24.庭園
月光が雲に隠れて、庭園にさあっと影を落とす。室内で灯された燭台がぽうっとエーリエの表情を照らした。
「そんな目で、か」
「そのう、わたしは人の顔を見られるようになって、まだ少ししか時間が経過していませんが……それでも、ノエル様が今少し悲しそうな表情であることはわかるつもりですし……その上、わたしを見るその目が、なんといいますか、そのう、憐れんでいるような? そんな気がします」
「……すまない。そういうつもりでは」
「ええ、ええ、そうですね。きっとそうなんだと思います」
ノエルはエーリエの言葉に胸を刺されたように感じる。確かに、自分はエーリエに謝罪をしなければと、それだけで焦っていた。
そして、謝罪をするよりも、先に。彼女に自分の気持ちを打ち明けたかった。謝罪の後では遅いと思ったからだ。だから、無理矢理剣術大会に彼女を招待した。今、ここで行っている謝罪は、本来剣術大会を終えた後、森を訪れてするはずだったのだ。
「あの、このピンクの外套はいただきます。もう、一日着てしまいましたし……ですから、ええ、ありがたくいただきます。今日は、髪も結っていただいたり、化粧をしていただいたりと……夢のような日でした」
「……そうか」
「ですから、ノエル様からの謝罪や、そのう、解呪の礼というようなものは、これで終わりにしていただけないでしょうか。きっとそれは、ノエル様の気が済むような日は来ないのだと思います」
「!」
エーリエはかすかに微笑みながら、はっきりと言った。どもらず、すらすらと述べる彼女は、いささか事務的だ。何か、感情を押し殺して、言わなければいけない上澄みを必死に紡いでいるようにノエルには見える。
「ノエル様の体に残っていた呪いは先日解呪しましたし……その、もう、わたし、に用事はないですよね……あの、次回、公爵様と奥様にご挨拶に参りましたら……指輪もお返ししますので……」
「エーリエ?」
「ですから、ノエル様も……わたしが差し上げた羅針盤を返していただけないでしょうか……」
「何故そんなことを言うんだ?」
「だ、だって……」
エーリエは目を伏せる。彼女の綺麗な菫色の瞳はまつ毛によって影を落とし、感情をノエルに伝えない。だが、彼女の口から出た言葉、その声音だけで十分すぎるほどの気持ちをノエルは汲み取ることが出来た。
「あんなすごい馬車をお持ちで……こんなすごいお屋敷で、こんなすごい庭園で……こんな、美味しいお料理をお食べになって……いつも、いつも質が良いお洋服を着ていらして……あんな、剣術大会で優勝してしまって……なんでしたっけ、そう、騎士団長でいらして……それどころか、本当は国王陛下の息子さんだったなんて……改めて、わたしと違う世界に住んでいらっしゃる方なんだって……」
エーリエはぼろぼろと涙を零しながらそう言った。彼女の言葉をノエルは否定を出来ない。それはわかっていたことだ。わかっていたからこそ、彼は彼女に手を貸そうと、馬車を手配し、ケイトに依頼もした。それが彼なりの誠意だった。
確かに剣術大会で、あれだけ多くの人間の中、彼女から花冠を欲しいと思ったのは自分の我儘だったし、それは悪いとは思っている。けれど……。
「わ、わたしは、森の中でだけ生活をしていますしっ……世間のことはよくわかっていませんでした……あんな沢山の方々に応援をしてもらうような……そんな、そんなすごい方だったなんて……い、今まで、そのう……これっぽっちも……わかっておらず……」
それが一体何だと言うのか。ノエルはそう言おうとしたが、その言葉は傲慢だ。彼女が言うように、彼女はずっと森の中でたった一人で生きて来て、城下町ですらほとんど出歩くこともなく生活をしていたのだ。わかっている。わかっていることだった。
そして、自分だって、あの森の中で、二人きりで過ごすあの時間が好きなのだ。自分は、彼女を自分の世界に連れて行きたいわけではない。それを理解してもらわなければ……と、ノエルは焦った。
「あのっ、公爵様や奥方様、それから聖女様に、とてもよくしていただきました。でも、わたしはいつも、何を答えれば良いのかもわからず……ですから……ノエル様には、もっと、もっと、お似合いの……」
そこまで言って、エーリエはしゃくりあげた。ノエルは驚いて目を見開く。「エーリエ」と名を呼べば、彼女は「うっ……」と自分の口を両手で押さえた。
エーリエは、心の中で「黙れ、黙れ」と自分に言い聞かせる。本当は、言葉の途中だ。続きを言わなければいけない。だが、口を開けば泣き言が出そうになる。彼女は生まれて初めて、自分を律することがこれっぽっちも出来ず、感情に大きく振り回された。
こんな風になることなぞなかったのに。普段、何に驚いても、何におどおどとしても、冷静に考えたことは必ず守れたのに。なのに、つい、口から音が漏れる。
「駄目だわ……駄目。そんなの嫌……」
「エーリエ……?」
