで創り出さねば――!」
媒質樹――それは、王都に広がった《魂樹ネットワーク》を、さらに凝縮し、昇華させたもの。
私は、先ほど垣間見た姫君の魂の囁きと、香鏡回路を通じて流れ込む、千年分の想いを胸に、覚悟を決めた。
「わたくしたちの“契り”を、媒質樹の幹にするのですわ」
それは、私の魂と、アルヴィン様の胸に宿る《半竜残滓》を、この赫核珠を介して、根源で結び直すという、あまりにも危険な賭け。
アルヴィン様の赫い瞳が、微かに私を捉えた。その奥に、一瞬だけ、人間の苦悩の色がよぎる。
「俺は……お前を……巻き込み、たく、ない……」
途切れ途切れの、しかし確かな彼の声。
「そんなのだめです!」
私は、彼の言葉を遮るように、きっぱりと言い放った。
「だって、わたくしはあなた専属の添い寝係なのですよ? ……いつも隣で息を合わせていたい。だから――――二人で一本の樹になりましょう」
私は、あの添い寝枕を、そっと竜神の鱗に覆われた胸に押し当て、白檀の香りを、決意と共に深く、深く吸い込んだ。
【B幕 魂樹生成】
白檀の香り、ランスロットの命が宿る赦火の輝き、そして姫君の魂が眠る蜜琥珀の清浄な光。
その三相の力が、私の呼気とともに、アルヴィン様の、竜の牙が覗く口へと、ためらいなく流れ込んでいく。
彼の鋭い牙が、私の唇の端をほんの僅かにかすめ、甘い鉄の味が、聖なる儀式に捧げられる供物のように、一滴だけ混ざり合った。
――その瞬間、ドンッ、と、赫核珠と私の心臓が、寸分違わぬタイミングで、力強く同期し、鼓動した。
無数の光脈が熱を帯びて奔り、胸郭の奥がじゅわりと温まった。
白と紅の、まるで神経線維のような光が、私とアルヴィン様の脊髄を中心に駆け上がり、この地下大広間の中央に、天を衝くかのような巨大な光の樹が、瞬く間に発芽したのだ!
その幹は、私とアルヴィン様の魂が固く結びついた魂核。
その枝葉は、ランスロット様の赦火の赤灰が変じた、清浄な炎の葉。
そしてその根は、先ほど王都一帯に張り巡らされた魂樹ネットワークそのもの。
光樹は、誕生と同時に大きくしなり、脈打つ赫核珠を、まるで母が子を抱くように、優しく、しかし力強く抱え込み、その内部へと深く根を張り巡らせていった。
しかし、その神々しい光景を妨げるかのように、王都地上で暴れていたおびただしい数の竜哭獣が、魂樹の根を伝い、この地下大広間へと、最後の悪意を漲らせて殺到してきた。怨念は、最後の最後まで抵抗を試みるつもりらしい。
その時、壁際でかろうじて息をしていたランスロットが――その顔には、もはや竜の禍々しさはなく、ただ人間の騎士としての穏やかな微笑みが浮かんでいた――最後の力を振り絞り、私たちに言葉を灯した。
「今度こそ……姫を、お守り、できたであろうか……」
彼は、私とアルヴィン様、そして光り輝く魂樹を見つめると、満足そうに頷き、自身の心臓に残る赦火の最後の残滓を、両手で強く握りしめた。
そして、それを起爆させ、崩れ落ちてきた通路を完全に塞ぎ、雪崩れ込む獣の群れを、その身と共に業火の中へと巻き込んだ。
私は、燃え盛る炎の向こうに消えていく彼の騎士としての誇り高い影に、両の掌を胸に当て、静かに祈りの香りを送った。
爆風と共に、彼の気配は完全に消えた。けれど、その魂は、確かにこの魂樹の一部となって、私たちと共に在る。
【C幕 赫核珠・内面決闘】
光樹の幹に吸い込まれるようにして、アルヴィン様と私の意識は、赫核珠の内部、その精神世界へと投げ出された。
そこは、千年分の黒竜の怨念と悲しみが渦巻く、どこまでも続く血の海だった。その中央に、偽りの姫――赤い瞳を持つ“擬態姫”の禍々しい巨像が立ち、私たちを嘲り笑っている。
「香花の器よ。そして、裏切り者の末裔よ。愛など、このわたくしが赦しはしない。永劫の渇きこそが、我が唯一の悦楽なのだから!」
アルヴィン様は、まだ竜神の姿のまま、しかしその瞳には確かな理性を宿し、銀剣を構える。
「エリィは渡さん! この千年、お前が抱き続けた怨念、俺が全て断ち切る!」
だが、彼が何度斬りつけても、怨姫の影は霧のように再生し、その嘲笑は止まらない。
――この呪いの根は、あまりにも深く、そして複雑に絡み合っていた。
「姫を救えなかった竜の後悔」と「愛する竜を殺された姫の絶望」、そして「その悲劇を引き起こした英雄の罪悪感」。その全てが、千年という時を経て、おぞましい集合体と化しているのだ。片方だけの浄化では、到底足りない。
その時、私は、アルヴィン様の剣をそっと押し下げ、怨姫の影へと、一歩、また一歩と近づいた。
