16.事故
聖女は現在王城の離れの一室で暮らしている。その日の彼女は、午前に国王との謁見。それから王城を出て神殿に行って洗礼を受けて昼に戻って食事。それから、マナーの教師が来るはずなのだが、それまでには時間がまだ少しあった。
しかし、自室で待っていると、彼女をもてはやす人々が絶え間なくやってくる。やってくる貴族たちは、若干この国の貴族の中でも斜陽――要するに少しばかり立場がよろしくない、例えば領地経営が傾いている――の人々が多い。聖女である彼女になんとか懇意にして欲しいと、息子を紹介したり物を贈ったりとで、それらにいささか彼女はうんざりしていた。よって、部屋を飛び出して王城の中を闊歩する。
「はあ~! 王城は本当に窮屈ね……」
彼女はまっすぐな金髪に緑の瞳を持ち、すっきりとした顔立ちの美人だった。とはいえ、平民の生まれゆえ、化粧っ気はなく、王城から与えられた神官服に身を包んでいた。それでも、彼女はどこかしら清楚な雰囲気を醸し出しており、十分に美しく見える。実際は清楚というよりはいささか元気すぎるきらいがあるのだが……。
辺境の村で生まれた彼女は、物心をついた時には誰に教えられることもなく治癒魔法を使えた。最初は小さな傷を治す程度だったが、12歳、15歳、と年齢を重ねるにつれ、どんどん力が強くなり、ついにこの度「聖女」として王城に召し抱えられたというわけだ。
彼女は王城に行くことを最初嫌がっていた。しかし、王城側から出された条件は相当「良かった」ため、悩んだ末にそれを受け入れた。自分が王城に行けば親兄弟がこの先困ることもなく生活を出来るし、正直なところ少しは王城を見てみたかった。そんな好奇心で人生を変えるのはどうかと思うが、ずっと辺境で育っていた彼女にとって、王城付近で見るもの何もかもが新鮮だったし、それは悪くなかった。とはいえ……。
「どこに行くにも、あんなふうにいちいち持てはやす人々と一緒にいるなんて息苦しいわ! 一人にして欲しいものよね!」
ぶつぶつ呟いて歩いていると、見たことがないエリアに出る。その付近は騎士団たちが良く使うエリアだ。屋内の訓練所、屋外の訓練所、それから高い壁がいくつか立っている。それも訓練に利用をするものだったのだが、彼女はそれを不思議に思う。どうして壁のようなものが王城のはずれにいくつも立っているのだろうか、と首を傾げるだけだ。
彼女は数人が固まって何かを話し合っている様子を見つけた。一体何をしているのだろうか……そう思ってじっと見ると、そこに知った顔が一つ。
「あら? あそこにいるのは……ノエル様! ノエル様!」
そう叫んで手を振る。どうにも彼女は自由奔放すぎるところがある。が、彼女の声に気付いたノエルは、丁寧に頭を下げた。
「これは、聖女様」
そこには、ノエルと数人の騎士、それから何かしらの作業員が数人集まっていた。彼らの中心には、試作品の投石機が何台も並んでいた。仰々しい武器にあまり彼女を近づけたくないな、とノエルは思ったが、そんな彼の思惑はお構いなしに聖女は無邪気に駆け寄る。
「こんにちは。何をなさっているんですか?」
「ああ、今、投石機の調整を行っていまして」
「とうせき……?」
「辺境地を守るのに、今のこの国では兵力が不足しています。ですが、壁の上からの投石機を増やせば、戦力は飛躍的にあがります。そうは言っても、今までの投石機には大きな欠点があって……ああ、申し訳ない。そんな話はあなたにするようなことではなかったですね」
「うーん、よくわからないですが、大変なんですね!」
朗らかに笑う聖女。なんだか適当だな、とノエルは困惑の笑みを浮かべた。そもそも聖女とはいえ、彼女は治癒魔法の使い手。「聖女」という言葉でイメージをするような、慈悲深く慎ましやかな印象とはいささか違う気がする。
(エーリエが魔女らしくないように、この方も聖女らしくないな)
と、口に出すことが憚られるようなことを思うノエル。
「何にせよ、ここに近づくのは危険です。どうぞ、城内にお戻りになりますように」
「はぁい。あっ、そういえば、マールト様は今日は……?」
「ああ、マールトですか。今は第三訓練所にいると思います」
「だいさん……それはどこにありますか?」
「うーん……では、途中までご案内しましょう。ちょっと、ここを離れる。引き続き作業を頼んだぞ」
「はい!」
ノエルは人々にそう言うと、聖女と共に歩き出した。彼女は屈託なく笑って「正直なところ、わたしを聖女様聖女様ともてはやす方々はうんざりで……」とノエルに言う。それには彼も苦笑いをせずにはいられない。
「まあ、聖女様という存在は、まあまあ伝説級ですし」
「それに、ノエル様やら何やら、こう、爵位? 爵位みたいなものが上の方に、そうやって敬語で話されるのも慣れません!」
「それはお許しいただきたい。聖女の肩書きは、我が公爵家よりも上のものと決まっていますから」
その言葉に納得が出来ないのか、聖女は少し唇を尖らせる。
「でも、マールト様は……」
マールトが何を言ったのか。ノエルは彼女の言葉に興味をひかれた。が、それと同時に、彼の斜め後ろを歩く彼女を振り返った視界の端で何かが動く。
「……!?」
次の瞬間、ノエルは完全に背後を見た。それは、先ほど彼がいた場所に集まっていた人々の叫び声がかすかに耳に届いたからだ。本当に一瞬のことで、彼はほとんど反射的に動いた。見えたのは、何かが飛んでくる様子。見えた瞬間に「何」なのか、彼の脳は正解を導かなかったが、それは投石機から放たれた石だった。一体何故、とか、何がどうして、とか。そんな感想すら彼には浮かばない。ただ。
