六章「城街案内」
少し長いです。お付き合いいただけると幸いです。
六章「城街案内」
紅葉の美しい季節。清流を乗せた燻の車は、山並みを抜けてハイウェイを走っていた。
サングラスがやけに似合う燻の口の端には、生意気なことにタバコが差し込まれていて、片手でハンドルを操作する姿は、男が見惚れるかっこよさ。
国産のハイエンド「サクラ」という車で、車体は紅に染め上げられていた。桜色の花びらのマークが逆に薄く、車体のワンポイントになっていた。
待ち合わせの場所に行くと、知らない人でも声をかけたくなるくらいスタイルのいいポーズで、短いスカートが黒のストッキングに包まれた脚を主張していた。赤いタートルネックにベージュの革ジャケットを着ていて、高そうだなあと思いつつも、さりげなさを装い、声をかけた。
清流は白いニットに父の持ち物だったフランス製のウールのダッフルコートを羽織って、ジーンズを履いていた。
どちらかというとお坊ちゃま風の格好で、燻の主張の強いファッションからすると、遠慮気味だった。ただ、燻はその清流の服装をいたく気に入ったようで、満足気に助手席を開けて清流を車に乗せて、自分も運転席についた。
最初のテストを終えた二人の秋期休暇。燻の故郷の城街を目指す、高速道路の道中。カーステレオは気の利いた洋楽を流していた。
かっとばしてった道中に落ちていくタバコの吸い殻
微塵も感じられない罪悪感
灰ですら僕の生きた証になる
何も始めないことが正解なんだ
だから、君にはもう会わないんだ
全て無駄
意味なんてない
でも僕はそれでも消えていく一つ一つを記憶しようと思うよ
記憶しようと思うよ
嫌なことも楽しかったことも
記憶しようと思うよ
だって僕は最初から
意味なんて求めていないんだから
燻は低い声で歌詞を訳していった。その最初のタバコを吸う男性に自分をかけていることはすぐわかったが、燻が作り出した口の端のタバコを吸う姿は、洋楽の歌詞の中の男性のイメージとは異なっていた。
「久々に帰るの」
燻は前を向きながら話し始めた。
清流も前を向きながら、視線だけ燻の横顔によこした。
燻の白磁のような肌が目につく。唇はマグロの大トロのようにテカテカしていて、弾力がありそうだった。少しグロスを垂らしているのかもしれない。清流にはそのあたりの詳しいことはわからない。
時速百二十キロで走る車に景色は楽しむ暇もなく、言葉すら慣性が働かず背後に置いてかれてしまう。
「久々に帰るの」
燻は繰り返した。
「私の住んでいた場所は『伯羅』。中心都市『新府』の隣町。新府へはよく遊びに行っていたけど、でも新府のことは実はあまりよくわからなかってなかった。伯羅は若者も街と言われていて、でも結構住宅地も多くて、私は、日本で最も有力な人たちが住む伯羅に、生まれて育ったの」
燻は歌詞のようにタバコをポイ捨てするのではなく、吸い殻を車の灰受に入れた。
「父は経済学者、母は小説家。でも私は、彼らから何も受け継ぐことはなかった。友達と遊び歩いて、勉強もしないで、楽しく愉しく暮らしていた。知ってる? 城街の大学は古都の大学より入るのが簡単なの。……お金さえ積めば学位なんてちょろいもんよ。私だってその気でいた。勉強なんてするのはまっぴら御免だった。最初はね」
燻の唇がかすかに歪む。柔らかい唇の半分のところを、歯で噛んだ。
「あるいは、日本で一番学力が高いとされる、城神と呼ばれる大学が、何十倍の倍率で学生たちを蹴落としていく。父も母もその、城神だった」
うっすらと笑みが浮かぶのは、話していて自嘲してしまったから。燻はボトルホルダーに入れていたコーヒーを口にした。
「イギリスへ行ったのは十五の時。びっくりした。ホントみんな勉強するんだもの。よく考えるために本を読むし、よく生きるためにふるまいを整える。私だってそれなりに頑張った。でも、オックスフォードやケンブリッジに行くだけの、ひたむきさみたいなものは、私には最初から備わっていなかった。ありきたりで、傲慢な、ただの人だったと気づいたの。ねえ、峡谷の人のことを私たちは鬼と呼ぶでしょ? 古都の人は神とか。城街の人は、ただの人なの。特別であると思いたかった。特別であると思っていた。でも、そんなことないわ」
