五章「カフェテラス・星月院」
五章「カフェテラス・星月院」
クラスの授業を受けると、決まって清流は燻と食事をし、川にそって古都の町を歩いた。
燻はよく音楽や小説の話をした。
イギリスの音楽がそのメッセージ性を音の背後にどれだけ隠しているか。
イギリスの小説が、そのメッセージ性を一つ一つの記述からではなく小説全体から浮かび上がらせるのはどうしてなのか。
丁寧に編みこまれた音楽と歌詞に燻は心を動かされるし、ストーリーと文体が織り成す骨太な物語に燻は称賛を惜しまなかった。
燻は、スノッブと言われることを、気にしていなかった。本当にスノッブだとしたら、たぶんそう言われることを強く拒むだろうことを燻はわかっていた。自分の中の「本当にかっこいいところ」をわかっているから、まだそれを十分に発揮できないことには目をつぶっていた。暫定的な倫理の構成が、とても重要であることを燻はよく理解していた。暫定的にスノッブであることを、燻はいとわない。
清流は、燻のその衒学的に見える態度が、魅力的とも鬱陶しいとも感じていた。清流は、燻が自分の中に「本当にかっこいいところ」を見出していると気づいていなかった。
燻は歩きながらタバコを吸う。小麦の匂いがした。
清流は、二歳しか違わない燻が話すことのほとんどがわからなかった。うなずけないことも多かった。燻が偏った考えを持っていることを、否定すること(あるいは肯定すること)ができるくらいの学識が自分にないことが悔しかった。
でもその赤いパーカーが燻に似合っていることだけは、否定しようとしても否定できない事実だった。
環状線に乗ったその日は、古都の南の商業地区に繰り出した。
ホテルやレストランが入ったビルの外観を見るだけで、清流は頭痛がしてきそうだった。ビル風がびゅうびゅうと吹きつけ、もう七月だというのに冷たさすら感じる。
レストランに入るのもためらわれるのに、燻はお構いなく「よさげ」な店を見つけると、そこに入っていた。清流が戸惑っていると「ん?」という何も気づいていない疑問符で清流を促す。
ゆっくりと清流が歩みを寄せると、燻は笑顔を見せて、堂々と席に座る。高い(と清流には思われる)料理とドリンクを頼む。
ビルの十一階の窓は河の方に向いていて、対岸の工場群が視界に収まる。
ハンバーグなんて自分で作ればいいのにと思うけれど、清流はそれを口にはしない。あっという間に食べ終えて、水を飲みながら燻が食べ終わるのを待つ。何を話したらいいのか、それもわからない。
清流はそこで初めてデートのステレオタイプなピットフォールに陥っていることに気づく。というか、これは、デートなんだろうか。それもこれも清流にはわからない。
確かにサラダの葉物野菜は香り高かったし、ハンバーグにかかっていたソースも、ごく細かく刻まれた野菜の味がした。それは、ソースを出来合いのもので済ますより、ずっと美味しいのだろう。
燻は、燻がゆっくりと丁寧においしそうに食事を咀嚼する。
ちょこちょこと清流を見て、微笑みを向ける。
今日はメガネをかけていて、その黒縁が燻の肌の白さを際立たせる。
コンパクトミラーで、何度も前髪を整えるのを、可愛いと思うべきなんだろうか。
目の前に座ると、どうしても胸が目に入る。
ゆったりしたパーカーだから、ふくらみもはっきりしていなかった。でも、はっきりしていないということは、そんなに大きくはないということなんだろう。清流はそう思った。
清流のそういう視線の移動を、燻は見なくてもわかった。視線が当てられたところは、自然に熱を孕んだし、そもそも、燻は自分を見せるために清流の目の前に座っていた。
「おごった方がいいの?」
清流は燻に聞いた。
「ううん。別会計」
「そっか、ありがとう」
「ううん。私お金に困ってないから」
いつも一言多いんだよなぁ。清流は言わなかったけれど、燻のその傲慢なところが引っかかる。
どうして、自分が燻と一緒にいるのか、清流にはわからなかった。
燻はなぜか自分のことを気に入ってくれている。
もちろん清流も、燻のことが嫌いなわけじゃない。燻の肩を抱きしめたらどうなるのかとか、燻の唇はどんな感触をするのかとか、気になるところはたくさんあった。
