3.ノエルの過去
ノエルには、幼少期の記憶があまりない。彼は本来国王の側室の子供で、王位継承権を持つ存在だった。
だが、ある日、彼は五感が無くなる呪いにかかってしまう。目が見えない、耳が聞こえない、香りがしない、味がしない、手指で物に触れても何も感じない。そして、彼自身は見えなかったが、体の上から下まで赤い細かな亀裂のようなものが肌の上に浮かび上がった。それは、呪いが彼の体を蝕む姿だ。幼い彼は、自分に何が起きたのかわからなかった。おかげで、毎日気が狂ったように泣き叫んで、人々を困らせていた。
毒物を飲んだわけでもない。周囲は暗殺者の一人も入れないように警戒をされていたので、物理的な攻撃は出来なかった。
「それは、カタールの呪いです。簡単に殺すわけでもなく、ただ本人が苦しむ姿を見たい、じわじわと狂っていく姿が見たい。そういう意図があったのでしょう」
後からそういうことを聞いた。そして、その呪いは彼がかかるはずではなく、側室だった彼の母親に向けられていたはずのものだったと。そう言われれば、彼にはなんとなく覚えがあった。母親の誕生日に贈られた様々なプレゼント。それに興味を惹かれた彼は、勝手にその中のひとつを開けたのだ。それが、よろしくなかった。
その呪いはコップに水を注ぐようにじわじわと溢れる時を待っていたようで、最初は何も表面に現れなかった。当人も、世話をする周囲も誰も異変を感じ取らずに時間が過ぎた。静かに一か月、二か月と緩やかに呪いは彼の体を蝕み、ある日。まるで水がこぼれたかのように、一気に彼の体に赤い痕を浮かび上がらせて、それらは彼を襲った。
それからは、地獄のような時間だった。何も感じない。何も出来ない。この世界には自分一人しかいない、闇の世界。それをどう乗り切っていたのか、既に記憶がない。あまりにも恐ろしい空虚な時間を、後の彼は記憶の引き出しにしまって鍵をかけた。
彼が呪いにかかっている間かすかに覚えているのは、ただただ暗がり。目を開けているのに見えず、耳には何も聞こえない世界。自分の体内で発生する音すら耳に届かない、まさしく何もない世界だ。
それでも生きていれば腹が減る。口の中に運ばれる何か。まだ口の中の触覚はいくらか残されていてよかったと思う。入れられた何かを噛まなければいけない気がしたが、よくわからない。よくわからないが噛む。飲み込む。起きていても何も出来ない。見えず、聞こえず、気が狂うような日々。やがて、起きて、食べて、寝る、それを繰り返すだけとなり、言葉も発さずに彼の心はすり減っていった。
本当はもっと苦しかったのだと思う。だが、今の彼はその記憶を封じて、ただ「そうだったな」とぼんやりと思うだけだ。人には覚えておかなければいけない記憶とそうではない記憶がある。彼の脳は、それらを後者に位置付けた。
そして、彼がようやく視覚を取り戻した時。目を閉じても瞼を貫通する光に驚いて、彼は恐る恐る目を開けた。明るい光に目が潰れそうだと思い、すぐに彼は瞳を閉じた。耳に入るのは、わあわあと叫ぶ――思い返せばきっと叫んではいなかったのだと思うが彼にはそう聞こえたのだ――人々の声。それから。
「ようございました……それでは、わたしはこれで失礼をいたします」
そう言って頭を下げた誰かの姿。後から、それが呪術師の中でも、解呪に特化した「解呪師」だったのだと知った。人々はその解呪師に礼を言ってはいたが、態度は上からのもので横柄だった。何故ならば、呪術師や解呪師は人々に忌み嫌われているからだ。そして、ノエルは自分に何が起きていたのかがよくわからなかったので、その解呪師に礼を言えなかった。それだけは、大人になった今でも後悔をしている。
母親は解呪師を何人も呼んだと聞いた。父親である国王の力も借りたらしい。だが、彼の呪いは簡単に祓うことが出来ないものだったのだ。5人の解呪師に見せても、みな「これは無理です」と匙を投げられたと言う。最後に、もうこれで駄目ならば諦めようと高額を出し、遠くの大陸から呼んだ女性になんとか祓ってもらえたのは、呪いが現れてから一年が経過した頃だった。