「一流と呼ばれる人の」
清流は言葉を挟んだ。
「一流と呼ばれる人の特徴は、一流の大学に行くことでは必ずしもない。確かにオックスフォードやケンブリッジには一流の学生が集まるのかもしれない。そして、その集まった一流の中に、大成する人が多いのもまた事実だと思う。燻はもしかしたら西条で不満なのかな。僕自身は、西条大に行くために、田舎から越してきたことを、すごく誇らしく思っている。もしかしたら西条大学は世界的に見て一流ではないのかもしれない。城神に遠く及ばないのかもしれない。でも、ここでなければ、僕は燻に会うことはなかったし、結局居場所というのは、つかむものではなく与えられるものなんだと思うよ」
「穏やかね」
「そうかもしれない」
「私はそんな穏やかな意見を、聞きたいわけじゃないわ。だってそうでしょ? 私がそのことで苦しんでいたら、みんなそうやって慰めてくれる。私を蔑んでいるから慰める。だからみんなそう言うの。堕落したのは君の所為じゃない。何も君が悪いわけじゃない。そして、誰も悪いわけじゃない。悪人さえも。そうやって本当は存在する格差を、知的な操作で隠してしまうの。私が気高く生まれたことも、低俗な人を慰めるために相対化されてしまうの。私は、あなたとは違うのって、言っていいと思わない?」
さっきとは違う歌が流れていた。
ありとあらゆるものが壊れている
ありとあらゆるものがまっさらなフェイスで沈黙している
ありとあらゆるものが触れられることを求めている
ありとあらゆるものがほかの何かになりたがっている
ありとあらゆるものが結局すべてだから
ありとあらゆるものが希望する変身はきっと叶えられない
ありとあらゆるものがものというカテゴリーを脱却する
ありとあらゆるものが世界から消える
ありとあらゆるものがガラクタだった時代がもはや懐かしい
ブレーキを踏んだ燻のサクラは、緩やかに減速して渋滞に捕まった。
「チッ、もう少しなんだけどなアッ」
燻はタバコのフィルターを噛み潰しそうになって、慌てて右手を添える。
「事故でもあったんじゃない?」
「だとしたら最悪ね。もしかしたら夜までかかるかもね。悪いわ」
「燻が悪いわけじゃない」
「今日は平日だから、夜になると下道も混むのよ。サイアク」
「燻って、そういうのが素なんだよね」
清流は可笑しさをこらえられず、くすっと笑った。燻の女子高生的な粗雑さとイラつきが、清流にはポイントが高かった。いつもは正統派ぶって格好つけているのに、地の精神年齢は年相応だった。
「今日ってご飯どうするの?」
「ホテルで食べたい? 私、地元でいい店たくさん知ってるから、案内しようと思ってた」
「燻は実家で寝るの?」
「私とホテルで一緒に寝たかった?」
「いや」
「いやって、少しくらい残念そうにしてよ」
清流は乾いた笑いでごまかした。
「伯羅のホテルを予約したの。昔そこは百貨店だったんだけど。壊れて消えちゃった」
「じゃあ、新しいんだ」
「そ。そゆこと」
「高いんじゃない? 予約はお願いしたけど、お金は払うよ」
「じゃあ、夜ご飯おごって」
「それで間に合ってるの? 僕が算数苦手だからって、バカにしないでよ」
「算数が苦手。そう。でも私よりはましよ」
燻は慣れたウィンクをきめた。ミラーに映る自分の顔を確かめて、納得の出来栄えだったらしい。満足そうににまにましている。
下道に降りるところで、そこに何の手がかりもない、清流にとって未知の風景が広がっていた。
今、自分の乗る車が走っている道は、城街の36号。そう燻は言った。
一番高いところから、螺旋を描いて下まで道に導かれる。ねじれながら他のハイウェイと重なって、十数メートルも低い城街へと近づいていく。
「城街というのは、ずっとずっと前に城壁があったことからつけられた名前。『城』という言葉は中国語で『城壁』とか『まち』とかいう意味があるから、一般名詞が転じて強い意味を持つ固有名詞になったんだと思う。私たちは、自分の住む町を『まち』と呼んでいるの。城壁は壊されて道路になった。それも、以前の話だけど」
