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一章の二「浮かぶ桜」

一章の二「浮かぶ桜」


 船頭がタバコを吸っていた。


「十時間くらいかかるよ。聞いているかもしれないけど。本はオススメしないなあ。濡れるし、酔うから」


 背中から荷物を下ろして、船に乗る。エンジンをかけて、船が出発する。


「いってらっしゃい」


 誰の声だったかわからなかったけれど、峡谷が言祝ぐように鳴いた。カラスだったかもしれない。


「西条大学?」


「そうです」


 船頭の質問に、清流はうなずいた。「坂西さんが、呼んでくれたんです」


「そっかあ。九博くんも。立派だ。俺はよく古都へ行く学生さんを運ぶことがあるけど、坂西くんは特別頭いいように感じたな」


「僕は今一つです」


「そんなことない。都原さんはお父さんが優秀なことで有名だったけど、お母さんも才媛で、兄さん方は、誰が結婚するのかってやきもきしていた。お似合いだよ。でもそれにしちゃあ、清流くんは凡庸…………いや失礼」


「いいんです。でも、頭いいと責任も重くなるから、これくらいでいる方が楽でいいんです」


 船は峡谷を出ようとしていた。切り開かれた山の斜面に陽光が当たる。まぶしくて目を細めた。船は蛇行する河を西へと進んでいった。太陽が船体をかすめた時、清流は濃い陽光の雨を浴びた。


「いい顔だ。清流くんは喜ぶべきところで喜ぶことを知っている。これが、世界の当たり前だよ」


 船頭は満足そうに笑った。


「当たり前?」


「常識ということさ」


 両岸の樹々が風で緑を揺らす。水の香りがする。墨色だった河は、グラスが光を屈折させるように、陽光から青を抽出してきらめいていた。


 清流の真っ黒な瞳は、太陽の光を強く取り込んだ。船の上で皮膚がじりじりと焼かれる。周囲の景色が白く発光する。体から水分が蒸発していく。


 春の河辺には桜が咲き、花びらが舞っていた。


「春だね。本当に」


 船頭はタバコに火をつけた。ふーっと煙を吐く。こんな晴天のもとで吸うタバコはさぞやおいしいだろう。


 気がついたら、川幅は広がって、橋が架かっていた。大きな橋で、道路が通って、車が走っていた。それは、峡谷に架かっていた橋とは様々なところが異なっていた。でもそれがどう異なっているのかを簡潔に述べるのは、清流には難しかった。橋というものの役割は変わらないのだ。


 トラックのような大きな車が通ると、橋梁が軋んだ。橋の剛直さとしなやかさは、峡谷のものとあまり変わらないようだ。峡谷も、太った人が渡る時は、ゆさゆさと揺れる。


 赤く塗られた橋をくぐると、ちらちらと建物や人が見えた。


「この橋は、明石橋っていう。ここから先は、古都の領域。もう峡谷ではない」


 船頭は言った。


 後ろを振り返ると山はもうすでに遠く、山桜の色が山肌に染みついて、まるで雪の白と血の赤が混じった、とても鮮烈なのに違和感のない、自然がそこにあった。


「山は、きれいだからね。俺は、あんまり知らないけど、山河を見ずに大人になる人もいるらしい。心が動かされるのと同時に、どうしようもない悲しみに襲われる。それが、自然だよ」


「どうして悲しいんですか?」


 清流は船頭に聞いた。


「どうしてだろうなあ。説明すると陳腐な気もするから、あんまり言葉にしたくないんだけどさ、地球という大いなる自然の中の、山や河という大きな流線形と、自分の思考とが、全く関係ないんだなって思うと、思考や、それこそこうやって船を動かしている意味が、埋没していくんだよね。一番虚しいなと思うのは、記憶が自分の生にとってのみ形があって、他者と記憶が共有できないこと。自然とか環境に理解や共有を求めることはできない。俺も、理解できないから」


