懐古
君を幸せにするためにはどうすればよかったんだろう。
「……戦いの最中に考え事をするのは感心しないな」
「それだけ余裕があるということだ」
嘘だ。少しでも油断すればこの侵入者にすぐに負けてしまう。
この侵入者の言う通り、考え事なんてしてる場合じゃない。
でも脳が勝手に考えてしまう。
どれだけ考えようと過去に戻れる筈もないのに。
次の瞬間、首を斬られた。
「貴方!!」
「……終わりにしよう」
ああ。これで死ねたらいっそ楽なのに。
首を斬っても俺たちは死ねない。
捕まれば人間達の動物実験に使われるらしい。
俺はどうなっても構わない。
でも妻と子どもだけは助けて欲しい。
……こんな化け物の願いなんて誰も聞いてはくれないんだろうな。
……ああ。死ねる訳でもないのに、走馬灯が見えてきた。
子どもの時のとっても可愛らしい君の笑顔。
何年間、君の笑顔を見ていないだろう。
俺たちの関係に何か名前を付けるなら、あの時の関係より余程近い筈なのに。
あの時の方が今の何倍も心の距離は近かった。
どれだけ時を遡れば、俺は君のことを幸せにできるのだろう。
あの日だろうか。あの日だろうか。あの日だろうか。
……いっそ俺なんかには出会わない方が幸せだったのだろうか。
俺は彼女の家の用心棒の息子だった。
彼女の家は国内有数の華族だった。
身分違いにも俺は彼女に恋をした。
「向日葵様。また木登りなんかして。嫁の貰い手がなくなりますよ」
「あら別にいいわよ。誰も貰ってくれないなら、 晴に貰ってもらうから」
「なっ!?」
「あ、照れた!」
「か、揶揄わないでください」
「うふふ。私より晴の方が余程女の子みたいね。名前も女の子みたいだし」
「名前のことは馬鹿にしないでください!!父さんが一生懸命考えたんです!!」
「確かにそうよね。ごめんなさい。
それに響きは女の子みたいだけど漢字は素敵よね!晴って貴方にぴったりよ!」
「えへへ。そうですか?」
「そうよ。晴の目は太陽みたいに綺麗だものね」
「……俺より向日葵様の目の方が……」
「ん?なにか言った?」
「な、なんでもありません!!それに今は弱くても大人になったら、父さんみたいに強くなって、 向日葵様を守りますから!!」
「うふふ。楽しみにしてるわね!」
彼女の笑顔は彼女の後ろに出てる、太陽よりも眩しかった。
「向日葵様ー。どこですかー」
「あらまずい。見つかっちゃうわ。晴受け止めて」
「え、ちょっと、待っ……!!」
止める間もなく、向日葵様は木から飛び降りた。
咄嗟のところで受け止める。
「なにやってんですか!?危ないでしょ!!」
「あらやっぱり男の子なのね!カッコいいじゃない!……あ、また照れた」
「……本気で怒りますよ。向日葵様」
強くてかっこいい父に優しい母。
息子のようにかわいがってくださる、向日葵様のお父様とお母様。
なにより太陽のような向日葵様。
俺はそれ以上なにもいらなかった。
あの日々がずっと続けばそれだけでよかったのに。
俺の母が亡くなってから少しずつおかしくなった。
酒なんて滅多に飲まなかった父は毎日のように飲み歩き、帰ってこない日も少なくなくなった。
目つきもだんだんと鋭くなり、目が合うと言いようのない恐怖を感じることも少なくなかった。
ある晩、目が覚めてしまい厠へ行く途中、父さんの部屋に誰かが来ていることに気がついた。
誰だろ?
つい。足を止める。
「いよいよ。今日だな」
「はい。必ず夏目家の連中を全員仕留めてみせます」
今なんて言った?
夏目家は向日葵様の家の名前だ。
全員ってまさか向日葵様も?
いや。その前になんでそんなことを。
父さんも夏目家の人達と仲がいいのに。
咄嗟に一歩後ずさると、床がぎしっと鳴った。
「誰だ!?」
父さんと父さんと一緒にいた男が飛び出してきた。
「晴。なんで……」
「と、父さん。嘘だよね……。夏目家の人達を殺すなんて……」
父さんは目を逸らした。
……早く!!早く夏目家の人達に伝えないと!!
玄関の方へ走ろうとした時
「おい。このガキどこに行くつもりだ」
「離せ!!離せよ!!」
「ま、待ってください!!息子にはよく言ってきかせますので!!」
「俺がお前にいくら払ってると思ってんだ!?ガキの教育くらいちゃんとしとけ!!」
「も、申し訳ありません!!」
「計画の邪魔されても困るからな、足の一本くらい折っておくか」
「や、やめてください!!」
父さんが止めにくるよりも早く、男が俺の足を折った。
「……!!」
痛すぎて声が出ない。
「晴……」
申し訳なさそうな顔で父さんが俺を見てる。
そんな顔しなくていいから早くそいつを止めてくれよ!!父さん!!