「その城壁は高くて、広い範囲をぐるりと囲っていた」
「そう。最初の城街は開発が進んでいなくて、小さい範囲を囲っていた。城街の外に市が立つようになると、そこを住宅街が囲んで、それを城街が飲み込んで新しい城壁を築く。そして全てが終わった時、城壁は取り払われ、城街はよくできた迷宮になる。ミノタウロスも底知れぬ恐怖に襲われるんじゃない?」
燻はたまたま張られていた検問で、呼気の検査をした。
「お気をつけて」
警察の検問を抜ける。
坂が多かった。角度によってわずかに覗く中心部の高い政庁。近くに寄ったら到底上を見上げることはできないくらい高い。千メートル規模のビル群を遠巻きに、大きいけれど飽和した古びた駅のそばを通りながら、繁華街の中に入っていく。どの交差点もスクランブル式になっていて、信号待ちに時間が取られていく。でも燻は、気が急く様子もなく、その街の景色を愛おしそうに眺めて、自覚なく笑っていた。
「変わらない?」
「そうね。変わらないかな」
「嬉しそうだね」
「そう? そうでもないかな。わかんない。そうなのかも」
にははと無邪気に笑みを見せる。
「伯羅の駅」
燻が指さした。
一見したところ駅らしい建物はなかった。
「地下に伯羅は駅を埋めたの。そこの広場から下に降りるの。今、城街で地上に駅があるのは、さっきの新府の古ぼけた駅だけ。毎日五百万人くらい乗り降りするあの年寄りの駅は、改造するのも大変みたい。伯羅は広場ができて、そこが緑地化されて、いい匂いがする」
「好きなんだ」
「そう。好き。故郷だから。私の人生の全てを作ったの」
夕暮れの緑地には人がたくさんいて、楽しそうに散歩していた。
上空には飛行船が飛んでいて、街を照らし始めていた。
峡谷の明かりと似ていると思った。きらびやかな色のネオンが、街を装飾していた。峡谷と違うのが、本当に光量だけなのか、清流はにわかに判別することができなかった。でも確かにそこは「峡谷」だった。坂が急で谷になっている部分が、斜面にビルを生やして栄えていた。同じでもあり、全く異なるようでもある。そこは嫌いな場所ではなかった。さあさあと光の雨を降らす伯羅の街は、それとは逆の印象として、家族や恋人という人間のつながりを強く感じさせるところがあった。
「でもさ、なんか百八十度ひっくり返った感想だけど、人間関係が薄まっている気はするね」
「そうね。田舎者にはそれがわかるのかもね。だって、私の偏見かもしれないけど、田舎は力強い子供を育てるの。城街なんて精神病とマウンティングのメッカだからね」
「病気になるのはわかるな」
サクラは、伯羅の駅からほど近い街中の高層ホテルのエントランスに入る。
「あなたの名前で予約してある。それじゃ、一時間後ここのエントランスで」
「ありがとう、燻」
「私の家は裏をちょろっと行ったところだから。あんまり怖がらないで。私普通の人よ」
「どうだか」
「じゃあね。晩御飯楽しみにしている」
燻の運転するサクラは、いささかも音を立てずに、テールランプをネオンの中に溶け込ませて消えていった。
荷物をボーイに預け、チェックインをする。
通された部屋は、伯羅駅の円を描く緑地公園の深い緑を臨む三十階のスウィートルーム。
「燻は本当に計算ができないみたいだ」
清流は独り言つ。
古代の劇場を彷彿とさせる伯羅駅は、もうすぐその緑色を暗闇の中に沈め、放射状に中心から走る照明と、同心円状に広がる明かりが交差し増幅し、中心の点滅する光で、ブラックホールの特異点を表現するみたいだった。光が中心に吸い込まれていくように見える。
「こんなお遊びで満足するんだ」
清流はシャワーを浴びて、シャツに腕を通し、紺のキルティングコートを着た。
飛行船が窓越しに思いの外近く、大きく見えた。
エレベーターを降りる時に音楽が流れていた。
ポーンと音が鳴って、見ると八階で扉が開いた。真っ暗な廊下に明かりが一つだけあって、清流は乗る人がいないのかと、エレベーターの扉を押さえて顔を出した。
そこには人はいなかった。
エレベーターはゆっくりと閉まり、清流は一階に下りて、待合のソファに座った。