「世界には僕一人しか存在しない」


 船頭は口笛を吹いた。野鳥の鳴き声みたいに遠くまで響く。


「バカだよねえ。正しさみたいなものを追究する過程で、そんないびつな結論にたどりついてしまうんだから。人間には思考の隘路がある。鳥には袋小路はないというのに」


 船頭は、あえて「独我論」という言葉を使わなかった。


「でも、僕は、あの光きらめく峡谷の中で、生きている人は一人もいなかったと思います。つまり、誰にも世界に存在していなかった」


「それは、面白いねえ。あなぐらに住むことが、俺たちを人じゃなくしている」


「みんな死が怖くない」


「そうだね」


「僕も、全く怖くない」


「そうだろうねえ」


 船頭は立った姿勢で少し遠くを見つめていた。にやりと笑うと、清流の目にも下流側から、こちらに向かって遡上する船が見えた。


 清流が乗っている船よりも少し大きい。すれ違う前に船体を寄せて、船頭は一言二言向こうの船頭と会話した。


 乗っていた女性の顔に、かざした手の影が重なっていた。年齢は清流より三歳くらい年上で、大層美人だった。こちらに興味がないらしい。遠くを見て、笑みを浮かべていた。古都から来た女性だということはすぐわかった。服の華美なところはいささかもなかったが、身につけている黒のタートルネックも、チェックのマフラーも、腰に巻いているパターンの入ったスカートも、どれもかなりしっくりきていた。


 膨らんだ胸の上に、マフラーの結び目がのっかっていて、自分の美曲線を尊大にも主張していた。わずかに黒が差した茶髪は、染めたものではないだろう。


「旅行ですか?」


 清流は女性に聞いた。女性はゆっくりとこちらを見ると、わざと笑みを作らずに、曖昧にうなずいた。おそらく旅行ではないのだが、旅行以外のなんであるかを推測することは全くできなかった。


「お兄さんは?」


 フルートが言葉を発したのかと思うほど、澄み渡った声だった。船頭は、体を強張らせた。


「古都に住むことになりまして」


「それはそれは。でも見たところ、お兄さんはうまくやられるような気がしますねえ。おみくじでいうところの大吉。山々はお兄さんの背中を押してくれていますし、一つ難しいことがあるとすれば、今度峡谷へいつ帰るかわからなくなることくらいでしょうか。ようこそ古都へ」


 袖を指で押さえながら、女性は清流に手を振った。


「私の名前は、舞山羊心まいやぎこころ。古都には舞山羊神社というものがあります。御守りでも求めに一度行ってみてくださいな」


「都原清流です」


「都原くん。またどこかで」


 まぶたでアーチを描いて、柔和な笑みを浮かべた心は、清流の船が進むことでだんだん遠くへ行き、小さくなっていた。


「恋した?」


 船頭は、笑うというよりは心に対するある種の敬意を表明するように、清流の気持ちを推し量った。


「恋というより憧れのような、いえ、何とも言えません」


「ああいうのは珍しい。最近は見ないね、しっかりとした神様だった」


「そうですね。神様でした」


 神様という言葉は、古都の人を形容する時によく使われる。超然として様々な文脈から逸脱しているような、ふわふわとした現実感のなさを揶揄するために、そういう言葉が選ばれていた。でももちろん、その凄みや隔絶した存在感を示すために「神様」という単語が真実味を持って語られることもあった。両義的な単語は、それだけ多様な古都の人間を包括的に言い表すために開発された概念語だった。


 峡谷が「鬼」、古都が「神」、そして城街は「人」だと言う。


 人は本当に人に生まれるのか。生物学的に人だということは、人を本当に人足らしめているのだろうか。


 人は、この小さな日本でも、鬼であり、神であり、そして人であった。


 コップをコップと認識するのは、理性であり、人を人として地から浮き上がらせるのも、人間の理性。


 しかし、理性は人の顔をした鬼を、それも生物学的に人である鬼を、人と区別することはできない。鬼は人に宿った性質でも、人に代わる概念でもない。ただ、峡谷で育ったということそれだけが、理性の及ばない範囲で、その人を鬼足らしめる。それは、今のところ中国人と日本人を文化や言語で区別するのと同じような働きだった。