「行くぞ」
「は、はい」
「……待て」
壁に手をつき、なんとか立ち上がった。
「なんだ。足折れてるのにやるじゃねぇか!!気に入ったぞ!!将来は俺の家来にしてやる!!……でも今日はおねんねしてな」
もう片方の足も折られた。
「晴!!」
「おい!さっさと行くぞ!」
「は、はい」
「……待て。やめろ」
向日葵様を殺さないでくれ……。
父さんと男が出ていった。
床を這いずってなんとか後を追う。
早く。早くしないと。
痛すぎて意識を失いそうだった。
誰かに助けを乞うにも、時間が遅過ぎて誰もいなかった。
気づいてもらえるだけの大声も出せない。
「……誰か……誰か…………助けて……」
「……おや。食事に来たんだけど、面白そうなのが転がってるね。……どうしたの?」
見たことのない程、美人な男の人が目の前に立っていた。左目の下には特徴的な3つのホクロがある。
「た、助けてください。大切な人の命が危ないんです……」
「おや。それは大変だね。その大切な人というのは親かい?兄弟かい?」
「……す、好きな人です」
「はぁ。なんだよ。くだらない。ガキの色恋には興味ないよ。
親兄弟だったら助けるふりして、君の目の前で殺してやろうと思ったのに」
男が去っていった。
「ま、待ってください!!お願いします!!なんでもしますから!!どうか向日葵様を助けてください!!」
「……なんでもねぇ。じゃあ君。不死身の化け物になれる?」
「なれます!!向日葵様を助けるためならなんだって!!」
「……ふーん。まぁ暇つぶしには丁度いいか。
君に力を与えよう」
そう言って男は小刀で自分の手首を斬った。
男の手首からぼたぼたと血が流れる。
「さぁ。この血を飲むんだ。そしたら彼女を助ける力が手に入るだろう。
ただしこの血を飲んだら不死身の化け物になるよ。悪魔なんて呼ばれてるね。
何をしたって死ねない化け物に。まだ子どもの君にそんな覚悟ある?」
「ある!!向日葵様を助けるためなら、化け物だろうと悪魔だろうとなんだってなってやる!!」
「……そう。じゃあ早く飲みな。いつか絶対後悔するけどね」
血を飲むだけで強くなるなんて聞いたことない。
だけどこの人を信じる以外に向日葵様を助ける方法はないんだ!!
一口飲むと全身が燃えるように熱くなった。
熱い!!熱い!!火事の中に投げ込まれたみたいだ!!
「ぐぁ、ぐぁ…………ぐあー!!!!」
「頑張れ♪頑張れ♪」
数分間苦しんだが、突然痛みが全くなくなった。
「あ、あれ……」
「おめでとう!これで君も晴れて化け物だね!」
「あ、足が治ってる……。体も嘘みたいに軽いし」
「ああ。悪魔になると大抵の傷はすぐに治るんだよ」
「こ、これなら向日葵様を助けられる!!」
「うん。そうだね。頑張って」
「あ、ありがとうございました!!」
「うん。助けられるといいね」
急いで向日葵様の家に向かった。
向日葵様の家は燃えていた。
「……い、急がないと……!!」
炎の中を進んでいるのに全く熱さを感じない。
本当に化け物になったんだ。
でもそんなことどうでもいい!!
今はとにかく向日葵様を助けないと!!
部屋の襖を片っ端から開けていくと、向日葵様のご両親の死体があった。
死体を見て腹が鳴った。
あれ。なんで。腹なんて空かしてる場合じゃないのに。
向日葵様を早く助けないといけないのに!!
それに人間の。それもお世話になったお二人の死体を見て腹を空かせるなんて!!
……あー。でも。美味しそうだな。
香ばしく焼けた匂いがたまらない。涎が止まらなかった。
腹が減っては戦はできぬって言うし、一口くらい食べてもいいんじゃ。
腹が減ったせいで、向日葵様を助けられなかったら本末転倒だし。向日葵様を助けるために食べるなら、きっとお二人だって許してくれるはず……。
……俺、今なんて思った?
こんな考え人間じゃない!!!!
早く!!早く!!この場から離れないと!!
俺は急いで部屋を出た。
向日葵様!!向日葵様はどこだ!?
そうだ!!俺は向日葵様を助けるために悪魔になったんだ!!人の肉を食べるためなんかじゃない!!
早く!!早く助けないと!!
十数個の襖を開けた。部屋の数だけ死体があった。
死体を見るたびに腹が減ったが、向日葵様の笑顔を思い浮かべてなんとか耐えた。
屋敷の一番奥の部屋の襖を開けると、刀を持った父さんと顔の右側に重度の火傷を負った向日葵様がいた。
「向日葵様!!」
「晴!!」
「晴!!どうやってここに!?足が折れていただろう!!
……まあいい。お前は邪魔するなよ!!この娘で最後だ!!」
父さんが持っていた刀を振り上げた。
「きゃーーーーー!!!!」
向日葵様が悲鳴をあげて目を瞑った。
俺は急いで父さんの側へ行き、父さんの首をへし折った。
すごいな。結構な距離があったのに、一秒もかからなかったぞ。
それに成人男性の首を素手でへし折れるなんて……。
この力があれば、向日葵様をどんな奴からでも守ってやれる。
自分の父親を殺した罪悪感は全くなかった。
あんなに大好きだった父さんが、今はただの肉の塊にしか思えない。
「……晴。ど、どうなったの?」
「向日葵様。そのまま目を瞑っていてください。俺が守りますから」
「晴!!私……私怖かったよ!!お父様もお母様もみんなみんな殺されちゃって!!
……私もう晴しか居なくなっちゃった……」
「大丈夫です。向日葵様。俺が何があっても向日葵様を守ります」
「晴……」
「……これはどういうことだ?お前の足は折ったはずだろ。それにそいつもお前みたいなガキがやったのか?」
「向日葵様。そのまま目を瞑っていてくださいね。俺が必ず守りますから」
「う、うん……」
「……もういい。お前みたいな得体の知れないガキ、生かしちゃおけねぇ。そこの女諸共死んじまえ!!」
男が刀を持って走ってくる。
俺の側まできたときに父さんと同じように首を折った。
すごい。こんなに太い首まで小枝のように折れるなんて。
「晴……」
「もう大丈夫です。向日葵様。早く外へ出ましょう。死体がたくさんあるので目は瞑ったままで」
そう言って、向日葵様の手を握った。
「手を引くのでついてきてください」
「う、うん……」
向日葵様の手を引いて、歩き出した。
成人男性の首をへし折れるんだ。向日葵様の柔らかい手など、力を入れたら簡単に砕け散ってしまうだろう。気をつけないと。
屋敷の外へ出ると安堵のせいだろうか。
猛烈に腹が減ってきた。
あー。美味しそうな女の子だな。
頑張ったしご褒美に食べても。
向日葵様に少しずつ顔を近づける。
「晴?ど、どうしたの?」
「向日葵様が欲しいです」
「……キ、キスしたいってこと?」
「え、あ、いや!!違っ!!」
「……違うの?」
「……ち、違わないです」
「……キスしてもいいよ」
「え……」
「わ、私のこと助けてくれたから。ご、ご褒美にしてもいいわよ!!」
ど、どうしよう……。俺はすごく嬉しいけど、褒美のために好きでもない男とキスしたら、向日葵様は将来傷つくんじゃ……。
でもキスしたら食欲も少しはおさまるかもしれないし。
「す、するの!?しないの!?どっち!?」
「し、します」
「……じゃあ早くしてよ」
俺は向日葵様とキスをした。
幸せすぎて溶けてしまいそうだった。
向日葵様の顔を見ると、真っ赤でりんごのようだった。
ああ。そういえば今年はまだりんご食べてないんだよな。
向日葵様もりんごのように甘くて美味しそうだな。
食べたらどんな味がするかな。
「晴?どうしたの?」
「え、あ、いや。……なんでもないです」
最低だ。早く向日葵様から離れないと、俺は向日葵様を食い殺してしまう。
「本当?体調悪そうだけど……」
「大丈夫です。心配いりませんよ」
「そう?……ならいいけど。そういえばどうやって晴のお父さんを倒したの?
