14.恋の芽生え
エーリエは森の家に戻ってからも、気持ちが沈んでしまって静かだった。何か夕食に作らなければと思っても、どうにも気分が乗らない。
(わたし、どうしてしまったのかしら……)
椅子に座って、ぼうっとテーブルの表面を見る。目の焦点があっていない。
今日は沢山の人がいた。その表情を見ているだけで、なんだか疲れてしまった。やはり、城下町でもにぎわっている場所だとか、どこやらに自分が一人で行くのは早かったのかもしれない。そう。疲れてしまったのだ。だから、訓練所から、帰った……のではない。
自分が着ている服を見る。ここに住んでいるだけならば何も問題がなかったその服は、あそこではなんだかとても場違いだった。訓練所でノエルの模擬戦を見ていた貴族令嬢たちは、みな美しいドレスを着て、顔はどうやら化粧をしているようだった。ようだった、というのは、彼女は化粧というものをよく知らないからだ。ただ、唇に何かの色を塗っているのだということだけは見てわかった。そうだ。誰もかれも、化粧をしていた。あれが、書物にあった「化粧」というものなのだろう、とぼんやり考える。
「ノエル様は……ユークリッド公爵家の、ご子息ですものね……」
そっと声に出して呟くと、胸の奥がちりりと痛んだ。エーリエは、自分が「当たり前のことで傷ついている」という自覚を持っていた。そうだ。当たり前の話なのだ。
自分と彼は、生きている環境が違う。そんなことは最初からわかっていた。いや、わかっていたつもりだったのだ。そして、そのことを彼女自身はなんとも思っていなかったはずだった。
なのに、どうだ。自分は貴族令嬢たちと自分の身なりを比べて、恥ずかしいと感じて。今更、ノエルと自分の立場が違うことに、なんだか傷ついている。ああ、馬鹿だ。そんなことはわかっていたことなのだから、今更傷つく必要なんてどこにもないはずなのに……そう思いながら立ち上がり、寝室に向かう。
寝室には小さなクローゼットがある。扉を開くと、エーリエが普段着ている服たちが並んでいた。彼女は大体無地のワンピースや、白っぽいシャツにスカートを着て、その上に外套を羽織っている。どれを見ても似たような服ばかりだったし、そもそも枚数もない。
「……はあ……」
そして、どれも、少しくたびれている。けれども、それで困ることなどなかった。だって、どれもまだ着られるし。丁寧に洗って、丁寧に干して、丁寧に片付けている。埃もブラシでとっているし、大事に扱っているつもりだった。どれも穴なんて空いていなかったし、毛羽立ちもほとんどない。これの何が悪いのだろうか、と思う。だが、反面「相応しくなかったのだ」とも感じるのだから、どうしようもない。
パタン、とクローゼットの扉を閉めて、姿見に視線をやった。ああ、自分の顔は、どうなんだろう。これは、可愛いのだろうか。あの日、可愛いと言ってくれたノエルの言葉は、女性だから可愛いのだと言っていた気がする。
しかし、エーリエは化粧をしたことなぞ一度もない。良い匂いも特にしない。髪を結っても後ろで一つ結びにする程度で、普段は下ろしたまま過ごしている。あんな、様々な形で結い上げたり、装飾品をつけたりするわけでもない。貴族令嬢たちの姿を思い出しながら、彼女はため息をつく。
(もし、そうしたとしても、生まれたお家がもう違うんですもの)
彼は貴族で、自分は平民。しかも、城下町にすら住んでもいない、森の魔女だ。彼と釣り合うはずはない。
(わたしは、ここにノエル様がいらしたら、ただ、お茶を淹れて、楽しくお話が出来ればそれで良いのに)
しかし、そのための羅針盤は渡せなかった。渡せないどころか、いらないと思った。壊してしまおう、捨ててしまおう、とまで激情に浮かされた自分を彼女は忘れていない。
どうしてそんな風にカッとなってしまったのだろうか。会いたいのに、会いたくない。でも、本当は会いたい。彼の、静かな佇まいが好きだった。穏やかな声が好きだった。彼の言葉はエーリエを傷つけることもなく、いつも配慮がされていた。一緒にいて心地良いと思えた。そうだ。自分は。