しかし、呪いを祓われた後でも彼の顔や体には一年にも渡って彼を蝕んだ、多くの呪いの痕跡が残っていた。おかげで今でも彼は顔だけでなく、体のあちこちにも赤い亀裂のような線が残っている。顔の上半分を、胸部を、腹部を、背中を、腕を、太ももを、ふくらはぎを。それでも、彼が呪いにかかっていた時に比べれば、これでも少なくなったのだと聞いた。
「あの赤い痕を見ると、ぞっとするわ」
「あの痕がついた顔で、よく人前に出られるものね」
王城の女中たちはこそこそと陰で噂をした。呪いが祓われたと言っても、その痕は痛ましく、そしてどこかおどろおどろしくも見えたのか、人々は忌み嫌った。痕が残る体は服で隠れたものの、顔を隠すわけにはいかない。それを見た者たちはみんな「なんだか不吉だ」と口をそろえた。更に、それを後押ししたのが、彼の母親の死。彼が解呪をした二年後に、彼女はよくわからない病気にかかって死んでしまった。
母親の病気は呪いではない、と解呪師は言った。もしかしたら、彼が呪いにかかっていた時の一年間の心労のせいかもしれない、と推測でいい加減なこと――と彼は思っている――を言ったせいで、余計に彼に非難が集中した。本来ならば、彼女が受けるはずの呪いを彼が受けたということは二の次となり、ただひたすら彼が呪われた王子なのだという噂だけが広がった。
害はないはずだったが、それでも人というものは見た目で様々なことを判断する。彼が王族であることを望まぬ声が大きくなっていった。初めのうちは国王も彼を庇っていたが、自分が愛していた側室が死んだことで徐々に心が弱り、人々の声を無視出来なくなっていった。仕方なく彼を王族から除外することを決断し、公爵家の養子にすることに決定した。当時、公爵家には子供が恵まれず困っており、かつ、彼らはノエルの呪いをなんとも思わない稀有な人々だった。心優しい公爵と公爵夫人は、喜んで彼を迎え入れることとなる。
「わたしたちにはなかなか子供が恵まれません。あなたが養子に来てくだされば、とても嬉しく思います」
そう言って自分を見つめる公爵の目からは、自分を蔑むような感情は見えなかった。ノエルは、失われた一年間に反して聡明な子供だったので、自分が公爵家に行くことで多くのことが丸く収まると気付いていた。
「はい。そうします。それでは、あなたを父とお呼びしてもよろしいですか」
一家臣に、即座に謙った言葉を使うノエルに、公爵は驚きの表情を浮かべた。側室の子供とはいえ、王位継承権を持つ身分だ。そんな彼が、そうやすやすとそのような言動に至ったことに思いを馳せつつ、公爵は「我が家にいらしてからにいたしましょう」と告げることが精いっぱいだったと、後にノエルに話した。
そういうわけで、彼は養子として公爵家の長男になったが、それから数年後、公爵家は子宝に恵まれた。公爵夫妻は彼のことも分け隔てなく大切に育てていたが、彼は自分が次期公爵の後継者にならないようにと、騎士団に入団をした。この国の貴族は、後継者になれない第二子以降のみ騎士団に志願をすることがほとんどだ。よって、第一子の扱いだった彼は異例と言えたが、実力で入団を可能にした。
入団と同時に、彼は顔を仮面で隠すことにした。それには王城からも許可が出たし、騎士団の誰も文句をつけることもなかったし、いたずらでも仮面の下の素顔を見ようとする者もいなかった。何故なら、噂には尾ひれがつきもので、彼のその「呪いの痕」を見ると呪われるという話が広がっていたからだ。そして、それはそのまま今に至るが、その一方で騎士団員の多くは「噂は噂だ」と考え、案外と公平に彼に接してくれている。
それでも、仮面をつけた彼は騎士団員以外にはいつまでたっても、まるで異形の者を見るような目で見られていて、どこでもひそひそと陰口を叩かれていた。彼は、それを気にしないように、それを忘れようと剣にも勉学にも打ち込んだ。生活に余裕があると、耳に余計なものが入ってきてしまう。だから、ただひたすら己を高めようと、人々の声を耳に入れないようにと努めて来た。
「ノエル。聖騎士の称号、おめでとう。大したものではないが、わたしからの贈り物だ」
気づけば彼は聖騎士となり、続いて先日第三騎士団長になった。聖騎士になった時は、父親である公爵からマントが贈られ、騎士団長になった時には馬の鞍を贈られた。それらはどれも、彼にとっては目標でもなんでもなくただの結果だったが、公爵夫妻は喜んでくれたので、それだけで良いと思えた。