19.招待
夜遅い時刻。森はしんと静まり返って、夜鳴く鳥の声だけが響く。月が高い位置から夜の光を降り注いでいた。
夕食を終えたエーリエの家に、ノックの音が響く。彼女が驚いてドアを開けると、そこには夜露に濡れた外套を纏ったノエルが、ランタンを持って立っていた。
「ノエル様!」
「エーリエ。遅い時刻に大変申し訳ない」
「い、いえ、それよりノエル様お体の具合は……」
エーリエは一瞬手を伸ばして彼に触れようとしたが、はっと気づいて手を止めた。見れば、彼の胸元には何も問題はなかったし、何より、その穏やかな表情が十二分に彼の無事を知らせてくれたからだ。
「あっ、中にお入りください」
「ありがとう。失礼する。具合はありがたいことに完治して、以前より調子が良いぐらいだ」
そう言いながらノエルは家に入ってドアを閉め、足元にランタンを置いた。火をつけ直すと面倒なため、ゆらゆらと炎が揺れている。
「火はよければ後ほどつけ直しますよ」
とエーリエは声をかけた。ノエルは「では言葉に甘えて」と言ってランタンの火を消す。
「お体に差しさわりがないなら、本当によかったです……あっ、お茶をお淹れいたしますね……」
「いや、時間がないので、それは良い」
「えっ……ああ、そうですね。夜ですものね……こんなお時間にどうなさったんですか? そ、そうだ、羅針盤を使っていただいたんですね? ありがとうございます」
「ああ。これの礼もまたしなければいけないが」
茶はいらないといわれたが、せめて、とエーリエは椅子を勧めた。ノエルは素直に座る。
「まずは、最初に。先日は助けてくれてありがとう。君には感謝をしてもしたりないほどだ……あの、以前返却したポーションを使ったのだと聞いた」
「あっ、はい! その、うまくいってよかったです」
「うん。あれがなければ、わたしは死んでいたようなのでな。父からも聞いたが、とんでもない効き目だったようだ」
「あのっ、お父様はっ、本当にノエル様のお父様……だったのですね?」
一瞬その言葉の意味が分からなかったようで、ノエルは目を瞬いた。が、ようやく思い至ったようで、苦笑を見せる。
「ああ。あの日のことかな。わたしの命に支障があると聞いて、すぐに王城にやって来たようだ。部屋が狭かったし、聖女が治癒をしているということだったので、母は家で待っていたが」
「そうだったのですね……そのう、とても穏やかで、ノエル様とよく似てらっしゃると思いました」
「わたしと?」
ノエルは驚いた表情を見せた。彼とユークリッド公爵は血が繋がっていないからだが、それをエーリエは知らない。よしんば、知っていたとしても、同じことを言っただろうが。
「それで、今日は……」
「ああ。わたしを助けてくれた礼はまた後でさせて欲しいんだが……明日、時間はあるだろうか?」
「え? はい。だ、大丈夫ですが」
「明日、剣術大会があって」
「!」
「君に来て欲しい」
そう言ってノエルは懐から封書を出してエーリエに差し出した。エーリエは恐る恐るそれを開けて、中のメッセージカードを見る。それらはなんだか見るからに「高そう」だとか「凄そう」にエーリエには思える。質の良い紙――彼女の家にある書物はみな表面がざらざらで文字も滲んでいるので――に滑らかなインクで何やら書いてある。それだけで、どきどきと緊張をした。
「剣術大会……?」
その用紙には剣術大会の知らせと、何やらよくわからない番号が書いてある。そして、サインを見ればどうやらノエルが発行したものらしいとエーリエはぼんやりと気付く。
「それがあれば、金は払わず入場出来て、決まった観覧席に座ることが出来る。良かったら、来てもらうことは出来ないだろうか。わたしが迎えに来られれば良いのだが、それは少し難しくて」