私ずっと目を瞑ってたからわからないんだけど晴がそんなに強くなってたなんて私知らなかった!」
……そうか。向日葵様は知らないんだな。俺が化け物じみた動きで実の父親を殺したこと。
もし知ってしまったら、向日葵様が俺にこうやって笑いかけてくれることはなくなるんだろうな。
「……向日葵様。俺はもう向日葵様の側にはいられません」
「え……。ど、どうしてよ!?」
「父親が謀反を起こしたんです。その息子の俺が 向日葵様の側にはいられません」
「それでも!!晴は私を守ってくれたじゃない!!」
「……だからと言って許されるものではないです」
「そんなの知らない!!みんなが晴のこと許さなくても私は晴を許す!!だからずっと一緒に居てよ!!……一人ぼっちは嫌だよ……」
「……すみません。向日葵様」
「いやだ!!」
こんな子どもみたいな向日葵様久しぶりに見たな……。
家の人を皆んな亡くして、他に頼れる相手がいないせいだろうけど、俺のことをこんなに求めてくれるのは嬉しいな。
……でも向日葵様の命が一番大切だ。
向日葵様を殺してしまったら、俺は死ぬこともできないくせに生きていけなくなる。
「……俺は向日葵様の幸せだけを願っています」
そう言って俺は走り出した。
「待ちなさい!!晴が私に追いかけっこで勝てると思ってるの!?一度も勝ったことないくせに!!」
そう言って向日葵様が俺を追いかけてきた。
確かに向日葵様の言う通りだ。
向日葵様はとても足が速く、これまで一度も勝てたことはない。
……でも化け物になった俺を貴方は決して捕まえられない。
化け物だとはバレない。でも絶対に捕まらない速度で走った。
「……なんでよ!!なんでそんなに足が速いのよ!!これまでずっと手加減してたの!?私のこと心の中でバカにしてたの!?」
違います。俺は貴方のことを心の底から尊敬していて大好き…………でした。
そう言い返したかったけど、向日葵様の顔を見て自分の醜い欲を抑える自信がなかったから、ただ走り続けた。
「待って!!待ってよ!!お願い!!
もう絶対わがまま言わないから!!ちゃんと良い子にするから!!……痛っ!!」
向日葵様が盛大に転んだ音が聞こえて、咄嗟に立ち止まる。
「晴。……痛い!!お願い!!助けて!!」
向日葵様は子どもみたいに泣いていた。
……ああ。懐かしいな。昔の向日葵様は今よりもお転婆でよく転ぶから、その度におんぶして帰ってたっけ。
大丈夫だろうか。怪我の具合だけでも見た方が……。
…………何考えてるんだろ。怪我なんかより、俺が近くにいる方がずっと危ないだろ。
俺は再び走り出した。
「待ってよ!!……待ちなさい!!私を置いてったら一生許さないわよ!!ずっとずっと許さないんだからね!!」
向日葵の視界から、晴が消えた。
「待ってよ……。お願いだから……。ひどいよ……晴。なんで!!なんで!!晴なんて大っ!!」
『嫌い』そう言おうとしたら、晴との思い出が蘇ってきて
「…………好き」
そう口にしていた。
「バカ!!バカ!!バカ!!晴のバカ!!…………私のバカ……。もっと早く好きって言えばよかった……」
そうすれば今頃、晴は私の隣で笑ってくれてたのかな……。
十年後
「やあ。久しいね。我が息子」
あの日、向日葵様を助ける力をくれた男が人間の死体を5体担いでやってきた。
俺はいまだにこの人の名前すら知らない。
一度聞いたことがあるが、酷く冷たい目で『名前なんて必要か?』と言われたから、俺はこの悪魔の情報を取得することを諦めた。
下手なことを聞いて嫌われたら、すぐに肉体が回復するのを良いことに飽きるまで切り刻んだりしてきそうだ。
実際他の悪魔にしているのを見たことがあるし、無理矢理参加させられたこともある。
この悪魔は頭がおかしい。
あの日俺を助けてくれたのも、ただの暇つぶしに過ぎなかったんだろう。
「……なんの用ですか」
「冷たいな。反抗期か?
