ワインとイカスミ
「んっ!」
怒ったように差し出す彼女の手には、なみなみとワインを注がれたグラスがあった。
「しかし、私はバイクなので、お酒は飲めません」
堤は真っ赤な顔で言う。
「そんらころ、いわないれくらさいよ……んっ。ひっく。いっぱいくらい、いいひゃないれすか。こんなよっらおんなのこをほうっておくんれすか?」
そう言いつつ、手に持ったグラスを自分で空にして、「かひぃー」と気持ちよさそうな声を上げる。
私はため息を吐きつつ、言う。
「……呂律が回っていませんね」
彼女が酒乱だとは、知らなかった。
さきほどからしきりに、私にも「飲め、飲め!」とすすめてくる。その度に断っているのだが……。
今、彼女は不機嫌そうな顔をして、真っ黒なスパゲティを口に運んでいる。
「それ、なんですか?」
「これ? いかすみぱすたらよ……」
「イカスミパスタ……おいしいんですか?」
すると、黒いスパゲティをフォークで巻きつけ、こちらに差し出してきた。
「んっ!」
私は、ため息を吐きながらそれを見つめる。
堤は怒ったような真っ赤な顔で、フォークを突きつけた姿勢のままだ。
それが、妙にかわいらしくて。いじらしくて。
おかしくなって。
そして、ぱくりと食べると、堤はびっくりした顔をして、しばらく硬直していた。
「なるほど。おいしいです。……どうしました?」
「たべてくれると……おもってなかったから……」
呂律が少し戻っている。
驚いて、酔いが醒めたのだろう。
私は、にこりと笑ってから言った。
「食べたら、いけませんでしたか?」
「……うれしい」
彼女の赤い顔は、多分、アルコールのせいだけではない。
私は、彼女の手からグラスをサッと取り上げる。
そして、デカンタからワインをなみなみと注ぐと、一気にそれを飲み干した。
「ふう。確かに、ワインが欲しくなる味です。さて、飲んでしまったからには……私も、今日は帰れません。困りました」
笑い混じりでそういうと、堤は目を見開いて、あわあわとうろたえている。
それから、意を決したように目を強くつぶり、絞り出すような声で言った。
「う、ううう、うちのアパート……近くだから……」
「では、よろしくおねがいします」
薄暗い部屋の中、顔を寄せる堤をじっと見る。ショートカットの栗毛をそっとなぜた。
(……多分、可愛らしい顔をしているのだろう)
目は大きくて、少し垂れている。鼻も小さくて形がよい。唇はふっくらしている。
なにより、ほんのり赤く上気した肌が、とても綺麗だった。
この顔も、明日にはまた、知らない『他人の顔』になってしまうのだろうか?
(……忘れたく、ないな)
そう思って、キスをした。
優しく、精一杯の愛情をこめたキスだった。
そして、次の日の朝。
まどろみながら目を開けると、肩の上にはほわほわの栗毛が揺れていた。
その下の、大きくて少し垂れた目がそっと開く。
形のいい鼻にむずがるように少しだけ皺が寄り、ふっくらした唇がほっと息を吐き、言葉を紡ぐ。
「おはよう……よく眠れた?」
にっこりと笑った他人の顔が、そこにあった。




