第11話 赦火(しゃか)の白刃 ―香鏡、開花す
【0. 冥紅00:45】
――月蝕00時45分。
真紅の闇が支配する世界。完全に竜神と化したアルヴィン様が、虚無を映す赫き瞳で、私を見下ろしている。その巨躯から放たれる圧倒的な威圧感と、焦げ落ちる白檀の甘気が、絶望的なまでの力の差を突き付けてくる。
私は、ランスロットから投擲された「赦火の剣」を震える手で握りしめ、この、あまりにも巨大な絶望と対峙する。
静寂。そして、次の瞬間、運命が激しく動き出す――。
【1. 香鏡・最深層】
(アルヴィン様を……止めなければ……!)
竜神アルヴィン様が、私を、そしておそらくは彼自身をも破壊しようと、その巨大な爪を振り上げた瞬間。
私は、最後の望みを託し、意識を集中させた。私の魂の奥底に眠る、あの姫君の記憶へ――。
《香鏡回路》が、私の意志に応えるように、再び開かれる。
しかし、今度は、私が見るのではない。私の香りと、この場に満ちる赫核珠の魔力が共鳴し、このラヴェル本邸の地下最深部に封印されているという、姫君の「蜜琥珀」の遺骸そのものを呼び覚まそうとしているのだ!
「これは……!?」
サイラス卿が息をのむ。
私の体から放たれる白檀の香りが、かつてないほど強く、そして清冽に輝きを増す。それは、赫核珠へとまっすぐに伸びる、光の奔流となった。
その香りの奔流が、赤黒く脈打つ赫核珠の表面に触れた瞬間、パリォン――と、まるで硝子が内側からゆっくりと断裂するような、引き延ばされた音が響き、核珠の表面に、ほんの僅かな、しかし確かな裂け目が生まれたのだ!
香りが、物理的な力となって、あの忌まわしき核に傷をつけた……!
そして、その裂け目から、甘く、そしてどこまでも懐かしい、清浄な蜜の香りが、一瞬だけ溢れ出した。それは、姫君の魂の香りそのものだった。
【2. 赦火剣・初撃】
「今だァァッ!!」
それは、竜神の苦悶の雄叫びの狭間から、血を吐くようにして絞り出された、アルヴィン様の……いや、彼の中に辛うじて残る人間の、最後の、そして最も切実な魂の叫びだった。
その声に、私はハッと息をのむ。そうだ、今しかない!
「サイラス卿、力を貸して!」
「承知しました!」
私とサイラス卿は、互いに頷き合うと、ランスロットが遺してくれた「赦火の剣」を二人で握りしめ、赫核珠の、あの香りが穿った一点の裂け目を目がけて、渾身の力で投擲した!
白刃が、赤い閃光を曳いて飛ぶ。
キィィン!という甲高い音と共に、赦火の剣は、寸分違わず赫核珠の裂け目に突き刺さった!
核珠の表面が激しく明滅し、その赤黒い鼓動が一瞬、苦しげに乱れる。外殻の一部が、僅かにではあるが、確かに欠け落ちたのだ。
小さな、本当に小さな成功。しかし、それは絶望の闇に射し込んだ、確かな一筋の光明だった。
【3. 竜神暴走・深紅段階Ⅱ】
しかし、その僅かな光明を嘲笑うかのように、赫核珠は、より一層激しく、そして禍々しくその脈動を再開した。
ゴオオオオオオオッ!!
赫核珠とアルヴィン様の《半竜残滓》が、完全に、そして破滅的にシンクロを始める。
彼の瞳から、最後の理性の光が消え失せ、ただ純粋な破壊衝動だけを宿す、真紅の宝石へと変わる。理性0%。もはや、言葉は届かない。
竜神アルヴィン様が、天を衝くかのような、絶望的な咆哮を上げた。その衝撃波だけで、洞窟の壁が震え、小石がパラパラと落ちてくる。
「アルヴィン様っ!」
私は、再び彼の背後へと回り込み、あの枕を盾にするようにしながら、彼の巨大な体に必死で抱きついた。しかし、先ほどのような鎮静効果は、もはや見られない。彼の体表を覆う鱗は、私の香りを弾き返し、その体温は、触れただけで火傷しそうなほどに高まっている。
5秒。それが限界だった。
竜神アルヴィン様に振り払われたわたくしは、壁へ弾かれ、空気が肺から一瞬にして奪われるのを感じた刹那――。
【4. ランスロット最期の楯】
「姫には……指一本、触れさせぬ……!」
半ば人間としての姿を取り戻しかけていたランスロットが、最後の力を振り絞り、私と竜神アルヴィン様の間に飛び込んできたのだ。
彼の胸には、あの“赦火パッチ”が、淡い光を放ち続けている。
ドゴォッ!という鈍い音。竜神アルヴィン様が振り下ろした、山をも砕くかのような一撃を、ランスロットは、その身を盾にして受け止めた。彼の鎧が砕け散り、骨の軋む音が、この世のものならぬほど生々しく響く。
「ランスロット様っ!」
私は、彼の人間としての名で叫んだ。
彼は、血反吐を吐きながらも、しかしその隻眼に確かな光を宿し、ニヤリと笑う。そして、私が投擲し、赫核珠に突き刺さったままだった《赦火剣》を、最後の力を込めて、自身の胸の“赦火パッチ”の上から、竜神アルヴィン様の、暴走する赫核珠と共鳴する《半竜残滓》の刻印を目がけて、深々と突き立てたのだ!