 川幅ほどに広がった大群の雁が、東へと河の上空を飛んでいく。先頭で群れを率いている一羽から山を描くようにくっきりと空にマークをつけていく。


 音楽が聴こえたような気がした。彼方の古都のテーマソング。笛と篳篥、鐘の音。


 春霞が降りる。空が雲に覆われて、湿気が増す。


 唐突に、清流は今、自分がこの国のどこにいるのか確かめたくなった。


「後、何時間かかるでしょうか?」


「三時間。でもわからない。霞が降りているから、違う世界に誘われることもあるかもしれない」


「違う世界」


「よくあるんだ。同じ古都でも違う古都。いくつも古都があって、行く度に違う雰囲気を感じる。もちろんそこで生活している人は、どの古都でも変わらず、同一性のある古都を演じている。でも、俺は思うね。今、俺がどこにいるかは、衛星が教えてくれても、それを信じて納得できるものではない。俺と場所とは何の関係もないし、俺は、同じ河で人を渡している時に感じる、この河道を覚えているという感覚を、古都の桟橋につける時に見失ってしまうんだ。街は毎回表情を変える。それは、異なる場所にたどり着いたと思う方がよっぽど説明になっている。俺はそう思う。でもそれは、俺が峡谷から逃れられないことを意味しているのかもしれない」


 清流は、なんとなくこの船頭とは感覚が違うと思った。自分は古都に住むし、そこの人とやりとりをする。知識が積み重なれば、視野は自然に広がる。朝と夜で街の空気は変わるし、また人の気分も変化する。そんなことは当たり前なのだ。


 だから、船頭が言っていることは、違う古都を見ているのではなく、同じ古都を違う自分が見ているのだと言い換えることができる。


 霞はずっと周囲を取り囲んでいた。水滴の気象現象は、陽の光の白い線を見えるように散乱させ、空間としての光の球をいくつも重ならせて作り出した。


 太陽は暑さをもたらし、霞の降りる湿度で急に汗ばんできた。目の前に赤い光がよぎる。それが車のテールランプだとはわからない。水鳥が飛び立つ音も、知っている音とは違う風に聞こえた。


 少しの息苦しさから、清流は周囲を見渡した。均一に空間を満たす水滴が、清流を孤立させた。船頭に話しかけることも考えた。でも、話すことによってもっと苦痛が押し広げられるのではないかと危惧して、結局は話さないままでいた。でも、考えたことで、清流に対する霞の心理的圧迫は一層重たくなった。


 陽が傾いた。春の陽気が収まり、気温が下がり、徐々に霞が晴れていった。


 川幅はかなり広くなり、ぽつんと一艘、河中に浮いている。


「嫌だ嫌だ」


 船頭は独り言を声に出して言った。


「嫌だ嫌だ」


「何がですか?」


「また、峡谷へ帰んなきゃいけない。それが嫌だ」


「ああ、遡上するのは時間がかかりますもんね」


「夜の河上りは神経使うから、明け方から行くんだ。道路のように、河岸を照らしてくれる明かりがあれば、船も車も変わらんのにねえ」


「面倒ですね」


「面倒なのよ」


 船頭はこきりと首を鳴らした。


 ふうと清流は息をつく。


「ああ、でも」


「はい?」


「でも、古都に着く頃は、時間がぴったしだ」


「時間?」


「ああ。まあ、見てりゃわかるよ」


 大きな鉄橋が、見える限りで何本も架かっていた。電車が通るのも見えた。電車の中の人までは判然としなかったけれど、この船旅のクライマックスが近づいていることを、清流はひしひしと感じていた。


 河岸段丘の上の方には、果物が植わっていた。


「あれ、何ですか?」


「みかんだよ。峡谷へ来るみかんは、そんなにおいしくない。ここらで箱入りのみかんを買うと、とびきりうまいんだ」


 あと一時間で古都の桟橋へ着くというところ。両岸の丘陵には住宅がフジツボのようにへばりついていた。鴨がそばをすーっと通り過ぎていった。


 夕焼けが空いっぱいに広がり、赤く熟した太陽が、西の水平線に入り込んでいく。視線の先の揺らめく輪郭が、夕陽の存在をあやふやにさせていて、それが何より趣深かった。


 雲の下をどんどん下りていく。地上に残る半球が形を変える。丁度上空の雲を赤く光らせると、とぷんと水平線に沈んだ。


 ざわざわと山の方から雨雲が降りてきて、やがて上空を埋め尽くす。


 清流が船着き場に着く頃には、本降りになっていた。

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