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二章の一「ぽよぉ」

二章の一「ぽよぉ」


 坂西九博も濡れていた。船頭に挨拶をして船を降りる。


「坂西さん」


「いいね。懐かしいね、清流」


「雨がすごいですね」


「古都は雨の都だよ。それに、日本は雨降る国だ。ようこそ」


 九博の差し出した手を、清流はぎゅっと握りしめた。


 もの悲しい暗い空だった。古都の光は雲を光らせる。雲が見えるくらいの明るさが、かえって気分を暗くさせた。


「一度、僕のところに泊まって、それから様々なことを決めればいい」


 九博は手紙でそう書いていた。


 大学のこともいろいろ聞きたかったけれど、九博が意外にもあまり変わっていなかったことに、清流は安堵して言葉を忘れた。


「舞山羊神社というところがあるんですか?」


「ああ、格式の高い神域だ。それがどうしたの?」


「そこのお嬢様に、河ですれ違って」


「ふうん。いいね。おみくじで言えば大吉だね」


「ええ」


 清流はくすっと笑った。


「西条大学は、文字通り古都の西側にある。東には東刻大学。南には青南大学。北には北尉大学。それぞれ名の知れた大学だけど、序列としては、青南大学が一位かな。どれも国立大学で、大学とは言うものの規模はそんなに大きくなくて、十七歳から二十一歳までの四学年の中に、それぞれ千人いるかいないか」


「子供が少ない」


「そうとも言う」


 九博は、清流を先導して電車に乗った。そこで清流は、駅でのお作法なんかを教わる。電車の前方についているライトが、宵闇を明るく照らしていた。雨粒が見える。


「はああ、濡れた濡れた」


 九博は濡れた髪をかき上げる。車窓から見えるのはただ闇だけだった。


 スムーズな走行で電車は音一つ立てない。話し声がそこかしこで聞かれたのに、その内容を追うことは清流にはできなかった。


 自分が方言をしゃべっているんじゃないかということは、少しだけ気にしていた。峡谷の言葉が独特だと聞いたことはなかったけれど、実際に自分の言葉が別の場所に来ても通じるなんて、意外この上ないことだった。


 故郷とは違う空間に来たと、明確にわかったのは、学校から帰る清流より一、二歳年下の子供たちが、制服を着て電車内に押し寄せた時だった。


 彼ら、彼女らはとても早口でしゃべるし、男子の短く切った髪にも、女子の毛先を緩くカールさせた髪にも、違和感というか、ちょっとした文化の違いを清流は感じ取った。


 楽しそうに見えた。こういう生活もあるんだと、ここに来て改めて納得した。小説を読めば、学校までの電車の中で驚くほどたくさんの青春があることがわかる。英語や中国語を読み、建築雑誌やファッション誌を眺め、可愛いクラスメイトと駅で鉢合わせるように、朝起きる時間を操作する。


 でも、峡谷での生活がそれに劣っていたとは思わなかった。


 二人は「遊栄ゆえい」という駅で降りた。一つ隣の駅は「西条」だったから、きっと大学までは歩いて行けるのだろう。


 駅につけていたタクシーに乗り、雨をしのいだ。


 そんなに遠くないところに、塔が見えた。指さして、九博に聞く。


「楼閣だね。古都にはたくさん楼閣がある」


「赤い」


「そうだね。赤い。きれいに朱色に染めて、それから光を当てている。あれは遊栄の楼閣」


「何のためのものなんですか?」


「結界なんだって」


「結界?」


「そう。古都にいくつもある楼閣が、古都の空間を護っている。あれ、運転手さん、いくつでしたっけ」


「十四」


「そう。十四柱」


「昔は、立派な神様ばかりやった。今は、神なんて名ばかりの、後れたまがい物よ」


 清流は運転手の物言いが、なんとなく面白かった。たとえ古都に神がいたとしても、それによって古都での生活が著しく変わるわけではない。それは、神が不在だった峡谷の暮らしに不足や不満がなかったことからもわかる。