「これぞ…我が、最期の…騎士の…誓い──っ」
剣が、アルヴィン様の胸の刻印に吸い込まれるように消える。ランスロット様の体から、力が抜けていく。
【5. 魂樹シンクロ】
その瞬間だった。
赫核珠が、悲鳴のような甲高い音を立てて激しく明滅し、その表面に無数のヒビが走る!
そして、地下深くに眠っていた姫君の遺骸――「蜜琥珀」が、まるで呼び覚まされたかのように、祭壇の奥から真紅の、しかしどこまでも清浄な光を放ち始めたのだ。
その光は、私の体から放たれる白檀の香りと共鳴し、無数の光の糸となって、この呪われた王都全域へと、まるで巨大な樹木の根のように、あるいは神経網のように、瞬く間に拡散していく。
《香鏡回路》が、王都全体を覆う《魂樹ネットワーク》へと、その姿を変えたのだ。
それは、あまりにも美しく、そしてどこか恐ろしい、異世界的な光景だった。
【6. “契り”の再誓言】
ランスロットの捨て身の一撃と、魂樹ネットワークの奔流によって、アルヴィン様は、かろうじて竜神化の暴走を止められ、その場に崩れ落ちた。しかし、彼の意識は深く沈み、その命の灯火は、今にも消え入りそうに揺らいでいる。
「アルヴィン様! アルヴィン様!」
私の呼びかけに、応えはない。
その時、私の意識が、再び香鏡回路の最深層へと引き込まれた。
目の前には、あの、どこか物悲しげな微笑みを浮かべた姫君の魂が立っていた。
『……ありがとう、わたくしの遠い裔。あなたの愛と勇気が、永い永い呪いの連鎖を、ようやく断ち切ろうとしています……』
「姫様……! アルヴィン様を、助けてください!」
『彼を救うのは、あなた自身。そして、あなたと彼が紡いできた、真実の愛の力です。
わたくしが遺した“蜜琥珀”は、あなたの香りを増幅し、彼の魂を繋ぎとめるための器。そして、あの騎士が命を賭して打ち込んだ“赦火の剣”は、竜の呪いを浄化する聖なる炎。
最後に、あなたが彼と分かち合った“その安らぎ”に込められた、純粋な信頼と慈しみの記憶……。この三つが一つになった時、真の奇跡が起こるでしょう』
姫君の魂が、そっと私の手に触れる。温かい光が、私の中に流れ込んでくる。
これが、〈香鏡・赦火・枕〉三位一体の最終鍵。
【7. 赫核珠・崩胎】
現実世界へと意識が戻ると、アルヴィン様の胸の《半竜残滓》の刻印が、赫核珠と共鳴し、禍々しい赤黒い光を放っていた。
しかし、私の手に握られた赦火の剣の柄と、彼に押し当てた枕、そして私の体から放たれる白檀の香りが、姫君の魂から託された力と共鳴し、純白の、そしてどこまでも優しい光へと変わり始める。
その白い光が、赫核珠の中心へと注ぎ込まれると、赤黒い核の中心に、まるで新しい生命が芽生えるかのように、一点の“浄化の白”が、確かに灯ったのだ!
それは、闇が深ければ深いほど、より一層強く輝く、希望の光。
赫核珠が、まるで新たな胎動を始めたかのように、その鼓動のリズムを変え始める。
崩壊か、あるいは――再生か。
固唾をのんで見守る私たちの前で、物語は、最後の瞬間へと向かおうとしていた。
(第11話 了)
あと1回あります。