「ごめんなさい、ノエル様、わたし……わたしは……」
エーリエはテーブルに突っ伏した。彼女の髪が、食べ終わった皿に入りそうになり、ノエルは慌ててそっと髪をすくう。エーリエはそれに気づかないように唸った。
「うう……ごめんなさい……ごめんなさい……うまくいかない……うまく出来ずにごめんなさい……」
「何を謝っているんだ」
「わたし、ノエル様のことが好きなんです……身の程知らずと思われても仕方がありませんが、ノエル様のことが……ごめんなさい……」
ノエルは軽く唇を開けた。しばらく驚いて彼女を見ていたが、ハッとなる。それから、彼は慌ててエーリエの横に移動をし、膝をついて彼女に寄り添った。
「エーリエ」
「好きです……」
わずかに掠れた小さな声。エーリエはテーブルに突っ伏し、自分の顔を守るように両腕で囲う。ピンクの外套を羽織った肩がかすかに揺れる。ノエルはその彼女の肩に手を置いて「エーリエ」と優しく名を呼んだ。だが、彼女はそれに反応せずに、静かに泣く。
ああ、夢のような一日だった。初めてお化粧をして。綺麗な外套を着せてもらって。立派な馬車に乗って。その上、ノエルは優勝をして、自分が花冠を上げて。そして。
(こんなわたしのことを好きだとおっしゃっていただけるなんて)
それだけで十分だった。舞い上がった。けれど、それと同時に自分と彼の身分差があまりにも大きすぎて愕然とした。それまで曖昧にしかわかっていなかったものを、見せつけられた気がして、エーリエにはショックが大きすぎた。
なのに。
それでも、自分は彼が好きなのだ。沢山言い訳を口にしながら、自分の心を飲み込もうとした。なかったことにしようとした。なのに、これだ。エーリエは自分を情なく思い、ノエルに呆れられるのではないかと恐れ、顔をあげることすら出来なかった。
だが、そんな彼女にノエルは優しく声をかけてくれる。
「エーリエ」
二度目の声掛け。それでも、エーリエは顔をあげることが出来ない。
「雲が、晴れた。美しい月が見える」
しばらくエーリエはそれに答えなかったが、ゆっくりと、涙に濡れた瞳を開けて顔を少しだけあげる。彼女が入って来たドアがあけ放されたその先。さあっと雲が晴れ、月が姿を再び見せる。月光がこんなに明るいなんて、と、普段、夜になると家からでなくなる彼女はぼんやりと月の姿を見た。
「綺麗……」
「ああ。綺麗だ」
ノエルは静かに言葉を続けた。
「暗闇の世界にいたわたしは、そこから救われたと思っていたが、それでも仮面をつけて生活をしていた。不自由を感じなくなったと思っていたが、いざ仮面を取ったら……不思議なもので、何もかもが違う世界がそこにあった」
「え……?」
「おかしいだろう? 仮面をしても、目は普通に見える。そのはずなのに、もっと世界が広がったように感じてな……それまで、自分の視界には必ず仮面の端が見えていた。それは当たり前のことだったから、いつからか気にならなくなっていたが……本当はそうではなかったんだ。それを教えてくれたのは君だ。だから……」
ノエルはエーリエの瞳をじっと真剣な表情で見る。エーリエはそれから視線をそらすことが出来ず、不安そうに彼を見つめ返すだけだ。
「君と、見たかった。美しい月も、深い夜も、瞬く星も。清廉な空気が漂う朝焼けの姿も、何もかも。君と」
「!」
そんなことは嘘だ、とエーリエは思う。だが、思った直後にそれを否定した。ノエルは、嘘を言わない。自分にはいつも彼は真摯に向かい合ってくれていた。それを知らないわけがないのだ。
「ノエル様」
「うん」
「ごめんなさい……わたし……ノエル様のことが……好きなんです……」
「うん」
恥ずかしそうに呟く声は小さい。彼女はノエルの方を見ることが出来ず、まるで独り言のように囁いた。けれど、それは独り言ではないとノエルにはわかる。
「わたしも、君が好きだ」
ノエルはそう言うと、テーブルの上に置かれたエーリエの手をとった。その手を、すっと彼女の膝の上に置くと、エーリエはその手を見ながら、隣に跪いている彼の方を自然に向いた。絡む視線。
「何度でも言う。君が好きだ」
「ほ、本当に、何度も、おっしゃいますね……」
「嫌なのか?」
ノエルの言葉に、エーリエはぶんぶんと首を横に振った。まだ目に残っていた涙はそれで飛び散り、頬から顎に伝っていた涙もぽろりと落ちる。
「もう一度だけ、わたしにも言ってくれないか?」
「……わたしも、ノエル様が好きです……」
そうエーリエが言うと、ノエルはそっと彼女の頬にキスをした。エーリエが「濡れていますので……」とわけがわらかないことを言うと、ノエルは「じゃあ、何度しても問題ないな」と更にわけがわからないことを返したので、エーリエは困った表情になったが彼からのキスを受け入れる。
これからどうなってしまうのか、エーリエにはまったくわからなかったけれど、ただ、今この瞬間だけは許されたい……そう思いながら、彼女は涙が残る瞳を閉じた。