 ほんのりときらめく赤色は、雨に光を託して、天へと昇っていくみたいだった。


 小さなマンションにタクシーが着くと、九博はお金を払ってタクシーを出た。走ってマンションの庇の中に入ると、顔認証で門が開く。


「いろいろ用意してある」


 エレベーターを上がると、三階の中庭に出る。


「おお、おかえり」


 ふわふわしたセーターを着た大学生。女子大生も何人か。


 歌を歌う時に込み上げてくる喉を通る熱い息に透明な唾液がまとわりつく。そんなイメージの大学生が、キンキンに冷えたエナジードリンクを片手にレポートを書いていた。


 清流はいきなり自分がいる場所が「どこ」なのかわからなくなった。


「新入生?」


「そうだ」


 九博はさっきと違う声で答えた。


「名前は?」


 遠くから投げかけられた質問に、戸惑いと不快を覚える。


「都原清流です」


「いい名前だね。九博くんと同じところから来たの?」


 清流はうなずいた。


「私は、憂依澄ういいすみ。西条大学の大学院生。いい名前だね。今日着いたの?」


「はい」


「電車で?」


「そうです」


「暗い中、大変だったね」


「そんなことないです。坂西さんに丁寧に案内していただきましたし」


「朝の光がまだ空を覆わないくらいの時間に、きっと都原くんは古都を好きになると思うよ」


 徐々に依澄の輪郭がはっきりしてくる。音楽が耳になじむまでに時間がかかるように、依澄が発するぼんやりとした音の塊に、清流はチューニングする。


「朝?」


「そう。朝。古都の生活者はみんな夜勉強するの。誰も彼もそう。学生だけじゃないよ。夜は小川が色を失うからね」


「小川?」


「あみだくじみたいに分岐した、古都を流れる川のこと。どれも、当たり前だけど、清流だよ。都原くん」


 清流は曖昧にうなずいた。依澄は笑みを浮かべた。ギターの練習をする大学生が、ゆっくりと歌い出した。依澄が手を振ったのを合図に、九博は清流の片手にあった重たい荷物を担いで、三〇七号室に入った。


 清流は依澄に礼をして、九博を追いかけた。


「ここは、大学の一つの顔だよ」


「大学はどんなところにも手を伸ばしているんですね」


 九博は苦笑する。


「もちろん、あんな風に中庭を使う人は、限られているけどね」


「イギリスのポップシンガーのミュージックビデオみたいでしたね」


「嫌だった?」


「端的に言って」


「そっか。僕は結構好きなんだ。どんなところが嫌い?」


「性的な感じがするから」


 九博は笑った。声に出してというより、咳き込んだような笑い声だった。


「ごめん。清流、それは大切にした方がいい感覚だよ。自分がいつ異性を抱くかを、自分で決められない大学生は、みんなクズだからね。憂さんは……憂さんを見て、性的だと感じたのだとしたら……そうだね、僕は少しだけ違う意見を持っている」


 荷物の置き場を定め、リビングルームに椅子をもう一つ用意した九博は、お湯を沸かしてコーヒーを作った。違う意見は、結局積み上げられた日常動作の中に消えた。


「夜にコーヒーを飲むのが好きなんだ。カフェインの覚醒作用なんて最初からなかったみたいにぐっすり眠る。もちろん強制はしないけど。……飲む?」


 清流は首を横に振った。


「あとは、野菜ジュースくらいしかないよ。それでもいいかな」


「すみません。お水をください」


「もちろん」


 喉に空気が入っていくのを感じる。藁を飲まされているような、かゆいいびつな感覚。風邪でも引いたのだろうか? 清流は水をごくごくと飲む。シャワー室(湯船はなかった)で汗と皮脂を落とした後、服を入れていたリュックサックから寝巻を取り出して、机を挟んで九博の正面に座った。


「大学には明日行く。それでいい?」


 清流はうなずいた。


「聞いていると思うけど、一年目は、専門以外のことも学ぶ。峡谷で学んだ清流にしてみれば簡単なことかもしれないけど。専門に分かれるのは二年次から。学生登録も、簡単なものだよ。カード一つもらって、それで卒業まで自由に図書館を使って、学食も食べ放題。住むところも、大学の住居案内に従って、大学を通じて選べばいい。ここもいいけど、たぶん清流は……ん、まあいっか」