そして、その禍々しい影を、私の全てで、静かに、そして強く抱き締めた。
「あなたは……ただ、悲しかっただけなのですね。永い間、お辛かったでしょう。でも、もう大丈夫。どうか、その哀しみごと、わたくしたちに託してはくださいませんか」
白檀と蜜の、そして私の魂の香りが、血の海に優しく溶け込んでいく。怨姫の強張っていた輪郭が、ゆっくりと崩れ、その赤い瞳から、千年分の涙が、とめどなく溢れ出した。
アルヴィン様が、その黒き涙を、そっと両手で受け止める。そして、自身の竜の血を、その涙へと一滴、また一滴と混ぜ合わせると、おぞましい赤黒は、夜明けの空のような、美しい桜色へと変わっていった。
【D幕 浄化と再生】
赫核珠の中心に、全ての怨念が浄化され、ただ純粋な愛と再生の力だけが凝縮された、白桜色の小さな宝珠が残った。黒い外殻は、まるで抜け殻のように、音もなく砕け散っていく。
アルヴィン様は、竜神の姿のまま、しかしその表情はどこまでも穏やかに、自身の胸をゆっくりと開き、そこに脈打つ禍々しい《半竜残滓》の刻印を、ためらうことなく引き剥がした。そして、その空洞へと、あの白桜色の宝珠を、そっと押し込んだのだ。
呪いの芯を、己の外部へと完全に捨て去り、この王都の、そしてこの世界の心臓を、“人と竜を、過去と未来を、全て赦し、繋ぐ核”へと、彼は置き換えたのだ。
その瞬間、地下の大広間を満たしていた魂樹が、一斉に満開となる!
数えきれないほどの白い火花が、美しい花弁となって、崩れた天井を突き破り、呪われた王都の空へと、雪崩れるように舞い上がっていく。
地上で暴れていた竜哭獣たちは、その聖なる花吹雪を浴びた途端、苦しみの声と共に光の粉塵へと還元されていく。王都を覆っていた赫き霧は、みるみるうちに薄桃色の優しい光へと薄まり、夜明けの清浄な光を通して、完全に霧散していった。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
アルヴィン様の巨体が、ゆっくりと傾ぎ、その紅い瞳から、光が急速に失われていく。彼の心臓の鼓動が、止まりかけていた。
「アルヴィン様っ!」
私は、彼の、もはや鱗も消え失せ、人間の姿へと戻りつつある頭を、あの添い寝枕でそっと支え、彼の冷たくなった額に、自分の額を強く合わせた。
「あなたは、必ず戻ってきますわ。だって、わたくしたちの魂は、もう一本の樹となって、永遠に結ばれているのですから――!」
最後の、そして最初の、愛の接吻。香花の蜜の結晶が、私たちの唇の間で、甘く、そして温かく蕩けた。白檀の香りが、彼の冷えた胸腔に、生命の息吹となって充満していく。
ドン、と。魂樹の幹が、そしてアルヴィン様の胸が、再び力強く、そして穏やかに鼓動を始めた。彼の胸に、柔らかな人間の肌の色が、確かに戻っていた。
【エピローグ】
――それから、数ヶ月。
王都は、奇跡的な速さで復興を遂げていた。
竜哭獣の爪痕が残った広場には、人々の手によって美しい花壇が作られ、赫核珠が浄化された地下大広間の跡地には、白赦火の聖なる炎を灯し続ける祈念塔が建てられた。人々は、あの悪夢のような夜と、そこから訪れた奇跡の夜明けを忘れぬよう、その日を「香暁祭」と名付け、毎年盛大に祝うようになったという。
伯爵本邸の庭園もまた、再建された。
そこには、雪のように白い、清らかな香りを放つ香花が、風に優しく揺れている。そして、その中央には、あの魂樹の分け御霊であるかのような、小さな、しかし力強く芽吹いた魂樹の苗が、陽光を浴びて静かに息づいていた。
私は、陽光が満ちる寝室で、新しい枕カバーに、竜と人が寄り添う文様を、一針一針、心を込めて縫い終えたところだった。
そこへ、山のような書類仕事から解放されたアルヴィン(彼の瞳は、もはや呪いの赤ではなく、澄んだ紅琥珀色。そして、胸に残る鱗の痕跡は、銀色の痣のように、しかし決して禍々しくはない、むしろ誇らしい勲章のように輝いている)が、少しだけ疲れた顔で、しかしその瞳に優しい光を宿して帰ってきた。
「エリィ、ただいま。……また、新しい枕カバーか? 今度はどんな香りを閉じ込めてくれるんだい?」
彼が、愛おしそうに私の手元を覗き込む。
「ええ、アルヴィン様。今宵は、この新しい香りと、そしてわたくしの全ての愛と共に、あなた様を、世界で一番幸せな眠りへとお連れいたしますわ」
私はにっこりと微笑み、彼の手を取った。
もう、添い寝枕の返却は必要ない。
なぜなら、私たちの毎夜が、千年分の愛と、永遠の誓いに満ちた、「添い寝」そのものなのだから。
白檀に抱かれ、千年の夜はようやく眠った。
(第12話・完)