用もなにも食事を持ってきただけだよ」
「……いりません」
「人間を食べようが食べまいが化け物であることに変わりない。どっちにしろ化け物なら美味しい物を食べて生きよう。
食事くらいしか生きる楽しみなんて見出せないよ」
「その人達にも家族とか。大切な人がいたはずです。そんな人達を食べるなんて俺には……」
「牛や豚にも家族はいるだろ。美味い物を食べて生きる。それが生き物だ。
俺たちだけがその理から外れなければいけないなんて不公平だ。
食わなきゃ死ねる生物と違って、どれだけ腹を減らしても死ぬことすらできないのに」
「それは……でも……」
人を食べたらいよいよ向日葵様とは別の生き物になってしまう気がして。
人を食べてないからといって、人間に戻れる訳でもないのに。
「ああ。そうそう。お前の女、三十も上のじじいに嫁がされるらしいぞ」
「え……」
「可哀想にな。あの日両親と一緒に死んでおけば良かったと思ってるかもな」
「そんな……俺は向日葵様のために化け物にまでなったのに……」
「でも頼まれた訳じゃないからな。そういうのを独りよがりっていうんだろうな」
「じゃあ、あのまま見殺しにすればよかったって言うのか!?」
「怒るなよ。本題はここからなんだから」
「……本題?」
「結婚相手の家が結構遠いみたいだから、今の内に会っておかないともう二度と逢えなくなるかもしないぞ」
「……逢える訳ないだろ。また向日葵様を食べたくなったら……」
向日葵様を思い出すたび腹が減って死にそうになるんだ。死ねないけど。
「その為にこれだけ食糧持ってきたんだ。これだけ食えばしばらくは食いたくならないはすだ」
「でも……」
「これから何千年何万年って生き続けないといけないんだぞ?
最後にあっておかずに、孤独に耐え続ける自信があるのか?」
「それは……」
そんな自信ある訳がない。
この十年、向日葵様のことを考えない日はなかった。
今だってなんとしてでも逢いにいきたい。
でも……
「孤独が深いと腹も減るぞ。遠目から見るくらいいいじゃないか」
駄目だ!!駄目だ!!駄目だ!!
万が一にも向日葵様を食べてしまったら、不死身の化け物になってまで向日葵様を助けた意味がなくなる。
向日葵様がこの世から居なくなっても、俺は何千年何万年と生き続けないといけないんだぞ?
向日葵様を殺した罪悪感を抱えて生き続けるなんて、絶対に耐えられない。
でも向日葵様の顔を俺はあと何年覚えていられるんだろう。
まだ10年しか経ってないのに、記憶の中の向日葵様の姿に少しずつ靄がかかる。
嫌だ。忘れたくない。
記憶の中だけでいいから、その太陽のような笑顔で俺を照らしてください。
それだけで俺には充分なんです。それ以上はなにも望まないから。
……もう一度だけ貴方に逢いたい。貴方の笑顔を脳裏に焼き付けて。
そうすれば永遠の孤独だって耐えられるはずだ。
「あの子が生きてるのはお前のおかげなんだから」
俺の崩壊しかけの理性にあいつの言葉がトドメを刺した。
ああ。なんでお前は心の奥底に鎮めてた、どす黒い思考を優しく引き揚げるんだ。
俺の中に僅かに残る人間の部分が、あいつの言葉に耳を貸すなと必死で叫んでいるが、悪魔の部分の俺に殺されたのを感じた。
ああ。俺はもう人間には戻れないんだ。
「……そうだよな。向日葵様が生きてるのは俺のおかげなんだから。
……向日葵は俺の物だよな」
俺の言葉を聞いた男は、この世のものとは思えない笑顔を浮かべた。
「ああ!そうだよ!その通りだよ!晴!よく気づけたね!父さんは嬉しいよ!」
……ああ。もういっか。全部この人の言う通りにしたら。
なにかあっても俺の意思じゃないから。俺のせいじゃない。
全部この人のせいだ。
自分の意思で。自分の責任で。なにかをするのはもう疲れた。
向日葵様を守るために自分の意思で殺した、実の父親の死に顔を思い出した。
この男が持ってきた人間を俺は貪り食った。
「……犬みたいだな」
蔑別の眼差しで見られているのを感じたが、目の前のご馳走様の前ではなにもかもどうでもよかった。
さっきまでずっと脳裏にいた向日葵様も綺麗さっぱり消え去って、目の前の欲を満たすことしか考えられなかった。
血に塗れた床の上で、僅かな肉も残すまいと必死に骨までしゃぶる俺は
「美味しかったかい?」
まるでペットの犬にするかのように、頭を撫でられた。
酷く尊厳を踏み躙られる行為なのに、そんなことはどうでもよかった。
「……もっと……もっと食いたい……」
「まだまだあるからね。たくさんお食べ」
結局男が持ってきた五人の人間、全てを食べてしまった。
「うぅ……ぐすっ……うぅ」
俺は子どものように咽び泣いてしまった。
「あれ。足りなかったかい?もっと殺して持ってこようか?」
「違います。腹はいっぱいです。
……でもこんなこと人間のすることじゃないじゃないですか!!」
「なにを今更。まだ人間を気取ってたのかい?」
「あんたにだって俺の気持ちはわかるだろ!?どんどん人間じゃなくなっていく化け物の気持ちが!!」
「……分からないよ。俺は生まれつき化け物だからね」
「え……」
「まあ。そんなことはどうでもいい。早く行っておいで。向日葵もきっと晴が来るのを待ってるよ」
「……やっぱり行けないです」
「はぁ?」
「こんな化け物には向日葵様を一目見ることすら許されないです」
「……今お前に食べられた人間達はなんのために死んだんだろうな?」
「それは……」
「好きな女に会いに行きたいなんていうひどく自己中心的な欲求のために、豚のように貪り食われたあげくに、それすら、はい。止めた。ってそらないよな?」
「で、でも……」
「でもじゃないだろ。もう子どもじゃないんだ。行ってらっしゃい」
「……い、行ってきます」
俺はまた考えるのを放棄した。
「ああ。行ってらっしゃい。今住んでる場所は以前と変わっていないようだ。覚えているだろ?」
「……はい」
忘れられる訳がない。