 九博がソファの背を倒して仕立てたベッドに、毛布を持ってきて、簡単な寝床が完成した。


「電気は好きな時に消して。電気を消しても記憶は消えないから」


「坂西さんが勉強するなら、僕も……」


「憂さんが言っていたことが気になるのはわかるけど、憂さんは憂さん。今日一時間するなら、一時間早く起きて外を散歩するのがいいよ。押し付けるようで悪いけど、おやすみ」


「はい。……おやすみなさい」


 九博は手を振って自室の扉を閉めた。


 静かな部屋、静かな夜は、九博が隣の部屋で本のページを繰る音すら伝えてくるくらいだった。緊張して体各所の筋肉が強張るのに、高揚感よりはむしろメランコリックなしびれが脳を支配していた。ホテル取ればよかったとまでは思わない。でも、峡谷の部屋のように、水の滴る音が聴こえないのは、寂しかった。


 だから、カーテンの隙間から、朝日がほんのり差し込んで、そのカーテンを引いた時、春の冷涼な空気が漏れてくるのを肌に感じ取って、清流はその戸を開けて、ベランダに出た。


 十四柱ある楼閣の内の七つまでが、清流の視界で紅くそびえたっていた。


 鳥の鳴き声のしない朝。小川のせせらぎが聴こえて、思わず靴を履いて、九博の部屋を出た。音を立てないように、そっと。それでも、急ぐ気持ちを抑えられなかった。


 部屋を出ると、依澄が数式を解いていた。


「早起きだね。あ、私は違うよ。朝眠るのが好きなだけ。どうしたの?」


「小川のせせらぎに誘われて」


「いいね。行ってきな。どの自動販売機にもあるけど、朝は牛乳に限るよ」


 依澄は袖を持って手を振った。


 エレベーターを降りて、マンションの玄関に出ると、日差しが目に入って沁みた。


 さあさあと川の流れる音がする。


 遥か高い空を、大きな鳥が飛んでいる。あまり解像度の高くない清流の目では、その鳥がなんて名前を持っているのか、わからなかった。よく追いかけてみると、楼閣の頂上に止まって、何かを見ている。


 小川が流れるのだからわずかにでも傾斜があるのだろうと思うのだが、遊栄の辺りは全く平坦にしか見えない。トコトコと歩くと、そこかしこに寺院や神社が見える。舞山羊神社はどこにあるのかという疑問がちらっと頭をかすめ、わかるわけないかと反省する。


 自動販売機の前で、牛乳を買おうとすると、小銭ではなく大学のカードを要求された。古都における大学の地位を物語っている。


「あ、旅行の人?」


 後ろから声をかけられる。


「そうです」


 厳密にはもう今日にも大学生になるというのに、カードを持っていないのだから、旅行の人と変わらない。


「うちの大学がおごっとくよ」


 カードをタッチして通りすがりの大学生は牛乳を買ってくれた。


「じゃあね」


 颯爽と駆けていった。地面を蹴る音が心地よい。


 川の音は、建物に遮られたり、風が違う方向に吹いたりすることで近づいたり遠ざかったりしていった。


 通りを歩いていると、唐突に橋の欄干が見えて、思いの外立派な橋だとびっくりしたけれど、いざその橋の上に立ってみると、その橋の造りはとてもシンプルだった。


 欄干に腰掛けて牛乳を飲む。


 橋は人が歩くためだけじゃなくて、車が通るために造られていて、竹や木で編まれたようなプリミティヴなものではなかった。でも歩行面は石材できれいに舗装されていて、欄干にもきめ細かな石が埋め込まれたフットライトがあった。ステンドグラスのような手法で、足元を照らしている。


 川は風を動かし、風は雲を呼ぶ。雲はやがて雨を降らし、その降らした雨が、また川の流れになり、風を呼び、香りをもたらし、人の気分を左右させる。


 同じ場所を歩いたとしても、その空気は以前とは違う。それは、人が変わったのではなくて、天気が変わったとする方が、より真実に近い。川の流れは天をも動かす。


 川面が、二十度三十度しか角度のついていない陽の光を反射して、波のうねりが正面から光を受けてガラスのおはじきのようにきらめく。水の中に閉じ込められるようにして、光の環やアーチがそこかしこにできる。うさぎが跳ぶように、助走をつけた波は跳び上がり、短い時間で着地し弾ける。弾けた水を飲み込むようにまた、波は螺旋を描いていく。


