二章の二「珠為の楼閣」
二章の二「珠為の楼閣」
依澄は、大きなあくびをして、伸びをしてから自室へと戻っていった。
部屋に戻った清流と九博は、それぞれ今日の予定をこなすべく準備に取り掛かる。
と言っても、九博の荷物は授業のメモを取るためのノートとペンだけで、歯磨きとかシャワーとかに時間を使った。
清流は圧縮袋に入れていた服の中から、少し古びた、でも色艶のいい白シャツと、悔しいほど美しい仕立てのネクタイ、藍と紺のチェックのズボンと、何十万円もしそうなコートを取り出した。
九博は、その一揃いの正装が、清流の父のものであることに気づかないわけにはいかなかった。
最後にカバンから出てきた革靴には、一言だけでも文句をつけたかったが、その文句のつけどころがないほど、今日の日にふさわしい一品だった。
コートが活躍できるように、空は朝のきらめく光を抑えて、雲がせり出していた。
「父さんも、さすがにこれまでは戦争に持っていけなかった」
晴れ晴れしい笑顔で清流はコートを羽織り、外に出た。
手元の革カバンまでが、時代を一つも二つも越えて、それでも褪せない格式と「かっこよさ」を演出していた。
西条大学のキャンパスは説明するのが難しいほど雑然としていて、学生たちはひとところに集まるでもなく、ばらばらとある建物の二階、教務課の扉を叩き、学生登録をしていった。
家族がそばにいる学生もいたし、一人で鬱陶しそうに事務手続きをする学生もいた。
「おはようございます。都原清流さん。身分を証明できるものをご提示ください。…………はい、はい、はい。ありがとうございます。大学が設けている寮に入居されない場合でも、一定額、大学から補助が支給されます。どなたか同郷の方はいらっしゃいますか。…………素晴らしい。楽しい大学生活をお送りください。和風のコートが格好良く存じます。雨よ降れ? それでは。次の方ー」
手元には、雑紙になることもできないくらい、文字や写真で埋め尽くされた、新入生へのしおり。シラバスと学生寮の案内。
革カバンにどうやって仕舞おうかと考えている時に、肩を叩かれた。
「田舎者さん」
むっとして、清流はかぶりを上げた。
「私も田舎者なの。と言っても、あなたはずいぶん高貴な田舎者みたいだけど」
「ここも別に都会ではありません」
「そうだね。田舎者さん。私は、朝永燻。またどこかで会いましょう」
手を振って赤いコートをたなびかせ、燻は、斜めに二段飛ばししながら、階段を降りて、音とともに消えていった。
学生登録に上がってくる学生の横を通って、九博の待つ一階へ向かう。
自分と同じ顔をしている学生は、一人もいなかった。当たり前かと思う反面、どこかに、自分と同じ境遇の人がいるのではないかという期待を、清流は打ち消せずにいた。
どこかにいる同じ私。最後は、確率の海に沈むことになる。
「田舎者って言われた」
「誰に?」
「知らない人です」
「女の子?」
「はい」
「美人だった?」
「うーん、いや、うーん、どうだろう。わからないですね。田舎者って言われたのがかなり響いてるのかな」
「城街の人かな」
「そうかもしれないです。たぶん、そう。自分のこと、田舎者って言ってたけど、見ず知らずの僕に話しかけるんだから、コミュニケーション強者なのは間違いないし、僕の知っている範囲では、峡谷の人に…………つまりは田舎者に、コミュニケーション強者がいないことからも、その人が都会的な人だということがわかります。朝永燻」
「名前聞いたんだ」
「あっちから押し付けてきたんです」
暖かい風が吹いて、桜を巻き上げた。水平に浮く花びらを目で追いかける。はらりと桜が落ちると、そこに釘を刺すように大粒の雨が降ってきた。ざくざくと花びらは雨粒に仕留められて屈折しながら地面に押し付けられる。
暖かい雨だった。
開いた傘を並べながら、大学の北にある不動産屋に向かった。九博が今の住居を決める際に使った不動産屋で、印象が良かったことから、九博は清流にもそこを勧めた。
「北はねえ、珠為の楼閣があるから、あんまり人気ないのよね」
不動産屋のおじさんは、物件のデータベースにアクセスして、広くてきれいな物件を調べてくれた。
「誰かと一緒に住みたいとか、スーパーが近くないと嫌とか、そういうことを言い出すとキリがないけど」
「一人で、ゆっくりできるところがいいです」
「1LDK。まあ、家賃はね、西条さん気前がいいから。そうだね。大学までは歩いて行けるけど、西条駅までは、バスがいいと思うなあ。はい鍵。見て来て気に入ったら、ここで書類作るよ。行ってらっしゃい」
メアリー・ドア・珠為。清流の住むことになるマンション。部屋は309号室。荷物を九博の部屋から持ってくると、そこが清流にとって初めての、自分だけの空間になった。
ベランダに出ると、雨は止んでいて、じめっとした風が頬を撫でた。思わず唇を舐める。