何度あの場所に戻りたいと焦がれただろう。
その度に死にたくなって。でも死ねなくて。
ああ。やっと。やっと会えるんだ。
これで絶対に最後にするのでどうか一度だけ許してください。
そうやって必死に言い訳をしながら、俺は全速力で向日葵様の元へ向かった。
向日葵様が他の男の物になってしまう前に。
一目見るだけでもいいから。
貴方に逢いたい。
向日葵様の家に着いた。
列車のような速さで山道を走ったのに息切れ一つしない自分。
また化け物になった事実を突きつけられた。
物陰に隠れて、向日葵様が来るのを待った。
三十分程経っただろうか。
向日葵様がお供も付けずに一人で歩いてきた。
ああ。向日葵様だ。
やっと。やっと会えた。すっかり大人になられて。
でも一目で貴方だと分かります。
あの頃と変わらず、貴方は俺の世界の中で一番綺麗だ。
容姿はもちろんのこと、太陽のように輝く瞳。使用人にも対等な立場で接する優しさ。辛いことがあっても決して挫けず。常に前を向いているところも。
彼女の全てが美しい。
……もう充分だ。
最後にもう一度だけ貴方に逢えてよかった。
見たところ病気に罹ったりもしていなさそうだし。
……これで心残りはない。
今この目に貴方の姿を焼き付けて。
これからなにがあってもそれを励みに生きていこう。
…………もう帰ろう。
これ以上向日葵様を見ていたら、どんどん欲が出てきてしまいそうだ。
……本当はずっと側に居たい。
側で向日葵様を一生守らせて欲しい。
でも守るべき立場の俺が一番、向日葵様にとって危険だから。
もし向日葵様を食べてしまったら、不死身の化け物になって、実の父親まで殺した意味がなくなってしまう。
向日葵様を守るためだったという大義名分が失われたら、俺はきっと自分の罪の重さに耐えられない。
尊属殺人を犯した俺は本来なら死刑になるべきなのに、不死身になったせいで罪を償うことも出来ない。
さよなら。向日葵様。
どうか貴方の人生に少しでも多くの幸せが訪れますように。
向日葵様に背を向け歩き出した。
十歩程歩いた時だった。
「……晴?」
俺の名前を呼ぶ、向日葵様の声が聞こえた。
いや。そんな筈ない。
向日葵様と俺の距離は百尺(約30m) 程は離れているし、背も伸びて面影なんて殆どない男の後ろ姿だけで俺だと分かるなんて、そんな都合の良いことある筈ない。
きっと幻聴だ。
そうだ。そうに決まってる。
早く。早く帰らないと。
……だけど俺の足は棒切れのように動かなくなってしまった。
ずっと止まっていたら怪しまれるだろ。
動けよ。俺の足。
次の瞬間、絹のような黒髪が俺の視界の端で揺れた。
「やっぱり晴じゃない!!……やっと。やっと逢えた」
「ひ、向日葵様……」
他人のふりをしてやり過ごすべきだったのに、つい無意識に反応してしまった。
「今までどこに行っていたのよ!!
私が独りでどれだけ大変だったか分かる!?」
「も、申し訳ありません……」
「……もう良いわ。生きててくれたから」
「……向日葵様……」
「こっちに来て」
向日葵様に手を引かれるまま歩き出す。
本当はこの華奢な手を振り払ってでも、向日葵様の側を離れるべきだろう。
でも向日葵様にそんな無礼なことはできない。
……いや。そんなのただの言い訳だ。
俺は少しでも長く、向日葵様と一緒に居たいだけだ。
「……ここは」
向日葵様の家のすぐ裏の狭い路地に連れてこられた。
「こんなに狭い路地だったんですね」
「子どもの頃は両手を広げても余裕があったのに、今じゃ通るので精一杯ね」
「本当ですね……」
「私が習い事から逃げたい時、よくここに隠れたわよね」
「その度に怒られるのは俺だったんですからね」
「あら。私だって怒られたわよ」
「向日葵様がそんなことを言えるのは、俺が怒られてるところを見たことがないからですよ。
本当に怖かったんですからね!!」
「ふふふ。それは悪かったわね」
「……本当に思ってます?」
「思ってるわよ。誠心誠意謝罪するわ」
「本当ですか?……まあ、いいですけどね。今となってはどれも色褪せて欲しくない思い出です」
「……そうね」
風が向日葵様の家の方に吹いた。
つられて視線を向けると。
あの頃の俺たちが確かにそこに居た。
分かってる。これはただの幻に過ぎない。
でもいっそのこと、あの幻に沈んでしまえたらいいのに。
俺が叶うはずのない願いに呑み込まれそうになっているのを、向日葵様の鈴のような声が引き上げてくれた。
「そうだわ。今はどこに住んでいるの?食べる物には困っていない?冬はちゃんと身体を暖かくして寝てるの?晴はどれだけ寒い日でもいつも、布団蹴飛ばして寝てたでしょ」
「ふふふ」
「なに笑っているのよ?」
「向日葵様。俺はもう子どもじゃないですよ」
「そんなの分かっているわよ!!ただ私は心配で!!」
「ご心配いただきありがとうございます。
ですが大丈夫ですよ。なんの不自由もしていません」
向日葵様に心配をかけたくなくて嘘をついた。
本当は生きてること自体が不自由で仕方がないのに。
「本当?それならいいのよ。
それでどこに住んでるのよ?少なくともそれを聞くまでは絶対に帰してあげないんだからね!!」
そう言って向日葵様は俺の右腕に抱きついてきた。
「ひ、向日葵様離れてください!!」
「嫌よ!!離れて欲しかったら今住んでる場所を言うの!!」
「……申し訳ありません。訳あってお教えできないんです」
「なんでよ!?そんな事言ってまた私の前から居なくなるつもりなんでしょ!?」
「……申し訳ありません。……ですが向日葵様ご結婚されるんですよね」
「なんで知って……」
「風の便りで聞きました。心よりお祝い申し上げます」
「本当に?本当に私の結婚を心から祝えるの!?」
「……はい。主人の幸せが使用人の幸せですので」
「私が他の男と結婚しても、悔しいとか悲しいとかそんな気持ちは僅かにでもないって言うのね!?」
「……はい。ございません」
「……晴のばか」