待合に置かれていた新聞を読むと、やはり戦争が近々起こるだろうことが報じられていた。徴兵や増税は避けられず、「文系的な無駄飯喰らい」をどうやって効率的に戦場へ運ぶかなんていう、かなり「気の利いた」社説が書かれていた。
清流は新聞なんて読まないし、徴兵されても日本のために死ぬなんてまっぴら御免だった。
「待った?」
綺麗系の女の子の可愛い声。そんな声をかけられたことは今までの人生で一度もなかったから、一瞬本当に自分に向けられたものかと疑った。
紺のダッフルコートに赤いマフラーを巻いていた。雰囲気が違ったのは化粧をしているから。肩までの髪を内にカールさせて、毛先はピンと張っていた。
「ホテルの部屋はどうだった?」
燻は何の気なしに聞いた。口ぶりが無頓着だったので、清流はその値段にかかわる異議申し立てや抗議をするのがためらわれた。
「お母さんがよく家で仕事ができないって言って、ここに逃げていたのが思い出されるわ。あれはひどく合法的な家出だったんじゃないかしら」
「今日はどこに行くの?」
「伯羅の裏手。パッとしない店が点在してるの。そのパッとしない日本料理屋さん」
「燻って、ホントに都会人だよね」
「褒めてる?」
「羨ましいとは思わないけど、何年経っても追いつけない気がする」
「それ褒めてる?」
「いや」
「ふう、いつかボコボコにしてあげなきゃいけないみたいね。行こ?」
燻は口を動かした。清流はゆっくりと立ち上がった。
腕を組むとか、手を重ねるとかそんなことはしないけれど、二人の間の物理的な距離は、確実に縮まっていた。
地下鉄の駅の近く。大きな公園のそばの商店街。商店街の横道に逸れると、何軒かレストランが並んでいた。その一軒の店に入る。
「あら、お嬢さん。ずいぶん久しぶりでございますね。お父様やお母様はお元気かしら?」
「さあ、多分元気にやっていると思います。今日は、大学で知り合った友達を連れて」
燻はダッフルコートを脱ぐと、オレンジのジップニットを露わにした。
御座敷に通されると、燻はまず一杯目にビールを注文する。
「お食事はどうします? お嬢さん」
「お任せで」
「それにしても、彼氏さん連れて来るなんて、お嬢さんもいじらしく長じなさって」
「友達です」
「はいはい。承知ですよ。今日はアンコウが入っていますから、鍋に致しましょう。まだそんなに大きくはないですけれど、牡蠣は生とフライで。刺身はやはりマグロがいいかしらね。スズキも焼きましょうか。お二人は若いものね、ご飯とお味噌汁もつけましょう。それから、お漬物も。ご飯とかお漬物なんかは、何回でもお替りして頂戴。お嬢さん、大人になられましたね。でもそうね。昔から大人でしたね」
「恐縮です」
燻は出てきたビールを清流のグラスにも注いだ。
チンと、グラスが重なる音がする。
「ここは静かだね」
「そうね。伯羅をイメージすると、よそ者はいつも伯羅のネオンがちらつく繁華街を思い浮かべる。でも伯羅は、本来住宅街だし、城街の長い歴史を紐解けば、ごくごく辺境でしかない。昔の有名な文学者が伯羅を田舎呼ばわりしたの。その時は笑っちゃった」
「あら、社長」
女将さんが、のれんをくぐってきた男性と若い水商売の女性を迎える。
燻と清流の座る座敷は、障子で区切られていたから、その顔は見えないけれど、燻は、その社長の心当たりがあるみたいだった。
水商売の女性の、カラカラとした笑い声が聞こえる。燻のフグのように膨らんだ頬が、ぷすっと音を立てると息を吐いてしぼむ。
「知ってる人?」
こそっと清流が聞く。
「まあね。気のいい人よ」
「はいはい、お嬢様。お兄さんも。最初はブリを醤油で煮つけて、これは圧力鍋で何時間も調理しましたから、骨も食べられますよ」
「ありがとうございます」
「燻は、ここが好き?」
清流は聞いた。
「そうね。中学生の頃からよく来ていた。美味しいし、でも、特別な思いはないかな。若い人もよく来るの。二十五、六くらいの。お金がものを言う世界だから、特別なことなんて何もない。人柄なんていくら良くたって、ここに来るのにお呼びじゃない人だっているわ。私はたまたまそうではないというだけよ」