「ああ……」
ようやく、理解をした。
自分は、ノエルのことが好きなのだ。エーリエは頬を紅潮させ、瞳の端に涙を浮かべた。そして、姿見を見て、生まれて初めて自分の泣き顔をしみじみと見る。
「こんな風に、泣くのね。わたし。ノエル様のことを思って、こんな風に、わたしは泣くんだわ……そうなのね」
鼻は赤くなり、目も赤くなり、涙は、これまた赤くなっている頬を伝って、あごに向かって流れていく。エーリエは鏡を覗きこむ。そうか、こんな風に泣くのだ。目の端に涙がじんわりと浮かび、震えている。そして、自分のまつげとまつげの間を埋めるように水滴の膜が張られているのを見て、なんだかもっと泣きたい気持ちになった。
次の日の朝、ノエルは羅針盤を持たずに森に行こうと支度をしていた。エーリエが無事ならば良いのだが……と、彼女が本当に森に戻ったことを知っているくせに、そんなことを思う。それらは言い訳だ。
(ただ、一目だけでも)
本当ならば、確認をしたかった。どうして自分に声をかけてくれなかったのか。どうして帰ってしまったのか。用事はなんだったのか。きっと、自分に「魔女の家に行く道具」を作ってくれたのだろうとは思うが、それでも彼はエーリエの口から聞きたかった。もしかしたら、何か急用を思い出して帰っただけかもしれないが、それならばそれで、そうだと彼女の口から聞きたい。何よりも。
(エーリエに会いたい……)
マールトに羅針盤を返してからというもの、ノエルは日々そわそわとしていた。それまで、羅針盤を自分は持っていて、いつでも好きなだけエーリエに会いに行けた。実際はポーションの受け取り以外はほんの3回ほどだったが、それでも。
失ってからわかる。自分は取引に行っていたはずなのに、ただ、エーリエに会いにいっていたのだと。
森の静けさ。あの家の中の穏やかな空気。そういった環境を味わいに行っていた、と言えば、間違いはない。だが、それではまったく足りない。そこにエーリエがいるから彼は行っていたのだ。
(わたしは馬鹿だ。誰もいない、あの家で2人きりでいたあの時間が心地良いなんて……)
理由はエーリエだ。彼女がそこにいたからだ。
彼女は自分の顔が見えなくとも、見えていても、何も態度に変わりがない。いつも嬉しそうにそっと微笑む、彼女がまとう柔らかな空気が好きだ。あの雨が降った日、もっと雨が降り続けば良いのにと最後には思いながら、名残惜しい気持ちであの家を去った。そこに自分がいる用事がなく、ただ、雨が止むだけ、という言い訳をして滞在したあの時間。大した話をしたわけではない。だが、大した話ではないからこそ、それがなんだか嬉しかった。ずっと、あの時間が続けば良いと思えるほどに……。
「よし、行こう……」
そうこうして家を出ようと、彼がユークリッド公爵家の2階からエントランスに繋がる階段を駆け下りている時だった。ポケットに入れておいた、遠距離で連絡を取れる魔道具がブルブルと震える。それは、騎士団長になってから持たされたもので、この国の各騎士団長と王城のやりとりを可能にする希少なものだ。
ポケットからそれを出して、ノエルは応じた。
「はい、ノエル・ホキンス・ユークリッドです」
『こちらは第一騎士団長リンド・カーファル・スーザットだ。ユークリッド第三騎士団長。今すぐ王城に来てくれ』
「何かあったんですか」
『聖女様が王城に召し抱えられた。すぐに、王城での受け入れ儀式を行う。ユークリッド公爵にもお伝えして、同行をお願いしてくれ』
「!……わかりました」
タイミングが悪い、と思いながらノエルは小さくため息をついた。
「仕方ない……森には明日行くか……」
今日は、午後から遠出の予定がある。仕方がない、と軽く舌打ちをして、ノエルは父親と共にユークリッド公爵家を出た。勿論、森に行ってエーリエのところにたどりつけるかどうかも謎ではあったのだが……。