顔のない世界
相貌失認……あるいは、失顔症と言うらしい。
きっかけは幼少時の熱病だ。以来、私は人と比べて、少しばかり奇妙な世界に生きている。
他人の顔を見ても、それが誰だかわからない。
目、口、鼻、輪郭。そう言った物を覚えても、次に会う時には、総合的に同じ人物か判断できないのだ。
個々のパーツは覚えられるのに、全てが合わさるとわからない。
表情は読めるのに、目を離すと覚えていない。悩んでいる人は、意外と多い。
タイタニックの映画の主演男優も、この症状を持っているそうだ。
ただ、自分の場合はかなりの重度で、ひどい時には老若はおろか、男女の区別さえできないこともある。親兄弟でも大分怪しい。
もっとも、服や声、あるいは匂いで覚える癖がついてからは、無用なトラブルはずいぶん減った。
そんな自分にとって、ストレンジ・ワールドのオペレーターは天職だと思えた。
声だけのやり取りは願ったり叶ったりだし、キャストはいつも特徴のある同じ服を着ているからだ。
「ゲームのキャラクターなら、もう少し見分けがつくのに……」
終業後、誰もいないオペレータールームで、日課のドット打ちを行う。
「キョンシーは……こんな感じでしょうか」
上下左右の向きに二枚ずつ、計八枚の画像を合わせると、レトロなキャラクターが手を前にして、可愛らしくピョコピョコと跳ねた。
オペレーターのシステムは、時代遅れで使いにくい。あまり負荷がかけられないので、これが限界だろう。
と、ドアが開き、誰かが入ってきた。
「あ、まだ作業やってたんですね」
「ええ、キョンシーの……華音さんのビジュアルを作り直していました」
丁寧な言葉遣いはトラブルを避けるためのものだし、男女や立場で口調を変えなくて済むので楽だ。小さな、生活の知恵だった。
声の高さから言って、恐らくはサブキャストの堤百花だろう。気をつけながら声をかける。
「……なにか、お忘れものですか?」
あえて、名前は呼ばない。
「ええっと、そういうわけじゃないんです。……あの、五条さん? この後って暇ですか?」
「この後……ですか? そうですね。どこかで食事でもして帰ろうかと思っていた所です」
「わあ! 奇遇ですね! 私もちょうど、お腹減ってたんですよ!」
話しながら、香水、コート、髪型と確認する。
やはり、堤だ。
時計を見ると、終業時刻を三十分も過ぎている。
恐らく、彼女は私を待っていたに違いない。別の出口から帰ったのではないか、様子を見に来たといったところか……。
彼女が、私に好意を寄せているのは知っている。
モニターの電源を落とすと、立ち上がって思い切り伸びをした。
「うん……! では、ご一緒にいかがです。堤さんは、何がお好きですか?」
「私ですか? 実は私、イタリアンが大好きなんです! ……あ、五条さんが食べたい物あるなら、そっちでも大歓迎ですよ!」
「この時間では、普通のレストランは開いていないでしょうね。……街道沿いのファミリーレストランはどうでしょうか?」
「あ! いいです、とってもいいです! あそこ、値段も手ごろだし、美味しいんですよねっ!」
勢い込んで身を乗り出す堤の手を、私は笑顔で取って歩き出した。