「あっ、そうですよ、ノエル様。すぐ、すぐお帰りになって、ゆっくり眠ってください!」
「来てくれるだろうか?」
「は、はい……」
正直なところ、少し怖い。人がたくさん集まると聞いたし、観覧席と聞いてもまったくイメージも出来ない。だが、エーリエは仕方なくそう返事をした。
「ありがとう。剣術大会の前に城下町に一緒に行きたかったのだが」
「だ、大丈夫、です。その、王城までも行きましたしっ……」
「ああ……そうだな。うん」
ノエルは少しだけ残念そうな表情を見せる。エーリエは困惑して、何かを言おうとしたが、うまく言葉を選べない。違う。そうではない。自分はノエルと城下町に行きたかったのだ……それを伝えようとしたが、エーリエの言葉を遮るようにノエルが口を開く。
「それから、わたしの家に来てくれたようだな? その後に、訓練所に足を伸ばしたと聞いた」
「!」
「すまなかった。模擬戦をしていたので、なかなか君に気付けなくて。だが、御者の話では、君は案外とすぐに帰ったようだったので……何か、急用でも思い出したのかな」
そのノエルの言葉は、何かを探るような響きを伴っている。御者の話? それは、貸馬車の御者のことなのだろうか。ノエルは一体どれぐらい何を調べたのだろうか。そのあたりはよくわからないが、自分は彼に暗に責められているのではないかと思い、エーリエは「えっと、あの、えっと……」と、もごもご言いながら俯いた。
「君を責めているわけじゃない。何かわたしの不足で……嫌な思いでもさせたのだろうか」
「ちっ、違い、ますっ……そのっ……」
ノエルはエーリエの言葉を待った。エーリエの瞳の端には涙が浮かぶ。何を伝えたら良いのかとぐるぐると頭の中をあの日のことが渦巻いた。それらをどうにか言葉にしようとしたが、あの時に抱いた感情を言葉にすることは難しいと思う。それに、ノエルに言ってどうなると言うのか……葛藤があまりに大きくて、エーリエは口を開けては息を発してまた閉ざして、と繰り返す。だが、ノエルは辛抱強く彼女の言葉を待った。
やがて、エーリエは意を決し、震える声を発した。
「わ、わた、し……そのっ……みっともない格好で、お伺い、したので……」
言葉にすれば、音として自分の耳に戻って来る。ああ、言ってしまった。黙っていればよかったのに……その後悔の念が膨らんでいき、どんどんエーリエの声は小さくなっていく。
「だっ、だから、その、明日も……その、新しい服は買ったのですが、きっと……その……集まられる方々の中では……浮いて、しまうかと……思いますので……」
そこで、エーリエの言葉は切れた。しばらく、ノエルは続きを待っていたようだったが、エーリエにはそこまでを伝えるだけで精一杯で、俯いて口を引き結ぶ。ノエルからの視線を感じたが、それ以上彼女は口を開かなかった。
「……ああ、そう、そうか」
ノエルの声。その言葉から彼の感情は伝わらない。エーリエはぎゅっと瞳を閉じた。こんな理由を口にするなんて恥ずかしい。嫌われないだろうか。今更、そんなことをと笑われないだろうか。最初からそうだったのに、何をいまさら、と。いや、きっとそう思うに違いない。あるいは、そんなものは平民なら仕方がないのではと言われるのではないか。ノエルの人柄や考え方はともかくとして、エーリエは自分を否定することをぐるぐると考えてしまって、顔をあげることが出来なくなった。
そんな彼女を前にしたノエルは何やら考えこみ、いささか重たい空気が流れていた。だが、どうやら彼は何かを決めたようだった。
「わかった。エーリエ、明日は貸馬車もきっと忙しくて、会場と貸馬車屋の往復ばかりになると思う。もしかしたら長時間待ち、ということもあるかもしれない。だから、わたしの家から馬車を貸そう」
