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三章「奉樹の神域」

三章「奉樹の神域」


 古都はいにしえの都として、神都ペルセポリスのように、聖俗の聖の役割を持って日本に生じた。


 各所に寺院や社殿があり、西条大学もその背後の丘に神社を抱えている。


 西条大学ができる前は、その神社が主体となって、周辺の青少年に教育を施していた。


 詩御の「御」の字は古都の「御領神社」から取ったという。後になって知ったことだが、古都における神への信仰は、それが表面的なものに留まるとしても軽視するべきではなかった。


 清流の目下の目標は、河ですれ違った舞山羊心の実家を訪れること。舞山羊神社でおみくじを引き、御守りを買うことだった。


 環状線の内側。中心に近いところに、河が合流するデルタがあった。舞山羊神社はそのデルタの森の中に鎮座していた。


 午前中の授業を終えて、学食で食事を取り、川のほとりを南へ進んでいった。川そばを歩いていただけで、川に入ったとかそんなことはないのに、足元が濡れていた。


 地図を頼りにするといっても、景色は判を押したように白壁で、何か目印になるものが見つかるとしても、道を行き過ぎてから。もう少し親切に町を作って欲しいと思うけれど、のちに清流が学ぶことになる都市設計の講義で、古都の白壁はこの数十年でできた、まだ新参者の景色だと知る。戦争が木造建築を焼き尽くした後、戦火に耐えられる町にしようとしたのだ。


 だから、清流が迷うのは当然のこと。勝手橋が数えきれないほどかけられていて、亀石もいくらもあったから、地図にかかれている橋が何なのかわからない。


 舞山羊神社は、中心から南西にずれたところの、森の中にあった。


 石畳の道に敷き詰められた砂利が白く光る。ここでも白だった。鳥居が手前にあって、その後で階段を歩いて上がる。門をくぐると、清流は古都で初めての木造建築を目の当たりにした。張り出した甍は、質実剛健な印象を清流に与えた。


「ようこそお参りくださいました」


 清流は後ろから声をかけられた。振り返ると、同い年くらいの青年がにっこりと笑みを浮かべていた。


「こんにちは。僕は、ここに来てからまだ日が浅いのですが、人によく声をかけられます」


「それだけ不思議なふるまいをしているということですよ」


「不思議なふるまい?」


 清流は、その表現に少なからず驚いた。


「手前どもの社は、観光で寄られる方も、まずいません。それに、最近は、神に興味があるという人も、だいぶ減ってきましたから」


「僕は、舞山羊心さんにあったから」


「へえ、姉さんに。それは奇縁ですね。僕は、舞山羊湖泊まいやぎこはくです。姉さんは記憶が正しければ、河をさかのぼり、山を越えて、日本の反対側に行こうと計画していたはずです。そうですか。姉さんの相手をしてくださったということは、河の上流の町の方ということですね」


「町と言えるかはわからないけど」


「お名前は?」


「当然ながら、名前を聞かれることも、随分多くなった。……都原といいます」


「不思議と言いましたのは、都原さんが何の気負いもなく、神を見ていたからですよ」


「神を見ていた? はは、ご冗談を。いや、卓越した比喩ですね。僕は、おみくじを引きに来ただけですよ。もしかして、僕の視線の先に神様がいたんですか? そこにあるのは、……社殿だけで」


 湖泊は、笑顔を見せる。背は高くないというか、むしろ小さい方だろう。一六〇センチくらい。小顔で品のいい和服を着ていた。肌が白くて、なんとなく舞山羊心と風貌が似ていた(それは当たり前かもしれないが)。体にだらしないところはなくて、精神的な面も含めて鍛えられていることがわかる。


「お賽銭を入れる必要はありません。もしよければ、習俗に触れてみるのもいいかもしれませんよ」


「習俗?」


「神を見る、神と話す、神を拒む、神を……受け入れる」


「ここという場所が重要なんでしょうか?」


 清流は聞いた。


「ええ。でも理由は一つしかありません」


「それは?」


「多くの人が、そこにいると信じたから。それが、信仰です。人のふるまいに宿る信仰もあれば、そうですね、古都では、古都という場所が重要になってくる。でもそうではありませんか? 故郷のどこが故郷だというのでしょう? 何もない。何もないですよ。私たちが育った場所だということ以外に、理由はないんです」