「……申し訳ありません」
俺の胸にしがみつく向日葵様を、ただ抱きしめることしか出来なかった。
そのまま十分程経っただろうか。
向日葵様の家の方から物凄い物音と、女性の悲鳴が聞こえてきた。
「……泥棒ですかね?」
「晴はここで待ってて」
「向日葵様まさか家に戻られるつもりですか!?」
「……大丈夫。物を壊したのが誰かは検討がついてるから。心配だと言うならここから様子を見ておいて」
向日葵様は柵に開いた小さな穴を指さした。
その穴を覗き込むと、ちょうど向日葵様の家が見えた。
「ここで待ってて。私の命が危ないと思ったら助けにきてちょうだい」
「しかし……」
「いいから。待っててね」
向日葵様は走り去ってしまった。
物音に心当たりがあると言っていたが一体なんだろう。
よく走り回る犬でも飼っているのだろうか。
本当は今すぐ帰った方がいいだろう。
これ以上いると、向日葵様とどんどん離れ難くなる。
でももし泥棒でも入っていて、向日葵様の身に危険が迫ったら、今の俺ならこの距離なら一瞬で助けに行けるはずだ。
……ここで様子を見ておいて、大丈夫そうだったら戻ってくる前に帰ろう。
俺がどうするべきかを考えていると。
「未来の旦那を待たせて、どこをほっつき歩いてたんだ!!親も後ろ盾になる親族もいない。結婚持参金も用意できない、醜い火傷を負った価値のない女を誰が嫁にしてやると思ってるんだ!!」
男のとてつもない大声が聞こえてきた。
慌てて穴から向日葵様の家を見て、耳を澄ました。
「……申し訳ありません」
向日葵様の震えた声が聞こえてきた。
「俺がいないと生きていけないくせに!!」
男がそう言うと、向日葵様の顔を拳で思いっきり殴った。
咄嗟に助けようと身体が動いたが、なけなしの理性が動きを止めた。
俺が今この瞬間、向日葵様を救い出すのは簡単だ。
でもその後は?
一緒に生きていけないのに、無責任に助けてその後向日葵様はどう生きていけばいい?
悔しいけどあの男の言うことも一理はある。
両親も親戚もいない向日葵様を妻に望む家は殆どないだろうし、女性が一人で生きていける程この社会は甘くない。
俺には全く気にならないけど、向日葵様があの夜負ってしまった火傷はかなり重度のものだ。
見た目の美醜を女性の価値だと思っているような男からは、結婚相手として望まれにくいだろう。
責任も取れないくれに中途半端な同情心で助けても、余計に向日葵様を困らせる。
俺は血が出るほど両手を握りしめて、向日葵様が俺の元に戻ってくるのを待った。
約一時間後、向日葵様が帰ってきた。
全身痣だらけで目を背けそうになる。
でも駄目だ。そんなことしたら余計に心を傷つけてしまう。
「……向日葵様……」
なんて声をかけていいのか分からず、名前を呼ぶことしか出来なかった。
「……ちゃんと見てた?」
「……はい。お助け出来ず申し訳ありませんでした」
「そんなことはいいのよ。……ただ抱きしめて」
向日葵様が俺の胸中に飛び込んできた。
「……向日葵様」
向日葵様を繊細な硝子細工に触れるように優しく抱きしめた。
少しでも力を強めたら壊してしまいそうだ。
なんとも言えない沈黙が二人だけの空間に流れる。
いっそ今この瞬間で世界が止まったら、未来のことなど考えずただ向日葵様を抱きしめていられるのに。
そんなあり得ない馬鹿げた空想を壊したのは、向日葵様の言葉だった。
「…………ねぇ。晴。私を連れ去って」
「……それはできかねます」
「お願い!!貴方に配偶者や意中の相手がいるというなら、絶対に邪魔しないから!!」
「……そんな相手はおりませんが……」
「炊事に洗濯、家事なら一通りできるわ!!お願い!!絶対に迷惑かけないから!!」
「……申し訳ありません。連れていけないのは俺の問題なんです。向日葵様は何も悪くありません」
「……貴方の父親が謀反をおこしたから?
貴方は悪くないじゃない。それに十年も前のことよ?
そんなに気になるなら私達のことを誰も知らない場所で二人で生きていけばいいわ。そうすれば過去なんて関係なくなるでしょ?」
「……それだけが理由ではないんです」
「……せめて理由を教えてちょうだい。貴方にとっては大きな問題でも私には気にならないことかもしれないじゃない。
ほら晴は昔から気にし過ぎなところがあったから」
「……申し訳ありません。理由も言えないんです」
人を喰らう化け物になって、向日葵様を食べてしまうかもしれないから連れていけないなんて、とても言えない。
向日葵様に化け物を見るような目を向けられたら、俺はもう生きていく自信がない。
「……どうしても?どうしてもダメなの?」
「……はい。申し訳ありません」
「……他でもない私がこんなに頼んでいるのに、断るっていうのね!?」
「……はい。本当に申し訳ありません」
「……もう。いいわ」
向日葵様は下を向きながら、もと来た道へと歩き出した。
あんな暴力男が待つ家になんて、帰したくない。
俺が向日葵様と一緒に暮らせたら毎日優しくするのに、あの男はなんで向日葵様にこんな仕打ちができるんだ。
世界で一番美しい女性と結婚出来る、世界で一番幸せな男だというのに。
その幸せに感謝をするどころか、自らの行いで壊そうとする。
俺なんかよりあいつの方がよっぽど化け物なんじゃないか?
……いや。それは違うよな。
あの男の行動がどれだけ非人道的だろうと、実の親を殺した不死身の人喰い化け物ほどではないだろう。
俺みたいな化け物なんかよりは、認めたくないけどまだあいつの方がまだ……。
だから俺には向日葵様の手を取ることはできないんだ……。
「……ん……やる」
「向日葵様なんと仰いましたか?申し訳ありません。
うまく聞き取れなかったのでもう一度仰って頂いてもいいですか?」
「……死んでやるって言ったのよ!!」
向日葵様は髪に刺していた簪を外し、自身の首に突きつけた。
「……向日葵様!!お止めください!!」
「ずっと!!ずっと!!