会計の時に、燻は清流に少し多めにお札を渡した。お釣りを返そうとすると「気にしないで」と言った。「Never mind.」
少し先を歩く燻の腰が細く、すらりとした脚がタイトなジーンズによって浮き上がっているのを、清流は何の意味もなく見る。高そうなサンダルを履いている。
汗ばむ陽気。太陽は高い位置から地面を照らす。
青南のビル群のガラスが、太陽の光を映し取り、影を消そうとする。
額に親指を当てて、手でひさしを作る。燻は遠くに目をやっていた。
燻が背負っているナイロンのリュックサックは、燻の持ち物としては珍しくチープなものに見えた。ブランドものでもなさそうだし、その大きさのバッグに入れるものもそんなにあるようには思えない。現にコンパクトミラーはパーカーのポケットに入っているし、櫛もそう。意外にも財布は折り畳み式で、ジーンズのお尻のポケットに収められていた。
でもそれが燻の気の抜き方なのかもしれない。
「リュックに何が入ってるの?」
「本。タオル。折り畳み傘。電子辞書。なに?」
「いいや」
「清流って、自分がないの?」
「どういうこと?」
「私のこと気にしてくれるのは嬉しいけど、もしよかったらあなたの話も聞きたいわ」「If you like, please tell me the story of yourself.」
「話すことなんてないよ」
「そんな悲しいこと言わないでよ」
「特別なこと、僕の身には降りかからなかった」
「いいの。リンゴが食べたいと思ったら、リンゴが木から降ってきたとか。その木は梨の木だったはずなのにとか」
「そんな不思議なこと、起こらないよ」
「自分がないのね」
落胆するように、燻は肩を落とした。
「不思議な話が自分なの?」
「他の人がしていない経験をすることが、その人の個性であり、多様性を担保するために社会ができる唯一の方法なの」
「それは知らなかった。そのことで、僕を嫌いになったりする?」
「ううん」
燻はとても軽く否定した。首を少し斜めにかしげただけだった。
「それはどうして?」
「私は、私だけが正しい世界線に住んでいるわけじゃないことを、わかっているつもりだから」
無感動に発せられた燻の言葉に、清流は一瞬空を見上げて考えた。どちらかというと燻は、その「私だけが正しい世界線」に住んでいる方が自然な気がした。
「それは本当の話?」
「うん」
「むしろ逆なのかと思っていた」
「もう少し言うと、もちろん客観的な正しさがないとは言わないし、相対化とか、操作だけしてわかった気になっている人が好きとは言わないけど、人の数だけ正しさがあるって、私は知っているから」
「正しさが対立した時は?」
「清流、正しさっていうのは誰かのためにあるものじゃないの。自分のためにあるのよ。自己犠牲するくらいなら目の前の人を血祭に上げましょうよ」
「なにそれ、怖いよ」
清流がおどけた調子で言うと、燻は笑った。その大人びた微笑みは、それまでの発言内容に一線を引いて、気品があった。西洋人特有の自信に満ちたスマイルカーブとはまた違う、自分の美貌に対する、ごくごく客観的な認識に基づいた階級的な優越。
それが、嫌であれば燻と付き合わなければいい。でもその貴族的なふるまいは、目につくだけじゃなく、翻って羨望の対象になった。
「着いた」
カフェテラス・星月院。ここの紅茶が美味しいと噂で、今日の燻の目的地だった。
ホテルの二十一階にあって、ホテルの利用者じゃなくても「きわめて高額のサービス料」を払うことで利用することが可能。
清流は燻のお金の使い方に苦言を呈すことはしないけれど、何とか体面を保つだけのオーダーをしなければならないのは、厳しいものがある。
窓際の席で、燻が頼んだのはポットの紅茶。カップを二つ。さらにケーキではなくて四個あるフィナンシェもオーダーした。
「いい?」
「ありがとう」
「いいの。無理させちゃったかな」
「最近、田舎者って言わなくなった」
「そう? 高い物を頼めば満足するっていうのも、田舎者の一つの特徴だから。それに私たちはまだ学生。お昼の店は結構反省している。美味しかったけど、高かった」
「燻は都会人だよ」
ピカッと、雲に閃光が走った。遅れてゴロゴロと雷が鳴る。