「すごく本質的な話をするんですね」


「私は、でも、逆のことを真顔で応える時もあります。『信仰は人の心にのみぞ宿る』。気取って。高校の同級生には、知った風な口を利きますが、都原さんは騙されない。そうじゃないですか?」


「騙されないかどうかはわからない。でも、湖泊くんが少し傲慢なのは伝わってくる」


 湖泊はまばたきした。唐突さに対する驚きから清流の口ぶりからもたらされた意外に心理は移り、それから興味を覚えた時の期待と喜びに湖泊の表情は変わった。湖泊は絶やさない笑みからふと真顔になり、それからまた笑みを浮かべた。それは顔に貼りついた営業用のものではなくて、情動が動かされたことによる、感情の泉の噴水だった。


「あはは。傲慢ね。いけないいけない。ほんと、面白いですね。悔しいなぁ。直球なんだもん」


 体の前面は熱く、背面は冷ややかな、きわどいコミュニケーションに、清流は自分でもびっくりしていた。


「綺麗な森ですね」


 桜はもう散っていた。


「そうですね。このあたりは『奉樹の森』と言います。川で分断されて点々としていますが、昔は森でした。昔というのは……そうですね、四世代くらい前ですかね。古都の人のいいところは、文化が変化するものだということを織り込んで生活していることでしょうか。文化の保存は声高に言うのですが、新しい文物に、容易に席を譲るんです。いいですよね。学生の町なだけありますよね」


 清流は、参拝した後、おみくじを引き、御守りを買った。


「少し上がってください」


 広い社殿の別棟に、何十畳もある部屋。机が綺麗に並んでいて、宴会なんかをするためなのかと思う。一番入り口に近い席に座って、清流は湖泊の用意するお茶を受けた。


 障子に、森の木々枝枝一葉一葉の影が映り、夕焼けの朱色が障子紙を焼いた。


「冷えてきましたね」


 湖泊の横顔は綺麗だった。


「湖泊くんは、世界の中心に生まれたことを恨んだりしない?」


「それは、特別な経験です。でも、僕はそれだから、自分が何もできないことを残念にも悔しくも思います」


「何もできないって?」


「人間として成長することはできます。勉強すれば教養だって身につくし、ここでは進む大学で悩む必要もありません。でも、城街の歓楽街で女の人を周りに侍らせて、酒をあおり、ブランド物の服を着て……ってねえ、こんな広い部屋で、祭りを仕切らせてもらったりしていたら、そんなことが面白いとは思わなくなるものです。それに本当に特別なのは、姉さんですから。僕は、姉さんとは違う。特別な人とは、結構差が開いているんです。特別な経験には、特別な人がふさわしいと、都原さんは思いませんか?」


「嬉しそうだね」


「へ?」


「特別な経験が普通の人を特別な人にするということを、湖泊くんはわかっているということだよね。だから、人生が楽しくて仕方ない」


「都原さん。私は、嬉しいですよ。私が言っても、それは強がりにしかならないですから」


 俄かに人の気配がしてきた。


「僕はお暇するよ。楽しかった」


「今度は、都原さんの故郷の話もぜひ」


「あと十年は話せないよ。もうそこが何だったのか、……すべては霞の向こう側だから」


***


 清流は、暗くなった森を抜け、ランプで照らされた川沿いの道を歩いて戻っていった。帰り道の方が難しいだろうと思っていたけれど、勝手橋には灯篭がなかったので、道ははっきりしていた。清流は白い壁に惑わされなかった。


 清流は、確固たる足取りで帰路を歩み、その途中途中で深く静かな夜の森のことを考えていた。


 縁側で春の雨の音を聴く湖泊のことを思い浮かべた。湖泊の後ろを舞山羊心が通り過ぎる景色を想像した。


 湖泊や心は清流が今まで付き合ってきた人たちと全く違う。エリートやエスタブリッシュメントとも違う。生きることそれだけで意味がある人。発する言葉や空間を満たすふるまいが、彼らの生を充実させる。世界の変化のかたわらで、そのダイナミズムを観察する。そして穏やかな人生を送る。


 ふと気がついて後ろを振り向くと、十メートルばかりの距離で、人が一人こちらに向かって歩いていた。雨合羽を着て。ゆらゆらと、ゆらゆらと近づいてくる。


 灯篭の赤橙の光は顔を窺うには上品過ぎる光量で、なんの頼りにもならなかった。川の流れる音すらが、その雨合羽男(か女かもわからない)のことを知覚するのにノイズとなって清流を悩ませた。