もう一度、晴に逢えるかもって頑張って生きてきたけど!!肝心の晴がそんなんじゃもう生きてく意味もないじゃない!!」
「向日葵様。どうか落ち着いてください」
「落ち着いたってなにも変わらないじゃない!!
あの夜だってそうだった!!いっそあの夜に皆んなと一緒に死んじゃえばよかった!!」
……俺は不死身の化け物になってまで貴方を助けたのに。
向日葵様がお辛いのは分かる。
……でも。でも。それだけは言ったらいけないだろ?
「……今なんて言いました?」
「は、晴。ち、違うの!!今のは本心じゃ!!
ただ今の生活が本当に辛くて……。
晴と一緒に居たいだけなの……」
向日葵様は捨てられた仔犬のような瞳で俺を見つめてきた。
ああ。もう。
俺と向日葵様は一緒に居たらいけないのに。
そんな目で見つめられたら、一緒に居てあげたくなってしまう。
「……俺と一緒に来てなにがあっても後悔しませんか?」
「うん!!しない!!
晴と一緒にいられたらそれだけでいいの!!」
俺は卑怯者だ。
化け物だということを隠して、後悔しないと約束させて。
自分にとって都合の悪い部分を隠した約束なんてなんの意味も成さないのに。
向日葵様のことを思うなら今すぐに向日葵様以外の人間を食べて、俺と一緒に居たいなんて思えないようにするべきだ。
……でもそれだけはしたくない。
向日葵様の中でだけでも俺は人間として生きていたい。
「……分かりました。一緒にいきましょう」
「本当!?やっぱり止めたなんて許さないからね!!」
「はい。本当ですよ」
今日向日葵様のことを一度も食べたいとは思わなかったし、大丈夫だろう。
あの日は悪魔になったばかりだったから、あれだけ腹も減っていたんだ。
「向日葵様は一度言い出したら何を言っても折れませんからね。諦めます」
「むっ。なによその言い方は!!
晴は私と一緒にいられて嬉しくないの!?」
「……嬉しいですよ。嬉しいに決まってるじゃないですか」
「晴……」
向日葵様には俺の気持ちの欠片も理解っていないだろう。
俺が今どれだけ幸せか。
向日葵様にどれだけ会いたいと思い続けてきたか。
「そうと決まれば早速行きましょう!」
「分かりました。荷物をまとめてきてください」
「そんなことしてたらバレちゃうでしょ!
その間に晴が逃げないともかぎらないしね!」
「逃げませんよ。向日葵様の方こそなにが起きても逃げないでくださいね」
「逃げないわよ!ずーっと一緒だからね!」
「はい。ずっと一緒ですね」
もう何があっても離してあげない。
向日葵様は永遠に俺のものだ。
家の近くで馬車に乗り、向日葵様と二人で帰った。
一人で走れば数時間の距離だが、馬車だと三日かかった。
だけど全く苦ではなかった。
あと少し近づけば、触れられる距離に向日葵様がいる。
その事実に胸がじんわりと温かくなる。
「ふぁ〜あ」
「眠たいですか?眠ってていいですよ」
「……逃げない?」
「逃げませんって。俺信用ないですね」
「過去の行いを振り返ってみなさい」
「……はい。すみませんでした。じゃあ俺の膝を枕代わりにしますか?そうすれば逃げようにも逃げられないでしよう?」
まぁ、向日葵様は一度眠るとまず起きないから、正直膝枕をしても逃げようと思えば逃げられるだろうけど。
でも俺は向日葵様と生きていくと決めたから、絶対に逃げてあげない。
「……じゃあお願いね」
向日葵様が俺の膝に頭を乗せて寝転んだ。
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
向日葵様の寝顔を見て、ただただ愛おしいなと思った。
これからはこんな穏やかな日常を過ごしていけるんだ。
向日葵様の寿命が尽きるまで、俺は向日葵様の側にいよう。
「おかえり」
「……はい」
あの男がまるで息子の帰りを待っていた、父親のような顔で出迎えてきた。
「晴。この人は?」
「えっと……」
なんて説明すれば良いだろう。
「親代わりみたいなものだよ」
悪びれもなく嘘をつく男に、また一つ嫌悪感が募った。
「そうなんですね!これまで晴のこと支えてくださってありがとうございました!」
「大したことはしてないよ。たまに食糧を持ってきたりしたくらいさ。
それに晴は食わず嫌いが酷くてね。ついこないだ初めて食べてくれたんだよ」
「そうなの?晴。食わず嫌いはよくないわよ!」
「……はい。申し訳ありません」
「あはは。子どもみたいで面白いな。やっぱり嘘ついてけしかけて正解だった!」
「……嘘?」
「お嬢さん。結婚する予定だったんだよね?結婚後に引越す予定はあったかい?」
「い、いいえ。あの人は私の家と土地が欲しかっただけなので、結婚しても住み続ける予定でした」
結婚したら遠くに引っ越すと聞いたから、逢いにいったのに!!
男を必死で睨んだが、逆に楽しそうな顔をされてしまった。
「そうか。そうか。
まぁ、今となってはそんなことどうでもいいよね?
僕はあまりこの家にいないし、新婚生活楽しんでくれ」
「「し、新婚……」」
婚約者から逃亡している訳だから、籍をいれる訳にはいかないけれど、この状況はたしかに新婚みたいなものか。
向日葵様を助け出すことに必死になっていたからそこまで考えが及んでいなかったけど。
意識しだすと嬉しいとか。照れ臭いとか。色んな感情がごちゃ混ぜになる。
「それじゃあ。僕は出かけるよ。またね」
「はい!またお会いできる日を楽しみにしてますね!」
「あはは。ありがとう。僕も楽しみだよ。
晴もまたね。次帰って来る時はご馳走たくさん用意して帰ってくるから」
その言葉に向日葵様に会いに行く前に食べた人間の味を思い出し、涎が垂れそうになるのを下唇を噛んで必死に堪えた。
「……俺も楽しみにしてます」
本当はこんな事言いたくはないが、機嫌を損ねて食糧を持ってきてくれなくなると困る。
この男が持ってきてくれないと、俺は罪の無い人を殺して食べないといけない。
人殺しだけはもう二度としたくないんだ。
人殺しも人喰いも大差ないのかもしれない。
それでもその僅かな一線だけは、もう二度と越えたくない。
「ああ。そうだ。晴に一つ言っておかないといけないことがあるね。向日葵は少し席を外してくれるかな」
「分かりました!晴。向こうで待ってるね!」
「はい。少々お待ち下さい。すぐに向かいますので」
「ゆっくりお話ししなさいよ。お世話になった人なんでしょ。私のことはいいから」
そう言って向日葵様は走り去ってしまった。
「お言葉に甘えて、ゆっくり談笑でもするかい?