 小川の橋の欄干に乗って、こちらに向け歩いてくる男の子。欄干の道を譲ると、にこっと笑って、そのまま欄干の端に着き、ぴょんと降りる。清流はその男の子を目で追うのを止めた。ああいうのも、神様というのだろうか。


 イギリス製だと一目でわかるような、雰囲気のいいレインコートを着ていたのは、依澄だった。


 ポケットに手をつっこんで、体を左右に振ることで、自分の登場を清流に知らせた。可笑しさと滑稽さを軽くステアした可愛いしぐさだった。


 青のレインコートはとてもしっとりととして発色がよく、それでも決してファッションの主流にはならない、依澄の独特の着方があった。前の開いたコートの中には黒いタートルネックがタイトに依澄の体を引き締めていた。黒のスラックスにヒールの高い革靴。


 茶がかった髪は適当に後ろでまとめて束ねられていて、血の気が抜けた白茶の頬は、化粧っ気のなさを雄弁に語っていた。でも、化粧で美しさや可愛さを誇るというよりも、ややがさつとも取れる格好良さの方を、依澄は重要視したのかもしれない。


「美術は好き?」


「あまり見たことがないですけど、でも嫌いではないと思います」


「少し行ったところに、朝ごはんを出してくれるギャラリーがあるから、九博くんにも来るように連絡しておくし、一緒にどうかな?」


「朝ごはんを出してくれる、ギャラリー?」


「お粥と水餃子。揚げパンとかね。私はスパゲティを頼むけど」


「まるで…………」


「まるでここが中国みたいだって? そんなことないよ」


 依澄はなぜ「そんなことがない」かについて言及しなかった。


 白壁が集まって迷路のように住宅街を作る。各住居には番地が書かれた表札がかかっていて、誰が住んでいるかまでは知ることができなかった。


 白壁と白壁の隙間に看板が立てられていて、パンダのぬいぐるみが光を浴びていた。


「おはようございますー」


「憂ちゃんおはよー。およよ? そちらのお子様は? まさか憂ちゃんの彼氏なんて、そんなことないよねえ? 憂ちゃんの彼氏は私だもんね? 憂ちゃん?」


「彼女は緑橋意寂みどりばしいしず。大学を出た後、ここに住んでギャラリーとカフェをやっている。私の昔の同期だけど、ヤンデレ」


「やんでれー? そんなことないぽよぉ。紹介して。お子様のお名前は?」


 お子様という呼び方に、文句の一つもつけたかったけど、かなり特色のある親しさの顕れと見て、清流は自己紹介をした。


「ぽよぽよぽよぽよ。なるほど。新入生さんか。なんでも食べていって。いろいろ用意するから、ちょうどコーヒーを淹れたんだ。もちろんミルクティーでもいいよ。何なら中国茶淹れようか? 意寂さんは、大学生の胃袋を満たすのが趣味なんだー」


 オーバーサイズのブルゾンと、細いジーンズでまとめている。ところどころパンくずのようなものがついていて、手首の辺り、シンクに立つ時に水が飛ぶお腹の辺りは、ブルゾンの色が変わっていた。


 何人かの学生はもう席について、トーストをかじっている。


「トンさん、今夜麻雀どうかにゃあ?」


「シズさん強いんだもん。賭け金、お店のレジから出てるんだろー? 勝てるわけないよ」


「くるふちゃんは、中国語話せるようになったかにゃあ?」


「还没有」


「非常好」


 コトッとジャスミン茶を「くるふちゃん」のテーブルに置く。


 依澄と清流が席に通されると、頭上に紙でできた鞠と柳がつるされていた。窓が巧妙に明かりを取るおかげで、電気はキッチンにのみ最小限に使われているだけで、店内の白壁が外の光を反射していた。