 清流は駆け出した。数えた橋の数を手掛かりにして、地図を握りしめて走った。雨合羽が追いかけて来る。雨合羽との距離は、縮まらないはずだった。息が持つだろうかと、清流はその足音を聞いて不安になった。


 橋の数を数える暇はなかった代わりに、清流は珠為の楼閣を見つけ、川の分岐点で北西に位置取りした。


 なぜ必死に走っているのだろう。なぜ自分は追いかけられているのだろう。


 足は疲労を訴えていたし、かなり理不尽に強いられている運動に、清流は精神的にも身体的にも不満を感じていた。不満。割に合わないという不服さ。


 思い当たる節はなかったし、追いかけられる理由が、自分にはないことも、走っている間にわかったことだった。雨合羽のガサガサする音がなくなったのは、雨がむせるほどの暑さを古都一帯にもたらした後だった。雨音によって聴覚を支配された雨合羽は、走り続けることが難しくなったのだろう。走るという行為は、それに専念しなければできないものだから。


 清流もぐしょぬれだった。足を止めたら汗が噴き出てきて、下着はぴったりと肌にくっついた。シャツも靴も、雨でぬれていた。


 とぼとぼと自宅まで帰った時、傘もなく、手に持っていた地図も雨が染み、清流はひどく卑屈な気分になっていた。鍵を閉める。


 シャワーを浴びると、幾分か楽にはなった。喉が渇いていることに、湿った空気のせいで気づかなかった。


 作り置きしていた麦茶を飲む。何杯も何杯も清流の喉は要求した。


 何かやましいことをしたわけでもないのにと、わけのわからない悔しさが涙を呼んだ。


 古都に受け入れられているようでもあり、どこか拒絶されているようでもあった。


 飲み物が体に染みわたる。昔、清流が泣いた時、母親は味噌汁を飲みなさいと言った。「涙からは塩分も流れるのよ。悲しみや苦しみと一緒に」


 泣くことは一つの排出欲求に適っているから、内に溜めた恐怖や悲しみが一定以下に下回れば、それ以上涙を流すことはできない。泣くことは快楽だと感じ、悲しみを誘発する出来事を期待するようになってからは、その生理が恨めしかった。でも、結局悲しみは出来事には依存していないのだ。悲しみという刻印が、心の働きとして人間には備わっている。母との離別の悲しみは、赤ん坊であってもわかるのだから。


 清流が、雨合羽を見て最初に思ったのは「話せない」ということだった。


 言葉が通じないとかではない。言葉を発している間に、相手は極めて凶悪な暴力行為を準備するだろうことがわかった。「話せない」ということは、話すということが一つの大きな行為であることを、ありありと語っていた。人間の間で交わされるもの。


 だから、清流は雨合羽のことを神か何かだと推測することになる。


 神か何か。質量を持った神。清流の咎を追及するために現れたのだと、清流は一瞬可能性を探った。でもわからない。気づかない内に罪を犯していたとしたら、それは何なのか。わからない。


 でも、雨合羽を悪魔や悪鬼だという風に考えることを清流はしなかった。自然に「神だ」と判断した。


 そこには客観的な推論はほとんどなかった。しかしその理由なき神の現前が(というには神々しさはほとんどないが)、清流の確信に訴えかけていた。文脈を逸脱した出来事だから論理的なものは何一つない。だから、結論として、清流は、そこに神がいて、神が自分を追いかけることを空想することから、その場に神を呼び出したのだ。


 まだ話せない神。文脈の違う古都の街並み。採水地によって水の味が変わるように、暗闇の色合いもまた、ところどころで変わる。


 窓の外を眺めると、ベランダの手摺に雨が当たってカンカンキンキンと鳴っていた。美しい金属の音で、雨が一層冷たく響いた。もちろん雨は言葉ではないのだけれど、むしろ蔑ろにしてくれる方が、清流には自然だった。その方が、手応えがあるから。


 冷蔵庫にあった鮭の缶詰を使ってクリームパスタを作った。甘ったるいなんとも言えない味だったが、唾液が潤潤と分泌されて、あっという間に平らげた。空腹が満たされた後の、けだるい体を、机の前に持っていった。図書館から借りてきた本を読む。かりかりとノートにメモを取って、勉強した気分。


 アルコールを入れるほど年寄りではないので、買って来たスモモシロップを炭酸水で割って飲む。歯を磨く。ベッドの中に入ると、眠りはすぐに訪れた。

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