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四章「籍東寺」

四章「籍東寺」


 籍東寺せきとうじは、古都の東の籍東山を拓いて建てた寺院。


 清流は、クラスメイトたちと山を登った。大学の簡単なレクリエーション。フィールドワークという名前がついていたかは定かではないが、籍東寺の荘厳な中国風には、清流だけでなく、古都の外から来た学生も、ぐっと目をひきつけられた。


 清流はちらちらと視界に入る燻のことが気になったが、向こうが目を合わせないのだから、何ともしようがない。


宝物殿の種々の「手」は唐様から日本の僧正たちのものまで、かなり充実していた。


禅を組み、拙い筆跡で墨を擦る。二十人ばかりの学生が「伝統文化」を体験する様子を見ていた僧は、あきれているのか笑っているのか。内心のほどはわからないが、付け焼き刃の「異文化体験」は、さかしらぶって奇妙な比喩を多用する小説を読む時に感じる、形式のいささかの不一致がある。


その文化の神髄を知る人は、若輩者の清流たち学生に何を見せたいのだろう。


「ここのお香の匂い。私好き」


 気がついたら後ろに燻がいた。


「燻。びっくりするから近づかないでくれない」


「近づかないで、くれない?」


「間違えた、いきなり声をかけないでくれない」


「声をかけないで、くれない?」


「ん、なんかうまく話せないな」


 くすくすと燻は笑った。


 クラスメイトたちが、燻のことを見ている。いきなり浮いてしまったようだ。帰国子女の定めとも言えよう。


「傷つく」


「ごめん」


「撤回して。私傷ついたから」


「撤回はしない。びっくりしたよ。近づかないで。いきなり声をかけないで」


「むむむ。私何かした?」


「田舎者だからね」


「根に持ってるの? 清流がそんなに気にしてると、私思わなかった」


 白い歯がずらりと清流の前に並ぶ。赤いニットのタートルネックが、細くくびれた燻の腰と、そこからふわりと膨らむ胸を強調していた。手元は墨で汚れているのに、赤は黒とは染まらなかった。


「筆なんか持ったことないんじゃない?」


「は?」


「イギリスで暮らしていたら、家に筆なんてないでしょ?」


「その偏見は正しいけど、偏見を言うことを誰も認めてない。少なくとも私は認めない」


「わかってるよ。言ってみただけ」


「言語は行為よ。言語で刺したら、ナイフで刺されても文句なんて言えないんだから」


「すごく進歩的な考え方だね」


「バカにしてる?」


 燻はまた笑った。引率の大学院生が声をかけようとしたタイミングを見計らったわけじゃないけれど、清流はすっと燻のそばを離れた。


 近くにいたクラスメイト(名前は知らないが面識はある)から、「付き合ってるの?」と冗談めかして聞かれた。清流は黙って首を否定する方向に振った。


 昼食は精進料理というものをいただく。それは清流も燻も初めて口にするものだった。籍東寺の広い敷地の、まだ小さい方だというお堂にお膳が用意される。


 僧都が食事の前に唱える文言の紙を配った。いま一つ揃わない合掌。「いただきます」と大学院生が主唱すると、間の抜けた声で、ふわりと空気が浮いた。


 中学生ではないから、「何でご飯がこんなに少なく盛られてんだよぉ、ああん?」と凄む学生はいないし、そもそも精進料理は美味しかった。


 各々好き勝手な食べ方をしていた。箸を使えない学生はいなかったが、食べる順番は個性が出る。一皿ずつ片付けていく者もあれば、細かくおしなべて食べる者もいる。


 燻はその中でもかなり特徴的で、食事に取りかかる前にポケットから小さいメモを出して、鉛筆で小鉢一皿一皿を簡単にイラストにした。短い時間だったし、それから食べるのも速かったから、燻だけのために「ごちそうさま」を待つ羽目にはならなかった。ゆっくりと食べる男子学生もいたから。


 食事が終わった後は、講話を聴いた。仏法への帰依が人生に…………とかなんとか。徳の高いお坊さんだったが、その尊さを知る学生は、一人もいなかった。燻は居眠りしていた。


 山の上で解散。帰りは各々のペースで下山することになった。


 燻はうさぎのように舗装された山道を駆け下りていった。


 清流は少しゆっくりと籍東寺の境内を巡り、カメラで写真を撮る。


 山門の下で、ぼーっと空を眺めていた。今日はあいにくの曇り空で、光がスッと風景に差し込むことはなかったけれど、逆に木造の山門の自然な落ち着きが感じられるような気がした。なんとなく、帰りたくなかった。


「上がりますか?」


 一人の僧が清流に声をかけた。「山門の上に上がったら、きっといい景色が見れると思いますよ」


 清流はとっさに言葉を失った。


「首にかけているカメラを使いたくないですか? ここには、山門からの景色ぐらいしか、見るものはないんです」


「お願いします」


 山門を正面から見て右側にある狭い階段を上がる。窮屈だったけれど、その先の景色に臨んだら、それは本当に些末なことだった。


 いくつもの柱が天に向かってそびえている。


 雲が分厚く地上に向けてせり出している。


 古都を通り過ぎる川の網の目が、黒く色を濃くしている。


 そして古都の中央には奉樹の神域がある。


 上空には鳶が飛んでいる。カラスが見えないのが、奉樹の神域をとても神聖に感じさせる。もちろん、カラスには申し訳ない説明なのだけれど、清流はそう思ったのだ。


 白い壁の家々が、東西南北に位置する大学のキャンパスを、浮き上がらせていた。


 奇妙にねじ曲がった道路が川に渡した橋によって、更にゆがんで見えた。どうやってつながっているのかわからない、道と道。白い家々が壁になって車の動向を知ることはできない。