「確かに知らないと経験できない世界だよね」
「清流は、気負いしてないね。私は、中学生の時はびくびくしていた」
「燻が堂々としているから、僕は安心しているんだ。堂々としているのが母親だったら、不安になったかもしれない。僕に姉はいないけど、姉が自信ありげに食事をしてるんだから、僕だってそれに倣うまでだよ」
「ふーん。姉ね……、まあ、なんでもいいけど」
「はい、生牡蠣です。まだ小ぶりですけど、美味しいですよ」
女将さんは小ぶりと言ったけれど、随分立派な牡蠣が、殻をつけて運ばれて来た。
「牡蠣、食べたことないな」
「今の世の中じゃ珍味になるかもね」
清流は燻がちゅるりと牡蠣を飲み込むのをまねて、牡蠣を口にした。磯の香りがした。満足気に牡蠣を食べる燻は、かなり舌が肥えているのだろう。清流に牡蠣の味はわからなかった。
でもその後出てきた刺身と牡蠣フライは、ご飯と一緒に食べると、わかりやすいくらいに至福だった。ついてきたお漬物もさっぱりしていて、塩気が少なくひんやりとした水気に清涼感があった。
「美味しそうね」
「すごくね」
「ご飯、大盛りよそってきましょうか?」
女将さんが気を利かせて覗いてくれた。
「私も」
「あらあら、大丈夫? お嬢さん太らない?」
「うっ、だ、ダイジョウブです」
「アンコウも来ますからね。お腹の容量空けておいてくださいませ」
「はーい」
店は、徐々に人を入れて、繁盛しているようだった。アンコウを食べる客はなかなかいないけれど、カウンターは満席で、若い女性の声、その女性を楽しませようとする年配の男性の声が、障子で阻まれてくぐもって聞こえてきた。
「スズキの焼き物。お待たせしましたね。ご飯も持ってきましたよ。お漬物も、たくさん食べてください。まだ高血圧を気になさる年齢ではありませんものね、羨ましい。アンコウの鍋の準備もできました。きっとアンコウの味噌が気に入られると思いますよ」
脂の乗ったスズキが口でうまみを放出する。悔しいほどに美味しかった。
ウニのような色のアンコウの味噌が、鍋に浮いていた。その一粒一粒が濃厚なスープを作る。
「アンコウ、私も食べたことないけど。どこで採れるんだろ? 深海の魚よね」
「僕は海のことは全然知らない。でも、美味しいよ」
「そうね。清流は、私のこと軽蔑する?」
「どうして?」
「金持ちの傲慢が見え隠れするでしょ? 私は都会に生まれたんだって自負が、気に入らなかったりしない?」
「燻は、それを自覚している。だから、僕は気にならない。でも、僕は燻と話していて、僕の故郷に何があったんだろうって、怖くなる時がある。意味あるものは何もなかったような気がする。学校もレストランも図書館も駅も、ここに来ると何もかもが新鮮に映る。その新鮮さがなくなる時が怖い。エレベーターの扉を押さえて開けることを学ぶのは、成長ではなくて忘却な感じがする。故郷の明かりが貧しいものに見えるのが、苦しくてたまらないし、苦しくなくなりつつある。それは嫌だ。軽蔑はしないよ。僕の問題を、燻にやつあたりして解決しようとは思わない。それは、全く意味のない、むなしいことだから」
レンゲでアンコウのスープを飲む。
温かくなってきたと、燻がジップニットのチャックを開ける、白くて薄い下着の縁がかすかに見える。
一通りの料理を食べ終えて、燻はカバンからかなりフェミニンな黒い扇子を取り出して、胸に空気を送った。
「お手洗いに行ってくるね」
そう言って、清流は座敷の外に出た。客がちらちらと清流を見る。品定めするような目が気に入らなかった。
お手洗いから帰ると、燻はもう会計を済ませ、帰り支度をしていた。「燻ちゃん」と社長から声をかけられて談笑しているのを見ると、清流はどこか胸が苦しくなった。燻の笑顔が、自分に向けられているものよりずっと自然な感じがしたから。慣れて違和感のない既製品の笑顔。そういう笑顔はきっと、自分の身を守るためにあるのだろう。燻に刻まれた都会の痕跡が、その傷跡が、痛々しくてたまらなかった。
「またおいで下さいね。お父様とお母様にもよろしくお伝えください」