もくもくと雲が立ち昇り、あっという間に立派な積乱雲になった。
「わくわくする」
縦に走る稲光に、燻は興奮を隠さない。
ボツボツと大粒の雨がガラス張りの窓に当たる。急に視界の奥行がなくなり、水煙の中に景色が没する。
カフェテラスの照明が自動でわずかに光量を上げる。
風が窓ガラスを押す。頬杖を突きながら外を眺める燻は、昂りもなく、リラックスしていた。風雨の声が燻の心を湿らせて、穏やかにさせたのかもしれない。
ガラス窓がくっと光を遮って暗くなる。
清流はびくっとして燻を見た。
照明が落とされて、ドーム状の天井に月が出る。星のまたたきが再現される。プラネタリウムの時間だった。
「雨だったから、ちょうどよかったかもね」
燻は清流に微笑んだ。清流にはその時の燻が何歳も年上に感じられた。落ち着いていて、優しくて、美的で、楽しそうにしている。
プラネタリウムというものを清流は知らなかった。でもそこに異性と行くことが、特別な意味を持っていることをすぐに理解した。
燻は、彼女特有のやり方で、清流を楽しませようとしている。
清流は、燻が何をしようとしているのか、その時初めて知ったのだ。学食で一緒に食事を取るだけの関係では嫌で、もっと仲良くなりたくて、見知らぬ清流の一面をもっと知りたいのだ。世の中の男女が、どうやって仲を深めているのかということを、清流は知らなかった。
清流が動揺したり、どぎまぎしてしどろもどろになったりすることを、燻はバカにするわけではなく、単に可愛らしいと思うのだ。話す言葉が違う。体験してきたものが違う。
清流は自分にあきれた。こんなに複雑な妙味を、燻はわずか十九、二十で身につけている。見様見真似でもない。気負いもない。彼女の文化的素養が、自然な好意を清流に向けていることに、清流は驚いた。
星や月は天井で白く輝いている。
「星の名前知ってる?」
「いいや」
「私も。悪いわ。こんなところに連れて来て、夏の大三角も言えないなんて。でも、よかった。清流も知らないならおあいこだから」
「星が綺麗だということを僕は知らなかった」
「私の故郷には星はないの。街の明かりが強すぎて、衛星しか見えない。光も強すぎると人を盲目にする。星月を見て何にも思わないなんて、センスないと思わない? 私の街はみんな無粋。私も漏れなくね」
「明るいのはいいことだよ。昔の人は星明かりまで使って勉強した。月光を頼りに面影を重ねた。僕の故郷は、暗闇だらけだ」
「そんなに卑下しないでよ。清流は素敵よ。お世辞じゃない。私は、そう思うの」
燻は、テーブルにある紅茶のポットを取って、清流の、残り少なくなったカップに紅茶を注いだ。それから自分のカップに注ぐと、まだ少し温かいフィナンシェをかじる。
「僕の故郷にも星はなかった。暗闇と、赤橙色の明かりだけで、空は少ししか開けていない。峡谷の崖のわずかに開いた割れ目から、空を見て、鳥が飛ぶことすら知らずに……」
「うん」
「知識として知っていることはあるんだ。本で読んだり、大人から聞いたり。でも、燻には及びもつかないくらい世に不慣れだし」
「でも、清流はそれを怖いとは思わない」
「うん」
「それは、清流の過ごしてきた生活が、世界とつながることを拒んでいないから」
「うん」
「私のこと、少しは好きになった?」
「うん、だいぶね」
「それはよかった」
燻はくすくすと笑った。意地悪そうに見せるのが、燻は上手だった。
清流が浸ったこの時間が、知らなかった気持ちを少しずつ押し広げていく。
雨上がりの濃い湿度。蒸れる草の匂い。燻はパーカーのジッパーを下げて、薄いTシャツを外に出した。体の線にぴったりとくっついたそのTシャツは、汗を吸いかすかに下着を透かしていた。
空色の下着。燻はパーカーを腰に巻いて、伸びをした。気分がいいとばかりにステップを踏む。
陽が傾き、暑さが次第に和らぐ頃、ガラス張りのビル群が夕焼けを反映していた。
環状線の車両は冷房が効いていて、ドアが開く度に外の空気と喧嘩していた。燻が外を眺める横顔はアンニュイで、どこか不満があり、何かに落胆しているのに、その感情が絡んでにじむ苦渋がむしろ、燻の精神を純化させていた。