大学北には、珠為の楼閣と珠為商店街。名前のついた場所はとりあえずその二つだけだった。
珠為の楼閣は、赤く赤く輝いていた。世界が荒廃して、地球に人間が一人もいなくなったとしても、珠為の楼閣だけは、変わらずに赤く発光しているのだろう。楼閣が何のためにあるのか、清流は気にすることもなかった。どんな場所でも、誰も知らない場所はある。清流はそのことを知っていた。
前使っていた人も学生だったのだろう。部屋には気前よく家電が揃っていた。
夜までかかるだろうと見越していた引っ越しはスムーズに進み、清流に十分な夜の時間が残った。学生カードを眺めながら、シーツを敷いたベッドの上で清流はぼんやりとして、気づいたら眠っていた。
三、四時間ほどの軽い睡眠の後、清流は、外が異様なまでに明るいことに気づく。カーテンを開けると、そこに銀のように光沢を持った赤が、発光していた。
「珠為の楼閣」
雨の匂いがかすかに残る、珠為の楼閣のお膝元で、また川の音が聴こえた。
財布と学生カードをポケットに入れて、部屋を出て、とりあえず楼閣へと向かう。幾筋もの小川を渡る。
どれだけ歩いても楼閣に近づかないような気がした。それ以前にまっすぐつながっていると思っていた道が、思いがけず屈折し、また白壁の家々が行く手を阻んだ。
自動販売機で牛乳を買って飲んだ。晩御飯をまだ食べていなかった。
諦めて、来た道を戻って、それから商店街へ、レストランを探しに向かった。
珠為商店街は、映画館とカフェ、古本屋、それからスーパーが、もう夜も九時になろうというところで開店していた。
カフェは古本屋の二階にあって、パスタも出してくれるみたいだったから、清流はそこに決めた。
「ごめんなさい。今日はもうおしまいなの」
カフェの店長と見られる女性は、申し訳なさそうに手を合わせた。
「あの、このあたりで夕食が取れるところってどこでしょう?」
「あら、新入生さんかー。ごめんなさいね。珠為の楼閣は少し遠い?」
「いえ、さっき行こうとして、うまく行けなくて」
「うんうん。そうだよね。私、これから楼閣で開かれる夜市に参加するの。君もちょうどいいね。直接行こうとするとね、これが無理なんだ。ぐるっと車で大回りして、北から行かないとダメなの。乗ってく? 連れて行ってあげる」
ワゴンに夜市に持っていくものを積み込んで、カフェの店長は運転席に座った。
「どうぞ」
清流はおずおずと助手席に乗り込む。
電柱ではなく足元の灯篭のような明かりが車の道を照らした。
「車に乗るの、いつ以来だろ」
清流はぼそっと声を漏らした。相手に届くことを見越したものだったが、あくまで独り言だった。
「そうねー。じゃあ、本屋には行ったことある?」
「いつも船で本の荷下ろしをしているのを見ていました。店に並ぶとみんなが買い漁って、残らないんです」
「そっかー。好きな本はある?」
「愛新覚羅・溥儀の『わが半生』」
「いいねー。ずいぶん昔の本じゃない?」
「父の蔵書です」
「そっかー。西条大学にしたのは理由があったの?」
「父が卒業した大学だから」
「うんうん、そうなんだー。まあ、学芸に秀でる人は、西条が向いているよ。青南は、頭はいいけど、どこか奇矯だから。普通の人になるの。普通の人が、世界で一番強いんだよ。普通の人が集まって国を作るし、普通の人の税金で、世界は回っているんだから」
環状線内の大きな通りに出て、車は左に曲がる。北に進路を取った。
「戦争で死ぬのも普通の人だから」
運転手は、ウィンクをした。助手席に座る清流には、それがまばたきではなくウィンクだということを解し損ねる余地があった。けれど、そのウィンクは、誤解する隙が無い、とてもチャーミングなウィンクだった。
苦しい時に、こういう人が憂き目を見るんだろう。そういう人生なんだろう。そんなことが容易に想像された。楽しそうにしていること自体が、哀愁を孕んでいた。
「長いんですか?」
「え? 古都に来てから?」
「そうです」
「そうだねー。私は古都が嫌いだったから、しばらく城街にいたの。海外に渡った時期もあったね。古都に生まれて、古都で死ねれば幸せだったのにねって誰もが難癖をつけて、私は困っちゃった。でも、結果的には見分を広げて、語学を習得し、生活する術を身につけた。いいでしょ? というのもまあ、私には北尉や東刻にも引っかからないくらい、頭が悪かったんだけど。ドメスティックでこの国固有の『学歴』のつけ方が、気に入らなかったのかもね」
「学生はバカだと思いますか?」
「そういう生き方しか知らないのは、バカなんじゃないよ、幸せなんだよ」
車の窓から珠為の楼閣が見えた。
地上の建物はせいぜい三階なのに、珠為の楼閣は七十階建て。遠くから眺めている時は狂わない遠近感も、近くまで来ると全体が捉えられないからあやふやになっていく。