「えっ、そんな、申し訳ないです、いいです……」
「いいや。わたしが招待をしたのだから、君は気にする必要はない。それに、羅針盤を作ってくれた礼すら何もしていないので、それぐらいはさせて欲しい」
ノエルはそう言うと「時間がないから」とテキパキとエーリエに指示をした。まるで、部下に仕事の指示をするような彼の様子にエーリエは驚き、慌てながら近くにあったペンと紙で走り書きをした。もはや約束ではなくそれは命令で、任務のようなものだとエーリエは思う。
「時間がないので、そろそろ失礼する」
そう言ってノエルは少し慌てたようにランタンを手に持った。エーリエは「火をつけますね」と言ってランタンの蓋をずらした。気付けば、エーリエとノエルの距離は相当近づき、彼の息遣いがエーリエの耳に届く。
(えっ、えっ、あのっ、その……)
こんなに近づいたことはなかっただろうか。王城で解呪をした時も、確かにここまで近くはなかった。彼の手をあの日握ったけれど、こんなに顔は近づいていなくて。
エーリエの鼓動は高鳴る。こんな自分は知らない。こんな風に、誰かと近づいただけでどきどきして、呼吸をすることがままならなくなるような自分は知らない……。いつも、自分はどうやって息をしていたのだろう。そのことすら忘れ、彼女は「はあっ……」と大きく息を吸い込んだ。
「エーリエ」
「はい?」
「髪が、ランタンに入る」
見れば、確かにエーリエの耳からさらりと髪は流れ、火をつけようとしていたランタンの蓋の部分に触れてしまっていた。ノエルはその髪に指を軽く絡ませ、すっと彼女の耳の方へと持っていく。たったそれだけの動作に、エーリエは頬を紅潮させた。
そうっとノエルを見上げると、ノエルの端正な顔立ちがそこにある。今まで何度も見ていたはずなのに「そのこと」に今ようやく気付いて、エーリエは目を瞬いた。
(もしかして、ノエル様って……)
顔が、良いのかもしれない。良いという言葉はおかしいかもしれないけれど……。
それまで、エーリエは人の顔についてどうこう考える余裕はなかったし、それこそ美醜のようなものを考えたことはあまりなかった。更には、一応「かっこいい」という言葉を知りながらも、そうである「モノ」を彼女はよくわかっていなかった。
だが、今ならわかる気がする。きっと。きっと、勘違いではなければ、彼はそうだ。かっこよいのだ。エーリエは彼を見上げて、ぼうっとする。ノエルは彼女のその様子を訝し気に見つめ「エーリエ?」と声をかけた。
「あっ、ごめんなさい。火をつけますね」
はっとなって、慌てて呪文を詠唱するエーリエ。彼女は火の魔法が得意ではないため、小さな炎を生み出すだけでも呪文が必要だ。だが、ノエルはそれに文句を言わずに静かに待ってくれた。
ぽっ、とランタンの中の蝋燭の芯に炎が灯る。ふわりと温かさを顔の皮膚で感じて蓋をしめ、エーリエは数歩下がった。
「ありがとう。では、明日」
そう言ってノエルは彼女の家を出て行った。パタン、と閉まった扉をしばらく見つめて、それから深いため息をつく。
「ああ、気づかなかったけれど……ノエル様って……」
きっと、かっこよいのだ。ようやくエーリエは理解をした。そう言えば、訓練所に集まっていた貴族子女たちが言っていたではないか。素敵だと。かっこよいと。それを、剣の腕前の話だと勘違いしていたことを、やっと彼女は理解をした。
「だったら、余計に……」
自分のような者には、本来手が届かない相手なのだ。そう思って、少しだけしょげる。だが、何にせよ明日への招待を無下にすることはない。仕方がないので、明日はちょっと早く起きて準備をしよう……そう思いながら、どっどっど、となんだか早い鼓動を落ち着かせるため、ぎゅっと手を胸の前で組み、静かに俯いた。