 カメラのシャッターを切る。あまりに精妙にできた情景だった。


 南に河が流れている。古都の船着き場に着いた時は気づかなかったけれど、そこだけ高い建物が並んでいた。マンションや商業ビルが一緒に建っている。


 そして、河の対岸にも建築物があるのがわかる。それは、どうやら工場のようだった。


 西条大学はちょうど籍東山を通る東西の線の西の延長に位置していて、大学の建築が水平に並んでいた。キャンパスを歩いている時は、それらが真南を向いているのだと思っていたが、どうやら少しずれているようだった。


 ざわめきのような読経の音声が、背後の寺院から聞こえてきた。じりじりと火にあぶられる気がするくらい、熱のこもった声。声というより、地響きのようなもの。


 視界全体が一瞬点滅した。楼閣がかすかにきらめき、厚い雲は太陽の光に切り込みを入れられ、古都は光の環に包まれた。輪郭だけが切り取られて清流はそれを目に焼きつけた。簡単な線だけで古都をとらえると、山々や河川がくっきりしてきた。自然が大きく見えた。緑と青。黒く見えていた川の色は、光を取り込んできらきらとそれを反射させた。光の差し込む角度が変わるごとに、川に潜んでいた「龍」が、ゆらゆらと動いた。川が生きているのだと清流に思わせるには十分だった。


 清流は水筒に入れたお茶を飲んだ。温かい紅茶で、砂糖は入っていなかった。


 カメラでズームして写真を撮ると、清流は自分が今、何をやっているのかわからなくなる。南西には白壁とは違う建物の一群があった。


 北には北尉大学。もう水のないお堀の中の、石積みの土台の上に建つ「離宮」。空襲を生き延びた二の丸の灰色の甍が照り返している。鏡のように青空を映し取っていると思うくらい、磨き込まれている。


 トントンと音を立てて、山門の階段を上る音がした。音に気づくのと、その人が顔を出すのはほとんど同じタイミングだったから、用意もなく、清流は少し驚いた。


「おや、先客……失礼失礼。『おや』なんて。とっさに言うことが思いつかなくて」


 清流はぺこりと頭を下げた。


「あ、勝手に上がってはいけなかった?」


「そんなことはありません」


 僧は答えた。


 その人は三十歳くらいの男性だった。


 タバコに火をつけると、美味しそうに吸った。高そうなブルゾンと発色のいいジーンズを身につけて、長髪を後ろで縛っていた。


「大学生?」


 男性は清流に聞いた。


「はい」


 清流ははっきりと答えた。


 男性はしばらく清流を見ていた。服装を眺めながら清流の姿勢を観察する。


「俺は、城街から来た。ちょっとした仕事。旅行半分でね。でも、良さというのは住まなければわからない。俺が知っていることは少ないけれど、土地の霊性を言葉にするのなら、そこに住まなければ、嘘をつくことになる。それだけは知っている」


 清流は曖昧に笑った。


「それなら、何のために旅行するんですか?」


「故郷をもっとよく知るためだよ」


 清流は空気を喉に詰まらせた。キュッと音がして喉が締まる。涙が目を覆い、まばたきすることで目尻からこぼれた。悲しいから落ちた涙ではなかった。


 けほけほと咳払いをして、息を吸うと、タバコの匂いが鼻腔を刺激した。銀の匂い。


 コツコツとヒールが叩く音がして、男性はタバコの火を消して、吸い殻をポケットから出した灰受に突っ込んだ。


「バカと煙は高いところに上る」


「おっしゃる通りで」


 ハイヒールの女性は男性をよく知っているようだった。


「ホテル戻るよ」


「はいはい。じゃあな、大学生」


 男性の体から少し手と顔をだして、女性も清流に手を振った。


 清流はそれからしばらく景色を見ていた。写真を撮るのも飽きてきて、僧と会話するネタも尽きた頃、日がゆっくりと西の山に沈み始めた。太陽が山に隠れるのを、見つめる。盆の中の白壁が少しずつ灰色の影の中に吸い込まれ、空はオレンジ色に染まっていった。


「そろそろ、お帰りになるのがいいかと。暗闇の山道はとても危険です」


 清流はうなずいた。お辞儀をして山門を離れ、家路についた。


 ポンポンと跳びながら走って山道を下った。


 東刻大学の近くの食堂で、山菜そばを食べて、とぼとぼと歩いて家に帰った。奉樹の神域を敬して遠ざけたはいいものの、だいぶ遠回りになってしまった。途中、神社の入り口のランタンが清流を呼んだ。


 入口の横にある自動販売機で飲みものを買い、それから、境内のトイレで用を足した。トイレから帰って、狭い境内を見渡す。人の気配はなかった。


 ランタンが石畳を赤く照らす。空を見上げると星がまたたいていた。


 入口から出ると、人一人とすれ違った。何のために境内に入るのか、想像もつかなかった。ランタンの淡い明かりでは、顔も見れないから、推測もできない。


 女だった。


 長い家までの道を、空を見ながら歩いた。


 雨が降ると、風が遠くから土の香りを運んできた。そんなに雨粒は大きくなかった。傘を差す代わりにジャケットを雨除けにして走った。傘が香りを弾いてしまうような気がしたから。


 車が雨に濡れた道を走る時の「シャー」という音をさせて、清流を追い抜いた。何台も連なる車列も、そばを通り過ぎた。


 車の運転席に座っているのは、一体誰なんだろう。車の運転席に座っている人は、どうしてこんな時間に車を走らせているのだろう。その車が走るのを見ることで傷つく人がいることを想像できないのだろうか。少なくとも清流は、何かが損なわれた気がした。ヘッドライトと鉄の躯体が、全てを拒絶しているように感じたのだ。

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