親子らしくさ」
「さっさと話して出て行ってください」
「早く向日葵と二人きりにしろって?連れ込んで初日に営むのは父さんどうかと思うぞ」
「な!?そんな事する訳ないでしょ!!」
「よく知らないがお前くらいの歳の男はそういう事で頭がいっぱいなんじゃないのか?」
「そんな汚い感情、向日葵様に抱いていません!!」
「汚いねぇ。その汚い感情が無ければ俺もお前もこの世にはいない訳だけど。
まあいいや。向日葵をどうしても食べたくなった時のためにアドバイスしてあげよう」
「アドバイス?」
「西洋の言葉で助言という意味だ。相変わらず君は西洋に疎いな」
一歩ずつ近づいてくる男に咄嗟に逃げたくなるが、身体が硬直して動かなかった。
俺の目の前に立ち、右耳に口を近づけて呟いた。
「どうしても向日葵を食べたくなったら、食以外の欲を満たせ」
「……食以外の欲って……」
「子どもじゃないんだ。分かるだろ?」
ただ見つめられているだけだというのに、蛇に首を絞められているのかと思うくらい息が詰まった。
きっとこの男が言う他の欲とは、先程までの会話に出てきた汚い感情をさすのだろう。
そんな感情を向日葵様に晒すくらいなら、俺は向日葵様の前から姿を消す。
「……分かりました。助言ありがとうございます」
「アドバイスね。アドバイス」
男は機嫌よく屋敷を去っていった。
男の機嫌を取るために了承しただけで、実際にそんな感情を向日葵に見せるつもりはない。
『本当に?』
男の声が聞こえて咄嗟に振り向いたが、誰もいなかった。
幻聴か?
あの男の特殊能力じゃないだろうな?
不死身の悪魔なんだ。
他人に幻聴を聞かせるくらい、簡単にやってのけそうだ。
もしそうじゃないなら……俺の心の声?
いや。まさか。そんなはずない。
あの男の特殊能力だ。そうに決まってる。
俺は急いで向日葵様の元に向かった。
汚れなんて一つもない彼女の笑顔を見て安心したかった。
俺がどれだけ薄汚れた男だろうと、彼女の笑顔を汚すことなんてできるはずもないんどから。
「おかえりなさい。晴」
向日葵様の太陽のような笑顔を見て、心が落ち着いた。
大丈夫。大丈夫。俺にこの笑顔を汚すことなんてできるはずもない。
「ただいま帰りました。向日葵様」
返事をすると、向日葵様は真っ赤になって俯いてしまった。
「……向日葵様。お加減が優れませんか?」
まさかあの男が向日葵様に何かしたのか!?
「だ、大丈夫よ!!ただ……。こうやっておかえりとただいまを言い合うと、本当に夫婦になったみたいだなぁって」
「な、何をおっしゃるんですか!!そんなこと万に一つもあり得ません!!」
「……私はそんなに晴の好みじゃない?」
「好みに決まってるでしょうが!!」
「は、晴……?」
「あ、いや。そうじゃなくて!!じゃない訳でもないんですけど!!つまりそのあれです!!俺ごときじゃ向日葵様とはとても釣り合いがとれないという意味です」
「……再開してからずっと気になっていたのだけど、その呼び方と言葉遣いやめて欲しいわ」
「な!?そんなことできるはず!!」
「貴方の雇い主はすでに亡くなっているし、私は貴方になにもあげられないわ」
「そんなの……。俺は向日葵様が笑っていてくれたらそれだけで充分です」
「晴……。
そ、それなら尚更だわ!たった一人の同居人からそんな腫れ物のように扱われてたら、息が詰まってうまく笑えないもの!」
「し、しかし……」
「しかしじゃないわよ!!ほら向日葵って呼んでちょうだい」
「……ひ、向日葵……」
「なぁに。晴」
「はあ」
「ちょっとそんなに大きな溜息つくことないじゃない!!そんなに嫌なの!?」
「違いますよ。……幸せすぎて困ってるんです」
「幸せなら困らなくていいでしょ。これくらいの幸せこれからは当たり前になるんだから」
「そうですね」
「……私が治せと言ったのは呼び方だけだったかしら?」
「し、しかしですね。物事には順序というものがあってですね」
「早く!」
「……わ、分かったよ。向日葵」
「分かればいいのよ。分かれば」
向日葵は再開してから一番楽しそうに笑った。
「もう今日は休もう。ずっと馬車に乗ってて疲れてるだろ?」
「ええそうね。買ってきた食材で夕食を作るわね。晴はその間にお風呂に入ってて」
「なにか手伝うよ」
「晴。料理できるの?」
「それは……」
人間だった頃は母さんかお手伝いさんが作ってくれていたし、悪魔になってからは生肉しか食べてないから正直出来る気はしない。
「気持ちだけで充分だから、晴はお風呂に入ってきて」
「でも……」
「いいから!!」
「……はい」
少しでも向日葵の役に立ちたいが、料理に不慣れな俺が下手に手伝おうとしても逆に迷惑になるだけだろう。
大人しくしていよう。
せめて風呂は快適に入れるように、花でも摘んできて湯船に浮かべるか。
向日葵は昔から花が好きだから。