燻は女将さんに深々と礼をする。その所作の一つ一つを身につけることが、燻を作り上げ、守り、鍛え上げてきたのだ。清流はどこのタイミングを切り取っても戸惑っていたし、幼さを痛感する時間が長かった。
「お腹一杯になった?」
燻は清流に無邪気に笑いかけた。
「うん。でも、おごるって言ったのに」
「いいの。別に、こんなの私のエゴだもん」
燻の笑い声が乾いて響いた。
「ここには川はないんだ」
「そうね。だから、私は古都に来た時びっくりした。水の清廉さってなぜか人を謙虚にするよね」
駅の緑地では、若者が自由に音楽をかけ、踊り、熱気をもくもくと空へ昇らせていた。ギターの弦を弾く音は新鮮だったし、彼らの服装は燻のものと同じように、こだわりがあった。ファッションが自己を投影していることに気づかずにはいられなかった。
燻は知っている曲を聴くと口ずさんだ。口笛を吹くし、楽しそうに体を揺すっていた。それが自然なふるまいだと思っている節が燻にはあったし、事実街の空気は燻の感覚を後押ししていた。でも、十数人が集まって、アイドルソングをかけて踊る姿や、優れた音響で人を惹きつけてギターを弾き、歌を歌う人たちのバックグラウンドを、清流は自分とは全く異なるものとして受け取った。もしかしたら燻は、実際に伯羅の駅の広場で芸術を試したことがあるのかもしれない。聞いてみることもできたけど、清流はそれを遠慮した。
「私クラフトビールが好きなの。ちょっと付き合ってくれない?」
「うん。いいよ」
伯羅の駅から電車に乗って、新府まで出た。
新府の雑然とした人垣の中をすすすっと抜けて、新府の雑然とした駅舎から離れた、苦心して建てられたであろう現代的な建築の中に、ビールを出すレストランはあった。
カウンター席で隣り合った。適当におつまみを頼んで、クラフトビールを飲む。清流はおいしくてビールをお替りした。おつまみも速いスピードで賞味され、アルコールは燻と清流の体をほてらせた。
「高校に行く時は新府を通っていたの。大きな本屋があって、そこで何時間も立って本を探していた。私にハマる本があるんだって信じてた。音楽とか、絵とか、そういうもの。どうやって楽しめばいいのかわからなかった。面白い本と思った本も、繰り返し読んだりはしなかった。こだわりがないの」
「垢ぬけてるんだよ」
「好意的に取ればね。でも、こだわりというのは、よい意味で諸刃の剣だから。長所でも短所でもありうる。そういうものに価値があるのだと思う」
「それは子供の考えだよ」
「なんだと」
清流の言い放った言葉に、燻は噛みついた。清流の横顔を見つめてにらむ。
「傑出した才能が、いびつな発達によって成立するとは、僕は思わない」
「どうして?」
「結局人間の能力というのは、世界に対する認識ではなくて、世界から認識された自己によって規定されるから」
燻は、タバコを取り出すと、苛立ちを隠そうともせず、何回も火をつけそこなった。咥えたタバコに火をつけると、深く息を吸い、肺で煙を味わう。
「世界から認識された自己?」
「時間によって陶冶された、世界にとっての価値」
「それならいびつな発達が、世界にとっての価値になるかもしれないじゃない」
「世界を知る点では、独特な感性による認識というのは確かに有利かもしれないよ。でもそれは世界に価値があるのであって、その子供に価値があるわけじゃない」
燻は、タバコをもみ消すと新しいタバコに火をつけた。
それは考える時間を作るためというより、むしろ頭を空っぽにして、何度も最初から理屈を組み立てていくために行われた燻の儀式だった。
「清流のそれは、きっとあなたが学校に通わなかったから打ち立てられた理論なんでしょうね」
「そうかもしれない。燻や燻の友達は、学校で世界を知るための競争をしていた」
「そうね」
「その競争を勝ち抜くためには天から、少なからぬ恩恵を授からなくてはならない」
「その通りよ」
清流は少しぬるくなったビールをくっと飲み干し、ぼんやりした頭で話を繋ごうとした。
「それって、燻が都会で生まれたから、その利点を最大限強調するための、一つのイデオロギーなんじゃない? いびつな認識が生活に有利だなんてこと、僕は一度も聞いたことないよ。幾重にも守られて、文明化されたコンテクストの中に天才がいるんだよ」