多くの学生と、大人(そこには教授陣も含まれる)が一緒になって、夜市が活況を呈していた。
駐車場にはいろんな車が乗りつけていて、キッチンカーが何台も食べ物の香りを立たせて、湯気を上げていた。
「行っておいで。こんなところで友達を探しちゃだめだぞ」
「ありがとうございました」
清流は勢いよく助手席を飛び出すと、屋台飯をあれもこれもと買っては食べて、笑顔をほころばせた。
よく考えれば、この夜市に類する祭りのようなものは、峡谷でもめったになかったけれど、ふるまいだけは板についていた。
楼閣の五、六階に人が階段を使って上っていた。好奇心から清流も、肉まんを片手に上がっていった。
かたたかたたと、階段の音は風情があって、竹を打つようだった。
「大学へようこそ」
降りて来る男女が、清流に声をかけていく。
「楽しんでいってね」
「おいしい? 私もその肉まん好き。好きなのは、にくまんだけじゃな……」
ぽかりと同級生に叩かれる女子大生。
「いたぁい」
「ツザイ、わかってる? 私までバカだと思われるでしょ」
「はぁい。ごめんね、君。お姉さんの悪ふざけに付き合ってくれてありがとー」
螺旋を描く階段を上がって、最初に景色として浮かび上がるのは、十四柱の楼閣。
「田舎者さん」
清流は振り返る。
「朝永燻」
「正解。私、下でミルク茶を買ったんだけど、一人では飲めないから、分けて飲まない?」
手の届くところに使い捨てのカップが用意されていて、清流は、燻の注ぐままに、ミルク茶を飲んだ。
その赤いコートは、楼閣の赤よりよほど濃密で、そんな染め方ができる工房が、この日本にあることが信じられなかった。
「服?」
清流はうなずいた。
「これは、イギリスで買ったの。ロンドンのハロッズで。日本では見ないでしょ? 私もかなり気に入っている。あなたのネクタイも素敵よ。トラウザーズも、いいね。そのチェック、どこかイギリスっぽくて好き。名前、なんて言うの?」
「都原清流」
「ストリーム?」
「そう。クリアなストリーム」
「改めまして、私は朝永燻。気軽に燻と呼んで。朝永は私に固有のものではないから。あなたもそう。清流」
「よろしく燻」
「ええ、よろしくね」
清流は燻と握手した。細長い指は背の高い燻にしては意外なほど小さく華奢だった。
燻は、清流の手を長い間握って視線を注いでいた。店に陳列された茶器を手に取って眺めるようにしげしげと、それから何かを諦めるように手を離した。
「手は、こんなに大きい…………」
「ん?」
「田舎者の手だなって」
清流は、バツの悪い顔をして、右手の甲を左手の平でかばった。
「燻は、城街を世界の中心だと思うの?」
「城街は、ここよりずっと雑然としている。雑然としている中に、人情が生まれ、生活し、そして死ぬ。何か目的があって成立している古都とは違う。清流は城街を臨んだことはないでしょ? いいものよ。孤独が雪のようにちらついて。空を見るの。そうすると暗闇の空にわずかに含まれる粒子が、地上の光を吸って発光するの。暗いの。それはそれは、怖いものよ。お分かり、田舎者」
清流は、燻の言う暗闇の深さがわからなかった。燻が笑顔でここにいる理由もわからなかった。どうして燻が自分を「田舎者」と呼び、親しく話してくれるのかが、わからなかった。
ただ一つわかったことは、清流は古都にいる誰とも互換可能性がないということ。
肉まんをかじって、ミルク茶を飲む。花火が上がったのを見た。それは新入生の清流たちに、先輩が上げた祝いの花火。夜空に開いて散っていった。西条大学だけではなく、遠くで各大学の先輩が、音の大きな打ち上げ花火を何発も何発も。
「綺麗だ」
「隣にもっと綺麗な人がいます」
「いつか、正面切って言える日が来ることを祈ってるよ」
清流は燻のカップにミルク茶を注いだ。満足した顔で、燻はカップの中身をごくごくと飲んだ。もうぬるくなっていた。
「古都の灯篭のような照明は、色も一緒で。城街とは趣が違うけど、これもいいなあ」
いかにも都会っ子が言いそうなセリフで、田舎者は笑うしかなかった。燻が清流の少年時代を体験したら、つまらなくて、これも笑ってしまうだろう。
「それは、暗に城街の街灯はきらびやかでいいと言っているんだね?」
「そんなそんな。古都だって蒔絵を施したような繊細な明かりと、朱色の楼閣が、非常に清らかで、ねえ? 清流。ほらほら、電車が通るわ。電車が走っているのを見ることなんてなくない? ねえ? 何とか言ってよ」
時計は十時を回った。
「お腹いっぱいになったし、帰るよ。またキャンパスで会えるといいね」
「そうね。また」
清流が階段を降りて帰る道を、燻は楼閣の上から眺めていた。さっきまで我慢していたタバコに火をつけて、煙をふっと空中に流す。
十九で城街から逃げた。
「振られちゃったな」