 壁に掛けられているのは、彫刻が主で、絵は光にあてられることを嫌って、陰にしっとりとはめ込まれていた。


「お子様ー、君はどこから来たのかなー?」


「船で河を下って」


「あー、いわゆる鬼っ子ね。九博氏と一緒かっととと、九博氏ー、おはよー」


 ガチャリと店の扉が開いて、九博が顔を出した。


「意寂さん。朝カレー」


「はいよー」


 とんとんとんと奥の階段から降りてくるのは、四歳くらいの男の子。


「おかあさん」


「どうしたー?」


「おなかすいた」


「お子様。詩御しおの相手をしてあげて」


「おこさま?」


「そこの男の子。たぶん、詩御も気に入ると思うよ」


 椅子の背の骨をつかみつかんで、よたよたと前進する意寂の子=詩御は、意寂の意図を汲み漏らさなかった。


 清流は、テーブルに置いてあった角砂糖を一個取り、詩御に渡した。


 ざらざらと砂にほぐして、唾液で溶かすと、恍惚の表情で「もういっこ」と詩御はねだった。


「紅茶は好き?」


「こうちゃ? すき」


 先ほどくるふちゃんと呼ばれた女子大生が、使っていない椅子を清流たちの席に差し込んだ。


 依澄は詩御をだっこして椅子に座らせた。


「こうちゃ、おいしい」


「お母さんが作ったやつだもんね」


「おかあさんは、いつもかわらない」


「そうだね。変わらないね。大学生だった頃から全然変わらない。詩御くんが生まれる前から、変わらないよー」


 依澄は楽しそうに詩御に話しかける。


「おこさまは? おこさま……なんで?」


「ここでは詩御くんの次に若いからかな」


「なんてなまえ?」


「清流だよ」


「どらごん?」


「ううん。ストリーム。川の流れ」


「はしをかけるぞ」


「うん。お願いね」


「みてて。はしをかくとちゅうだから」


 詩御はとてとてと上階へ戻っていった。


「はい。九博くん、カレー。お子様は、何がいいか聞かなかったけど、憂ちゃんと一緒のミートソーススパゲティ、サラダ付きだぽよぉ」


 ミートソースのボリュームは、殺人的で、でも清流に、これくらいは食べられると思わせる、絶妙な量だった。依澄に出されたミートソーススパゲティも同じ量だったが、依澄はそれが通常仕様なのだと言うように、もぐもぐと美味しそうに食べていた。


 サラダにかかっているドレッシングは、ニンジンとニンニクのすりおろしがベースで、オリーブオイルで伸ばされていた。かなり高価な味わいだった。


「せいりゅー。はしをかける。みてて」


 クレヨンと画用紙を持ってきた詩御は、清流が見やすい位置の床で、お絵描きを始めた。


 依澄の頬杖をついて詩御を見る顔はとても魅力的だった。朝の喫茶店は、こんなにもにぎやかなんだ。


「せいりゅー、はしかけた」


「描けたと架けたを掛けるなんて、すごいぞ」


 九博が、伝わらない賛辞を贈る。


「せいりゅー、はしかけた」


 詩御は完全に九博を無視して、清流に橋が架かった川を見せた。


 途中まで橋を横から描いていたのに、どこかで視点が切り替わって、清流が欄干に腰かけて立っている姿が出来上がっていた。


「せいりゅー。きょうはきてくれてありがとう」


「どういたしまして」


 撫でられるのを待っているみたいに、詩御は清流のそばに来て頭を寄せた。


「お子様。別に気持ち悪かったら撫でなくてもいいから」


 詩御がびくっと震えた。清流のシャツの裾をぎゅっと握った。


「気持ち悪いなんてこと……」


「でも、そんなことしたことないって顔している。意寂さんは、子供が媚びるのを見るのが嫌いなんだ。昔の自分を思い出すからね。いらっしゃーい。ほらほら、そろそろお子様は初登校だろ? あれ、お代は憂ちゃんにつけておいていいのかな?」


「そうして……っと、九博くんは自分の分払ってよね」


「もちろんだよ」


「憂ちゃん、また来てね」


 店の外まで見送りに来る意寂の後ろで、詩御は清流に手を振っていた。意寂が振り向くと、何もしていないですよと言わんばかりに、壁に目をやっていた。客は詩御のそのふるまいが愛おしくて、また、客の前で甘やかすことのできない意寂のことも思いやって、またこの店に朝ごはんを食べにやってくる。

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