人の噂
と、もうひとつサンドイッチを食べようとした睦月の耳に、ヒソヒソと話す声が聞こえた。
「……あれ、昨日の事件の?」
「らしいよ。なんか、痴話喧嘩だって」
「昔の恋人襲って生き血を啜ったって……」
睦月の手がピタリと止まる。それを横目で見ていた橘が言う。
「君も、我輩が芽衣子君を襲っただなんて考えてる口かね?」
「いえ。それはないと思いますよ」
即答だった。事実、睦月はそう思った。
橘の印象は、面倒くさくてキザったらしいが、決して悪いものではない。
役作りの上でヴァンパイアに傾倒している様子が見て取れるが、それが昂じたからと言って人を殺すとか……そういう猟奇的な行為に走るとは思えない。
橘が鼻で笑いつつ、言う。
「無責任な話だよな。確かに、彼女は元恋人だがね。しかし、ヴァンパイアが好んで襲うのは処女なのだ! たとえ血を吸うにしても、あやつの事は襲わんよ」
元恋人の芽衣子を襲わない根拠が、それだと。処女の血だと。人前で明言してしまう。
手をヒラヒラさせる橘を見て、睦月は苦笑してしまった。
彼は、大皿からタマゴサンドを取りながら軽い調子で返した。
「でも。橘さんって……意外と人の噂とか気にするんですね」
しかし、橘は「はあ?」と、声をだし、それから思いっきり見下したように睦月を見た。
「なんだ……君。バカだったのか」
「……っ! 橘さんが、俺に、噂の事を聞いたからでしょう?」
いきなりバカと言われ、ムッとしつつ睦月が反論する。
しかし、橘はキッパリと言った。
「我輩が尋ねたのは、君にだ。霜上睦月が橘裏人を、どう思っているかを聞いたのだ。周りの人間がどう思っているかではない」
それから、両手を広げて大げさな動作で首を振り、
「なぜ、我輩が、ゲストでもない、友人でもない有象無象の者達の噂を、いちいち気にしなければならんのだ? ……バカらしい! 我輩が気にしたのは、目の前にいる君個人の評価ではないか?」
「……あ、いや。その通りですね。俺がバカでした。ごめんなさい」
彼の言った事は間違っていない。だから、睦月は素直に認める。
橘は満足そうに頷いて、大仰にトマトサンドを口に運ぶ。
「うむ、素直は美徳だぞ!」
そんな橘を見ながら睦月は思う。
(一言で表すなら……裏表のない人……か?)
同僚や友人として付き合う分には、わかりやすい種類の人間である。
今の話にしても、睦月が勝手に邪推しただけで、彼自身は本当に周囲の雑音を気にしないタイプなのだろう。裏を返せば睦月の事は、『その他大勢ではない』と認めているという事だ。
意外と友好的な男のようである。プライドはとても高いし、妙に芝居がかってわかりにくい発言もするが、仕事に一生懸命だし、なんとなく憎めない。
睦月は彼に、好ましい印象を持った。
(それに、卑屈で庶民的、腰の低い吸血鬼なんてもんは、きっと気持ち悪いに違いないな)