燻は首を振った。
「そんなことない。だって…………」
燻は言葉を継ぐことができなかった。息を吐き、体をよじらせ、カバンからティッシュを取り出すとはなをかんだ。コンパクトミラーで前髪を整え、口紅を塗り直した。視線は上下左右に散り、喉が二回鳴った。
「僕は、自分が世界に対して価値を生み出すとしたら、年少の時じゃなくて壮年になってからの方がいい」
「どうして?」
「だって、価値なんてすぐ忘れられてしまうよ。過去に拘泥したくない」
「潔癖な生き方ね」
「過去に拘泥したくないことが?」
「だって、人間の本質は記憶でしょ?」
「思考じゃないの?」
燻は、また一発喰らったとばかりに渋面を作った。清流が直観で話しているのがわかるだけに、燻は悔しかった。
「思考は、記憶に基づいている…………」
燻は論理だけで反論した。そこにさっきまで思い描いていた内実は、言葉の海の中に深く沈潜してしまった。
「思考するから記憶できるんだと思うけど。だって、何にも考えていなかったら、記憶なんて成立しようがない。思考は対象を自由に動かすことができる。それに、記憶が人間なんだとしたら、普遍的な価値を生み出した人が死んだら、その価値は永遠に失われてしまうの? そんなことない。無の世界にあった普遍的価値は、人を媒介にして、有の世界に顕現するんだ。僕は、そういう風に考えていた。そこに、記憶が介入する余地はないよ」
「多くの人が、記憶こそが人だと考えている。それを清流は間違いだと思うの?」
清流は自分の顔を燻が見つめているのを感じながら、素朴に考えを巡らせる。
「自分自身とは何だろうと考えた時に、経験の結実としての記憶を持ち出すのはいいんじゃない? でも、他人がその人の記憶を完全な形で共有することができない以上、記憶はあくまでも主観的なものでしかない。もちろん、説明には使えるけど、物語として」
「物語って、人間の本質でしょ?」
ずずいと肘を机の上に張って、燻は清流に近づく。アルコールとタバコの混ざったにおいに、燻にまぶされた化粧や皮脂のにおいが混ざって、息を吸うかどうかも迷ってしまう。その泥臭が、本当の人間のにおいなんだと思う。
目を落とすと、燻の胸の谷間が暗闇を挟んでいた。目のやり場にも困る。もちろん酔っていなければ、燻もそんなサービスを提供しようなんて思わない。じっと清流の目をにらみつけて串刺しにし、清流は目を逸らすことができなかった。
「燻、近いよ」
「物語って人間の本質でしょお?」
「燻は、酔っていて記憶しなかったら、そこで話したことや楽しかったことは無意味だと思うの?」
「論理をすり替えないでよ。物語る、それが人間でしょ」
「思考する、それが」
「今時デカルトなんて、センスない」
「思考を共有する、それが」
「理性? 清流、あんたって古臭いわ」
「…………ごめん」
燻は強引に清流の言論を押し倒した。押し倒したはいいけれど、とどめを刺すナイフが見当たらない。
「お手洗い行ってくる。お会計しておいて」
タクシーを拾って乗った。
燻は眠りかけていて、温かさを求めるみたいに、清流の腕に寄りかかった。肩で呼吸して燻は時たま咳き込んだ。髪から立ち昇ってくる香りは、燻の染めた髪色のイメージそのままの、甘いロイヤルミルクティーを想像させた。
斜め下で燻の胸が上下する。
太ももにだらりと置かれた小さな燻の手。
指には紅色のマニキュアがしてあった。
まつげはもしかしたら盛っているのかもしれない。
耳の産毛が立っている。
温かさが伝わってくる。
柔らかそうな唇に唇を重ねたいと思った時、それが、清流が初めて異性を意識した瞬間だった。
「燻、ホテルに着いたから。おやすみ」
「清流、私の家来る?」
「行かない」
「損してるぞ」
「怖いんだ」
「正直すぎる。別にいいけど。おやすみ。明後日の朝にまたホテルに車つけるから、遅刻しないで」
「何時?」
「八時」
清流がタクシーを降りると、燻は軽く手を振った。扉が閉まると、燻は清流には見せない冷たくて真面目な顔で、帰り道を運転手に伝えた。