清流が降りる一つ前の駅で燻は降りた。「じゃあね」と軽く手を振って、でも清流は、その時の燻のしぐさを忘れなかった。どんな顔をしていたとか、どんな服を着ていたとかは、時間が経つと忘却されていった。でも、不思議なことに、出来事として電車から降りる燻が、手を振ったことを、清流はなぜか記憶に深く刻み込んでいた。
姉のようなものなのかもしれないと思った時、清流は深い深い落とし穴にはまった。年上の女性に惹かれる思いを打ち消そうとする、技巧的な思考の脚色が、それから先ずっと清流を正解とは遥か遠いところにミスリードしていった。
環状線の窓から見える、いくつもの楼閣。赤く光って道しるべになる。
たくさんの人が乗って降りるはずの駅も、少し歩くと人がまばらで、物思いをしながら歩くのにはもってこいだった。
誤って川に足をつっこんでしまった。その時は、なんてバカなんだろうと自分を嘆くけど、燻に土産話ができたなと、後から納得する。
「おやぁ? お子様。ずいぶん間抜けなところ見ちゃったなー。といっても、言いつける相手もいないんだけど。意寂さんの店に来る? これから夕ご飯の時間。詩御の相手してもらいたいんだけどなー、ディナータイムッ」
ぽよぽよと笑いながら買い物袋を地面に置いて、清流が川から上がるのを意寂は手伝った。意寂の手はとても冷たくて、なのに汗ばんでいた。
「珍しいじゃん。こんな時間にこの辺りにいるなんて。お子様も、彼女できた?」
「友達なら」
「そうぽよ、結構。んー、早く告らないと、損するかもよ」
「友達ですから」
「そか。それならいいんだー」
「緑橋さんは、いつ結婚したんですか?」
「二十歳。二十三の時に、男はいなくなった。詩御は意寂さんが一人で育てている。悔しかったなー。私、割と本気でその男のこと好きだったのに、遊びだったんだよなー。お子様はそんなことしないと思うけどっ」
「しませんよ」
「はー、いい男だったんだよ。でもまあ、私には憂ちゃんがいるから」
店の前で詩御がきょろきょろしていた。
「せいりゅー」
「覚えてくれてたんだ。ありがとう」
「せいりゅー、おかあさんといっしょ」
詩御はぴょんぴょんと跳びはねる。
「詩御、お子様に遊んでもらいな」
「ういちゃがきてる」
店の中の席で憂依澄が手を振っている。
「ういちゃにおみずだした」
「氷入れた?」
「入れた」
「偉いぞ詩御! 憂ちゃん。待ってて、すぐご飯作るから、キムチカルボナーラ。どう?」
「ありがと。おや? 都原くんだっけ。久しぶり」
「お久しぶりです」
「一緒にカルボキムチ食べてく? おいしーんだ。ベーコンが厚くて、卵の風味が豊かで」
「ご一緒します」
「九博氏来るの?」
意寂が依澄に聞いた。
「さあ」
「せいりゅー、おひざのってい?」
「いいよ。一緒に絵を描こうか」
清流はカバンの中のノートを取り出して、一枚破るとテーブルの上に置いた。ボールペンが何色かペンケースからバラっと机の上にこぼれる。
「しおは、これがいい」
「赤? 僕も赤好きだよ」
「ろうかくのいろだから」
「そうだね。楼閣の色だ」
「アルファケンタウリもあか」
「そうだね。赤色巨星だから。よく知ってるね」
「うん!」
依澄は四歳と十七歳の会話を楽しそうに聴いていた。カランと氷がカップの中で溶けて崩れた。水を持って口につけると、結露したグラスの水滴が、テーブルの上に二滴垂れた。
何人かの学生が店に入り、めいめいに注文をしていった。
キムチカルボナーラが湯気を立てて清流と依澄のテーブルに置かれる。普通のカルボナーラが、詩御のために用意されると、詩御は嬉しそうに食べ始めた。
七時を回る頃には、客も入りっぱなしで、清流は席を取ってしまうことに遠慮して、お会計をして店を出た。
意寂は忙しくて、会計の時に簡単に礼を述べるまでだったが、詩御は店の外まで清流を見送った。
「せいりゅー、また来て」
「うん。ありがとう」
依澄も店を出る。タイミングよく九博が向かって来た。
「坂西さん」
「お、清流」
「こんばんは」
「こんばんはだね。食べたところか、ということはちょうど席が空いている」
「そういうことだね」
依澄が言った。
「慣れた?」
「少しは」
「またどこかで話そう」
いつの間にか靴は乾いていた。