「くっ……!」
ノエルは、聖女を自分の肩で突き飛ばした。聖女は驚いて「えっ」と声を出しながら、体が斜めになり、横倒しになって床に倒れた。一方、彼女を突き飛ばしたノエルは、彼女がいた場所に体がめりこんで……。
「ぐうっ……!!」
飛んできた石が、ノエルの背にめり込む。言葉に表せないほどの痛みに体を貫かれたように、ノエルは低い声をあげて、弾かれたように数歩移動をして倒れた。聖女は何が起きたのかよくわからないまま体を起こし、少し離れた場所に倒れたノエルを見て、叫び声をあげる。
「きゃああああああ! ノエル様、ノエル様!」
響く聖女の声。そして、投石機の方から走って来る者たちの声。ノエルは、まるで全身を覆いつくすような痛み――本当は一か所の痛みなのだが彼にとっては体全体の痛みに感じられたのだ――に気がとられた。その人々の声が自分を心配している声なのだと認識できないまま、ずくん、ずくん、と響く熱と痛みに耐えかねたように、ノエルの意識は閉ざされていった。
その日、エーリエは森で薬草を大量に摘んで家に持ち帰り、それらでポーションを作る下処理をしていた。冬になる前に大量に摘んで、保存処理をしておかなければいけない。そして、すぐに使えるように汚れも落としておく必要がある。テーブルだけでなく、床にまで薬草を大量に積み上げて、黙々と作業をしていた。
作業をしている間は、ノエルのことを忘れられる。どうして彼を忘れなければいけないのか、それをエーリエは考えたくなかった。ただ、今は忘れていたい。来週になったら。来週になったら、ユークリッド公爵家に行くから、それまではあまり心を乱したくない……だから、今は忘れてもいいのだ。それが、彼女にとっての唯一の言い訳だ。
ところが、そんな彼女のところに再びマールトがやって来た。だが、彼の様子はいつもとは違う。ドンドン、と強くドアを叩き、礼儀の弁えもなく「失礼する!」と大きい声をあげてドアを開けた。
「あら……? マールト様?」
「エーリエ!」
「は、はい。どうなさったんですか?」
エーリエは、以前から着ていた薄汚れたワンピースを作業用として着ており、手にも顔にも薬草や土をつけたままだった。だが、そのことを彼女は忘れて、奥の部屋から慌てて出て来た。マールトの声があまりにも切実なものだったからだ。
「君の力が必要だ。助けてくれ!」
「えっ、え、え、一体何のお話ですか……?」
「ノエルが……ノエルが死にそうなんだ……!」
「ええっ……?」
突然のマールトの言葉に、エーリエはどうも理解が追い付かない。そこへ、マールトはもう一度同じ言葉を告げた。
「ノエルが死にそうなんだ。助けてくれ……!」
投石機のテスト中、片付けようとしていたものの安全装置が外れ、伸ばしたばねが離されたのだと言う。それは、構造上問題があるということで、最初から「これは駄目だ」と見送られたものだった。片付けようと動かしていた折、本来「あるべきではない」人が通る方向を向いていた。そして、悲しい事故が発生したのだと言う。マールトは「本当に信じられない話だが。偶然に偶然が重なってしまったようだ」と言って深いため息をついた。
その場にいた聖女が彼の治癒を始めたところ、何かの呪術的なものに阻まれており、聖女の力があまり効かないのだと言う。だが、それでも彼女の力のおかげで、なんとかノエルは「死なない」状態を保っているらしい。とはいえ、それも時間の問題。聖女は何かしらの訓練を受けたことがあるわけでもない、肉体的にはただの女性。そう集中をしてずっと彼の治療を続けることは難しい。
「背骨が折れて、内臓も強く打ってしまったんじゃないかな……聖女の力でなんとか保っているんだけど、そこまでだ。それ以上の内部の修復が難しいらしくて。だが、それはそうなんだ。ノエルは、もともと治癒術師の力が効かない。彼が怪我をした時は、君のところから購入したポーションで治していてね……だが、今はポーションを飲ませてもむせて息が出来なくなってしまうし、ほとんど効かないんだ……」
マールトはエーリエを乗せて馬を走らせる。出来るかどうかわからないが、エーリエに解呪をしてもらって、その上で聖女の力を使えないかと考えた、という話をする。
エーリエは、自分にそんなことが出来るのかどうかはわからなかったが「例のポーション」や、解呪の道具を入れた袋を抱えて、馬の上で縮み上がっていた。解呪に使う道具は、あと1回分しかない。どうしよう、大丈夫だろうか。自分が力になれるのだろうか。いや、なれなければノエルは死んでしまう……ぐらぐらと彼女は同じことを堂々巡りに考え、表情が硬くなってしまう。
(ああ、お願い、ノエル様、ノエル様……!)
馬鹿だ。どうして自分は彼に会いに行くことを一日二日、一週間と伸ばしていたのだろうか。いや、もし会っていたからといって回避を出来たわけではないが、それでも……。
その後悔で胸の奥がちりちりと痛む気がする。悲しさに押しつぶされそうになって、目の端が熱くなった。だが、それよりも彼が無事であることを願う方が先だ、と彼女はぎゅっと瞳を閉じ、両手で道具を強く握りしめた。自分の祈りなんぞに価値があるわけではないと知っていたが、それでも今はそれが精一杯だ。
マールトは馬を荒っぽく走らせ、予想以上の速さで王城に辿り着いた。なんだかエーリエも緊張をして、うまく呼吸が出来ない。彼に手を差し伸べてもらって馬から降り、初めての王城に彼女は足を踏み入れた。