朝の空気
そして、現在。
冬休み初日、朝の九時。
巨大な城を背景に、前を行く華音の足取りはしっかりしていて、ぐいぐいと睦月の手を引っ張っていく。
長い後ろ髪を一本の三つ編みに、それがゆらゆらと揺れている。
と、華音は振り返って、睦月に笑いかけた。
「ムーちゃん! あたしの手、離さないでね。迷子になっちゃうわ」
「なりませんよ。大体、今日からここで働くのに、迷子になってどうするんですか」
身長だけならすでに睦月の方が二十センチは高いのに、まだ小学生の頃と変わらない扱いだ。
華音は、不安そうに手に力を込めた。
「だって、オペレーターの人、まだ出勤してないのよ……はぐれたら大変!」
睦月は思わず苦笑する。
冬の朝の光は柔らかく、風は冷たく澄んでいる。
ここは怪奇をテーマにした遊園地のはずだが、そのシンボル……遥か前方で光り輝く石造りの『ドゥンケル城』は、神聖にすら見えた。
「日中ですから、まったく怖くないですね」
片手にヘルメットをぶら下げた睦月の言葉に、華音は頷く。
「そりゃ、まあね。もともと、怖がらせる目的じゃないもの。ストレンジの意味は、『奇妙』よ。恐怖とは違うわ。このストレンジ・ワールドにはね、他の遊園地には大抵作られてる、とあるアトラクションがないのよ」
「それって?」
「オバケ屋敷」
「全体が、オバケ屋敷みたいなもんですからね」
「うまいこと言うわね。……でも、まあ、確かにそう。ここは、大きなオバケ屋敷。うふふ」
ガチャガチャと鎧を鳴らして歩く睦月の言葉に、華音は楽しそうに笑った。
そんな彼女はと言うと、こちらは袖の長いダボっとした中華服に、中国満州族の帽子を被っている。
睦月は興味に駆られ、聞いてみた。
「で、華音先輩のそれは……なんのオバケなんですか?」
「あたし? あたしはねぇ、えへへ」
そう笑って、胸元からお札を取り出し、ぺたりと額に貼りつける。
「あ、キョンシー?」
「イエス! アイアム、キョンシーアル!」
にっこりと笑い、両手を前に突き出してポーズを取る。中国妖怪のコスチュームに身を包み、日本人丸出しの発音で英語混じりの似非中国語を喋る。
和洋中のごちゃまぜ振りがすさまじい。
「……本物のキョンシーは、『アル』って言わないんじゃないですか?」
「別に、いいアルヨ」
そう言って、華音はすましてみせる。
「みんな、本物のキョンシーを見に来るわけじゃないアル。みんなが望むキョンシーやれてれば、いいヨロシ」
「その胡散臭い喋り方が、ですか?」
華音は遠い目をして言った。
「アルって、偉大だよねー。……誰が考えたんだろ?」
「さあ? 昔のお笑い芸人とかじゃないですか」
「あたし生粋の日本人なのに、語尾にアルってつけるだけで、ほらこの通り中国人アルもん!」
「思いっきり日本人ですけどね。で、先輩も案内係?」
すると華音は、カクリと首を傾げて道の向こうを指さす。
そこにはごちゃっとした、違法建築の塊の様な中華風の一角があった。
「あたしはあそこ。『クーロン・ストリート』で、屋台の売り子をしてるアル」
「何を売ってるんです?」
「餃子ドッグ」
「なんですか、それは……」
およそテーマパークにはふさわしくないニンニク臭い食べ物に、睦月は呆れる。
華音は、楽しそうに手をパタパタさせた。
「すっごく美味しいんだよう! 他にもホイコーロー丼とか、桃まんとか、ライチアイスとかね……まだ時間あるし、ちょっと見てみる?」
言いつつ、彼の手を引いてクーロン・ストリートへと進んだ。
近づくにつれ、その異様なまでの作りこみと、乱雑さが浮き出してくる。
模造のフルーツ露店に、鳥かごをぶら下げた軒先が並ぶ。どこからか、ゴマ油と中華の香辛料の匂いが漂ってくる。
そこかしこに取り付けられた漢字のネオン看板は、今は電気が落ちているものの、そのケバケバしいカラフルさには思わず目を奪われる。
中国風のお面に、窓にはためく洗濯物。壁の煤け具合、無秩序に増改築が繰り返されたような建物の群れに、まるで80~90年代のカンフー映画に迷い込んだかのように錯覚する。
すっかり感心して、睦月は言った。
「すごいですね、ここ! 妙な生活感がありますよ」
その言葉通りに、テーマパークの一角とは思えないほどにすべてが細かく、リアルに作られているのだ。
華音は、大通りを見上げて言う。
「この、ごちゃっとした町並みをね、ジェットコースターで疾走する、サンダー・アームっていうアトラクションが人気なの。行列が二時間待ちになることもあるんだから!」
視線の先には、まるで空をのたうつ大蛇のような鉄の道が見える。
華音は、クーロン・ストリートの真ん中で足を止めて、一方を指さした。
「あっち側がね、和風のスタッフが担当してる『紅伊吹邸』よ。明治時代の武家屋敷をテーマにしたアトラクションで、乗り物に乗って3Dシアターのコースを巡るって内容なの。大人気だから、今、裏手を拡大工事中」
そこにあるのは、歴史ある旅館みたいな厳かな門。
その奥には松と、椿らしき赤い花が咲いている。
「あそこにね、ムーちゃんにお仕事教えてくれる人がいるから、一緒に行こうねぇ」
華音は、睦月を連れてそちらへと向かう。