千里の道も一歩から
テレビを見る。
笹生優花が全米女子オープンに、二度目の優勝。
新聞を読む。
地域のために頑張っている人たちのことが載っている。
政治家や経済人、芸能人など、有名な人もいろいろと頑張っている。
新聞小説も面白い。エッセイも、毎回よくネタを見つけて上手に書けるものだと感心する。
ああ、自分は何をやっているのだろう、と情けなくなる。
毎日、自宅から半径五キロメートル以内で、買い物したり銀行でお金をやりくりしたり、犬の散歩をしたり食事の支度をしたり掃除をしたりして一日があっという間に過ぎていく。
たまに思いついたことを投稿しても、いずれは忘れ去られる部類のものだと思えば、なんだか哀しくなる。
白鳥は、滑るように優雅に水面を渡るように見えるが、実は水中では必死に水を掻いている。
よくそうたとえられるが、一芸に秀でた人、リーダーとなる人は、並々ならぬ努力をしている。にこやかに謙遜する裏には、血や汗のにじむ思いが隠されている。
大した努力もせず、日々のんべんだらりと過ごしていて、人の成功をうらやむのは、ひがみというものだ。そうわかっていても、自分の存在意義はどこにあるのかと思うと、猛烈に情けなくなる。
わたしはどこで道を間違ったのだろう。
何度か、チャンスはあったはずだ。
適切なアドバイスをくれなかった親。
うまいこと言って結婚して、家庭を顧みなかった夫。
わたしの時間を当然のように奪った子どもは、もうわたしを振り返りもしない。
だが本当はわかっていた。
そのたびに、安易な方の道を選択したのは自分自身だ。それがこの結果だ。
悔やんでも悔やみきれない。もう少し、何かできるはずだったのに。
今さら何を始めても、体力が足りない。時間が足りない。
しかし、やっと気づいた。
嘆いたり恨んだりしている時間がもったいない。
始められることから始めよう。
まずは、自分が幸せを感じること。充実感をつかむこと。没頭できることを見つけること。
自分が幸せになれば、人に優しくなれる。
人に優しくなれたら、人からも優しくしてもらえるようになる確率が高くなる。自分の周囲は居心地がよい場所になるだろう。
そして、その中にいる人たちが同じように人に優しくなると、住みやすい地域になるだろう。
年取ってからは、住みやすい地域に住み続けることが幸せだと読んだことがある。
そういう地域で、自力で生きていけるなら、たぶんストレスが少なくて、健康に長生きできるだろう。
長生きできるなら、これまでの遅れも取り返せるかもしれない。
葛飾北斎は、九十まで生きたが、「あと十年、いや五年の命を与えてくれれば、本物の絵描きになることができるのに」と言ったという。
あの天才にしてこのような言葉。
伊能忠敬は、五十歳から天文学者に弟子入りし、五十五歳から十七年間、日本全国を歩いて測量した。
そんな偉人たちを知ると、勇気が湧いてくる。
人間の幸せが何かは人によっても違うだろうし、決めつけることはできないが、人間というのは他の人間からの承認欲求が非常に強い生き物であることは確かだ。集団で生きることで力を発揮するヒトという種は、承認しあうことで結びつきを高めるのだろう。
だれもが、すごいねとほめられたい。
ほめられて嫌な思いをする人は、まれにはいるかもしれないが、まあ、ほとんどいないと言ってもいいだろう。
たまに、承認欲求が悪い方向に向かうこともある。
でも、人間に組み込まれた良心は、元来、種を存続する方向に働くものだろう。
できるなら人の役に立ちたい、人に喜んでもらいたい。
でも、自分のことも大切にしたい。
自分のやりたいことをしながら、人の役に立つのが最高だ。
いつもうまくいくわけではないけれど、だいたいその方向で。
今日が新しい一歩。